昔、Perlなるプログラム言語ありけり。
いや、いまでもあるんだけど、あたしゃこれが嫌い。
プログラム言語ってのは人間が設計するもんだから、きちんとした設計図があって明確な解釈体系がある。自然言語との違いはそこで、かつてはその言語の機能云々より、その設計図と解釈体系に簡潔で破綻がないものがありがたがられる世界があった(今もあるのかも知れないけど)。ソフトウェアや言語に関して「美しい」だの「エレガント」だのの形容詞を使う世界である。
しかし、このPerlって言語は、まったくそういうものではない。 messyなんだな。
「美しい」言語は法則性があるんで、実は言語そのものをきっちり覚える必要はあまりない。その法則性をなんとなく掴んでいれば、あとは確認するだけでいいのだ。法則性のよって来るところは、言語設計から、または、コンピュータというハードウェアそのもの、と、違う方向性があって、Cなんてのはむしろ後者、したがって昔は観念論好きの方々に「汚い言語」と陰口を叩かれまくりもした。
しかし、Perlに比べれば、そのCでさえ、綺麗なもんである。
Perlは大きい。 ごちゃごちゃ。 法則性がないからどうでもいいような煩瑣な記憶事項がある。
Windowsと同じだな。
しかし、これが覇権を持っている(持っていた?)わけなのだ。となると、使わなければならないことも多々ある。
うっとおしいことこの上ない。 でも、役に立つのは確か。
はて、そういう意味では、人工物のくせに、自然言語に似てないか? と、ふと思う。
自然言語に対する文法ってのは後からでっち上げたものだから破綻があるものも多く、文法そのままに書いたり喋ったりしたら誰にも相手にされなかろう。実際、効率も悪かろう。精神の快も妨げられよう。
嘗ての「美しい」言語に慣れていた者が、Perlを嫌うのは「美しい日本語」論者の嘆きに似てないだろうか。
その気持ちは僕はわかるつもりだが、だからといって今ある日本語を「美しい日本語」に置き換えるべきだとはまったく思わないわけだ。
生き生きしてて、複雑で豊かな方が楽しいもーん。
なんてなことを考えたら、もしかして日本語と付き合うようにPerlと付き合ったら、楽しくはないまでも、精神の不快はいくぶんか和らぐのではなかろうか、と思った。
しかし、なによりの謎は、そんな感じで作ったPerlのプログラム(スクリプト)が、とりあえずも動く、ってことだよな。
文法なんか無視でもとりあえず通じるナマなコトバの世界に似ているのかなあ。
なぞ。