ふと思い出すきっかけがあったんで、読み直してみた。 今だったらどう感じるだろうか、ってところで。
作者名はほんとは書きたくないんだけど、J.D.サリンジャー、この短編は『ナイン・ストーリーズ』に入っている。なぜか新しい文庫が買い直してあって(当然昔読んだのは手元になんかない)、訳に若干手が入ってるなあという。まあ、野崎孝の訳って根本的にサリンジャーには合ってないような気がするんだが。それはそれとして。
で、印象はといえば…最初に読んだときとやっぱり変わらなかったな。
こういう話を読んで心を揺すられるというのは、というか、何かに心を揺すられるというのは、起きてしまうことなんで、それ自体はしょうがないことだと思う。そういう話ができちゃう、というのも、まあ、そういう人がいるんだろう、ということですむが。
積極的に人に薦めようって気にはやっぱりならんなあ。 まあ、業界的にはいろいろ尾鰭をつけてネタにする向きもあるんだろうが、やっぱり、そういう部分は積極的に取り上げなくても話が成立するような作物を提供して欲しいよな。
これがBeatlesだと、Beatlesの作物はどんな曲や映像もある種の『哀しさ』に溢れていて、それに心を揺すられてしまうのだけど、それ以外の刺激がこれまためちゃくちゃあるわけなんだよね。だから、日々向かい合って刺激を受けたり話のネタにしたりできる。
でも、好きな人は尋ねてみると結構『そう、哀しいね』って答えてくれたりするんだけど、もうそれはそれだけでおしまいな質のことであって。
たまに読むけど語らない、とか たまに聴くけど語らない、とか
そうしておくほうがいい対象ってあるんでないかなあ。
って語っちゃったけど。
しかしこの人の弱々しく躁鬱っぽく落ち着かない文章(つっても翻訳)、読んでてなんか自然に感じてしまうことが多いだな。そのことのほうが自分にとっては問題なのかも知れないけど、それは自分で気を付けるしかない話だし。
省略や飛躍という名の黙説法。たぶんそこで隠されてるものをどう取っても読んでるほうは納得できちゃう仕組みなんだろうな。
語らない方がいいのはそのせいなのかな。