「LEFT ALONE ― 持続するニューレフトの68年革命」という本のレビューを書いた。
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](http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=2444430&id=107500)
3.57点 ( 7人中)
2005明石書店〓 秀実
津村喬はいまは気功家で、気功の実践書以外には最近の著書はないらしい。しかし、この人の考えのスタンスには非常に共感を覚えた。
《国語=批判》はもちろん《文学=批判》、《音楽=批判》、《アート=批判》でもある。文化や精神、ということは、当然、日常のコミュニケーションから性の領域に至るまで、あまねく国家によって介入を受けている、自由に豊かに生きるには、それを意識しなければならない。
個人のリラクゼーションと社会制度の批判は鶏と卵の関係に近いが、おそらく自身の身体の解放を第一義にしない思想は、実行されれば必ずイデオロギー化して「より(気持ち)よく死ぬための思想」になるだろう。より(気持ち)よく生きるために考えるには、身体性を無視しないことが絶対必要だと思う。
以下、津村の発言の一部を抜く。革命と思想と身体性を包括した著書はおそらく書かれないだろうと思われるので。
―ジャーナリズムから身を引いたことについて
「やっぱり、具体的なスタイルの変革に取りかかったからですね。つまり、僕にとっての最大のモチーフは身体性ですね。身体性から政治を打つというか、逆に言うと自分の身体存在の中に権力を発見するということ。そして、その権力性をほどいていかないと、政治権力そのものの権力性をなくせないというのが、何となく67~68年頃から見えてましたからね。」
―"緊張の鎧"
「だから、今では非常に簡単に言える面もあって、要するに人が社会に適応するために着てきた"緊張の鎧"―これはライヒに通じますけれども―そういう鎧が結局、その人の権力性の基礎になっていく。さらにそれはその人の暴力性や攻撃性の基礎にもなっていくから、そのことを自覚して鎧を1枚1枚脱いでいくプロセスがリラクゼーションなわけですね。だから、リラクゼーションとは気持ちよくなればいいというものではない。つまり、一生にわたる自分の緊張の鎧を解けるかどうかっていうことが問題なわけです。例えば、会社に入ったら社員教育の中で強烈な演技指導を受け、その会社に通用するような鎧を着せられる。そういう、社会に適応するために身につける鎧、その中に実は今日的な権力の本質があるということに一番注目してきたので、その鎧をー束の間ほどいて、また着込むのではなくてーほどいていくベースを自分の中に持てるということが、権力を掘り崩していく一番具体的なプロセスだというふうに思ってるわけですね。」
―道教、毛沢東、ニューサイエンス、気功、オウム真理教
「…。それは、毛沢東を生み出したベースグラウンドの一つは、道教だと思うからです。毛沢東の最初の奥さん、楊開慧って人の父親が道教学者でね。だから、毛沢東はすごい道教的な素養があるわけで、その他の儒教的共産主義者とは明らかに違う、非常に奔放などころがありますよね。それを考えると、竹内実さんがウェーバーを借りて"官僚制とカリスマ"ということで中国共産党を説明しようとしたけども、そのまま"儒教的共産主義と道教的共産主義"っていうふうにも説明できるわけです。だから毛沢東がいいんだ、って直結させる気はないけれども、毛沢東思想と伝統思想のつながりという側面はかなりあって、『矛盾論』にせよ何にせよ読んでいると、伝統思想の影響はいくらでも見つかるわけですね。だから、そういうなかで理解していかないとね。日中戦争からのこの50年史の中で毛沢東を位置づけることも一つの作業ですけれども、それこそ紀元前からの流れの中で生み出されてきた人には違いないんだから。そうでなけりゃ、あんなに10億の民が幻想を抱くはずないですよね。」
「気功師の中には、あそこまで行かないけど、ほとんど同じような"ミニ麻原"がいくらでもいますよ(笑)。それは結局、神秘主義、権威主義、商業主義という問題ですからね。それに対して歯止めを持たずに古いことをやりだしたら、全部オウムと同様になりますね。それは、中国の気功でもかなりそうなんです。つまり、毛沢東亡き後の70年代後半以降、毛沢東の身代わりとして、頼れる相手、依存先が気功になったんです。"小・毛沢東"という感じでね。僕が気功と付き合っているのは、その辺のいい面も悪い面も引き受けた上でなんです。自分のやりたいことだけ考えれば、別に気功に付き合う必要はあまりないんですけれども。 でも、その中に中国のダイナミズムとして―人々は開放経済の呼びかけだけではとても不安で、堪えられないわけですよね。何か宇宙の中心はないのかってね(笑)。それを与えてくれる人に付いていくっていうダイナミズムがあるわけですね。だから、そういう意味では、毛沢東自身の面白さと毛沢東に依存する人々のダメさっていうのは、別問題、別次元のものですね。それと同じで、毛沢東の代わりに、じゃあ気功に依存しようか…つまり中国では新興宗教が許されないから、日本だったらオウムになってておかしくないようなものが、皆、気功って名乗ってるわけです。それが法輪功まで行き着いて問題がはっきりしたわけですね。で、法輪功が非合法化されたことで崩壊したわけですね。あれは2度目の毛沢東の死なんです。」
「つまり、ある意味で共産党員が何百万人も付いていっちゃったっつうのは、今の金儲け万能の風潮より、前の時代の方がいいと思ってる人たちがいたからですよね。昔は道徳を説いてたなとか、それぞれ皆に目標があったなとか思ってるわけですよ。そういうところに何かポッと与えて―まあ一種の集団催眠ですね。だけど、法輪功にしても、今の社会に対する冷静な批判として出てくるわけではないから、それもまた低次元のものではあるけれども、少なくとも"このまま金儲けだけではやっていけない"という意識を反映したものであるから、何千万の人が付いていっちゃう。それはやっぱり、毛沢東なき毛沢東主義なんですね。それがまた崩壊した。それで、上海の若い世代の学者が『社会精神病学実践』っていう本を出して、気功も全部、社会精神病理で読み取ってるわけですけど、それは僕にもよく分かるんですね。 僕は、実はこれまで一貫して言ってきたわけですけど、気功で超能力を持ちたいとか、病気をひとさすりで治したい(笑)というのは、すごい病的なことですよね。だから、それが病的であるということの自覚がない人は気功をやっちゃいけない。"こうなりたい、ああなりたい"っていうこと自体が一種の病気だと理解した上で、その自分の病気と付き合うようにして気功をやんなきゃいけない、ってずっと言ってきたわけです。だから、それは毛沢東に対する態度と同じであってね。毛沢東は素晴らしいが、素晴らしいと思う心は病気だっていう(笑)、そういうところから出発しないと本物は見えない、ということだったんですね。」
「浮くというような話はかなり低次元の話なんだけどね。膝のバネで浮くっていうんだったら韓国の丹学であれば、本当に1メートルぐらい飛び上がりますからね。しかし、それは単なるスポーツであってね(笑)、抗重力じゃないですよね。それだけの反射ができる、一種の神懸かり的な自発運動で、そうなっちゃうわけですね。そういうのは別に新しい現象ではなくて、日本の宗教でも、拝んでるうちに飛び上っちゃう人はいっぱいいます。普通の体では考えられないような、いろんな現象はあるわけですよね。 だから、またそれに惹かれるほうがおかしいわけですよね。できたからって、それ自体はどうってことはない。このことはいわゆる超能力でも同じですよね。例えば、薬瓶から中身を抜き出せるといったって、別に蓋を開けて取り出しゃいいわけだし、考えただけで物を動かせるといったって、実際に手で動かしゃいい、っつうなもんですよね(笑)。だから、そういうものを嬉しがる気持ちに病がある。つまり、超能力好きな人は皆、自分に不満なんですね。だから一種の自己否定ですよね。懐かしい言葉だけど(笑)。自己否定が一気に、非常に個人的な、私だけ抜け駆けしたい式の超能力願望に飛躍しちゃうわけですよね」
―《国=語》批判と身体性
「僕らがしゃべってる言葉が―特に僕は、東京・世田谷出身だから、言葉が無理やり標準語として広げられていく。逆にいえば、関西に住んでも関西弁に慣れないしね(笑)。つまり、標準語というのは人為的な言葉として、国が形成される時につくられたんだっていう、明治の言語史のようなものは非常に身体レベルで感じていて―言ってみれば国語人間としてある我が身をちゃんと相対化したいっていう思いがあって、《国=語》という言葉にすごいこだわったわけです。"《国=語》批判の会"という名称は、竹内好さんや松岡洋子さんの60年安保のときの、"安保批判の会"をもじって、70年代はこれだよ、っていう感じだったんですね」
「それが、僕らの中では早大反戦連合の最初のビラ、『ぼくはぼくの言葉で語りたい』からつながってるわけです。あれはやっぱり、革マル・民青がいてビラ一枚すら配れない環境の中でのことだから、その言葉自体にすごい政治性があるわけだけども、言ってる内容は全く政治的じゃないですよね。言ってみれば、体に合った言葉でしゃべれるようになりたい。今まで、親に言われた言葉で生きてきた、教師に言われた言葉で生きてきた。これから会社に言われた言葉で生きなきゃいけない。そういう思いが、すごい強烈にあって、そういうことを本当に素直に吐き出した時に… 革マル・民青の言論制圧下のもとで、皆、共感したわけですよね。だけど、そこを切り離して、綺麗に知的に整理しちゃえば、『反=日本語論』になるっていうことはありますよね。だから、それが本当に、自分の言葉を持ちたいとか、言いたくても言えないでいるっていう人たちに役立つ理論であってほしいという気持ちが、もちろんあるわけです」
「…"緊張の鎧"ということでいえば、精神的なストレスは筋肉の慢性疲労につながるんですね。言葉であれば、一番の典型は顎に出るんです。言い切れなかったことは、すべて顎に残っていくんですね。 顎のツボを押して痛くない人は大体、言い切っている人なんです(笑)。言い残している人は、ツボを押さえるとすごく痛いんですけど、それを放っておくと、いわゆる顎関節症候群で口が開かなくなったり、耳鳴りが起きて突発性難聴につながっていく。若い人に今流行っている突発性難聴は発話不全から来るんですよね。それはまさに《国=語》問題なんですよ。《国=語》が顎や耳の周辺を縛ってるわけですよね。それは、コミュニケーション不全っていうか、《国=語》を使ってはコミュニケーションできないっていう現実があって、それが筋肉に刻まれていくわけですよね。だから、その筋肉をほぐしていく顎の自己マッサージ―これは僕が初めて言いだしたんだけど―で、長年の耳鳴りが本当に治ったり、難聴の人が突然聞こえるようになったりという、たくさんの事例があるんですね。それは、発話の"緊張の鎧"を解いていく―例えば、奥さんと普通に会話できるようになるとかね(笑)―つまり人と人の間に《国=語》が介入しているわけですよね。 その《国=語》の緊張が顎に来てるわけですね。だからこれはもう、とても具体的な《国=語》批判の実践です。だから国家言語が人と人を分裂させるっていう問題が、すごい具体的にあると思うんですよね」
"緊張の鎧"という概念は僕にもピンとくる。
自分にはそれを着れなかった、という自覚があるし、それを身に着けていく人たちを横から眺めていたという経験もあるから。
P.S. 音に関する興味深い記事の多いサイトSOUND BUMにインタビューが載ってました。気功と音、音楽との関連でおもしろい話があります。