集団の結節点にならざるを得ない位置がある。
ある集団が活性を維持しながら持続するには、ここにいる人間はこういう存在であることが必要だというような位置。
そんなこととは関係なくその場所に来てしまう誰かは、自ら求めるものとは本質的には無関係 に、かくかくの存在条件をみたすことを要求される。
みたさなかったらどうなるか?集団がなくなるだけのこと。
もとからそういう存在になることだけを目指してくる人間は、つまりよかれあしかれ権力者である(備忘のため仮に追記)。
ただし、「かくかくの」といっても、互いに矛盾しない定義の束が一つだけある、というものでもあるまい。
定義は山のようにあり、それらのあるものは互いに矛盾しあうかもしれない。
そういう定義の群れが、交代、矛盾、競合、調和しあいつつ人格として現われ、集団の持続に貢献し続ける可能性がある、というのが四次元時空体を移動してゆく個人の興味深いところ。
一人でなく、二人でなく、集団といえば、僕の場合興味があるのは音楽のことに決まっている。
演奏するある集団が、成員を入れ替えつつも、ある有機性を保ちつつ持続する、という場合。
それはバンドでもよいし、なんらかの場(たとえばセッションとか)でもよい。 時間を極端に短くとると、今奏でられているある音、の中にも、位相は異なるが、同様の状況はある。
もしなければ?
例外はあるだろうが、おおむねは演奏者にも聴衆にもつまらない演奏と受け取られ、ほどなく演奏は止んでしまうに違いない。
この辺、荒っぽいが先に行く。
さて、そういう存在は通り一遍の音楽をやっている場合には、音楽そのものからははっきり認識されないことが多いのかも知れない。しかし、音そのものからそういう存在が浮かび上がってくる場合がある。
たとえば、
もちろんMiles Davis。 James Brown。 Rye Cooder。 John Mayall (笑)。
それぞれだいぶ存在の仕方は違う気がするが、みずからが結節点としてふるまい、それを通して、演奏全体に自分の名前をつけることができ、その名前と個人の音楽性を「≒」で結ぶことができた人ではないかと思う。
まあ、John Mayallは…(笑)、だけど、それもありだよね。
一方、こいつはどうもいつも「≒」で結ばれるのに抵抗しているように見えて、「≒」はあくまで「≒」であって「=」じゃないんだそ~、と余計なお世話で言いたくなる人もいる。
たとえば、 Speech。
加藤和彦なんかは結ばれるのに抵抗しているのか楽しんでいるのかよくわからないw まあ実際にはSpeechだって、抵抗なんかしていないのかも知れない。
要するに、ある時点でそいつが属している共同体に、ぶち込みきれないものをこいつは持っているのではないかと思わせるようなところがある、ということだろうな。
Princeなんかもある時期まではそうだったけど。
しかし、僕が思うに、彼などまさに、なんでも自分でやればすべての可能性が出るというわけではない、ということを示す典型のようにも思えるのだけど、それはまた別の話になるし…、長くなっちゃった…、一気に端折ろう。
僕はつねづね、音楽というのは、共同性と、この人ならではという個別性のせめぎあいの場ではないのか、と思っている。
共同性を噛み砕くと、たとえば、伝統、慣習、お作法。 個別性を噛み砕くと、たとえば、交通、歴史。
しかし、さらに噛み砕くとどちらも同じ栄養素にまで分解されるのかも知れず、というか、ある共同性はつねに限定的なものであり、限定からはみ出た別の共同性の徒である誰か、がそこに投げ込まれれば、それは個別性として現われるわけで、その現われそのものが交通であり、刻印の総体が歴史である、と、とりあえず置いておくこともできるけど。
さらに言えば言葉を使った歌をも取り込んだパフォーマンスであり、パフォーマンスを通してすべてのメディアにのりうると考えれば、その、色分け定かならぬ共同性と個別性のせめぎあい全体が文化だと置くことも可能かと。
だからどうしたって? いえ、どうもしません。
有名性と個別性までたどり着けなかったな。
休憩。 続かない。