『時代閉塞の現状』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card814.html
『強権、純粋自然主義の最後および明日の考察』と副題された評論。
魚住折廬なる人物の論文『自己主張の思想としての自然主義』に対する反論として書かれたが、掲載はされなかった。
魚住の論文に見る啄木の「明白なる誤謬、むしろ明白なる虚偽」とは、魚住が、自然主義における自己主張的傾向と自己否定的傾向の共存が、共通の敵たる国家というものに対抗するために政略的に行われた結婚であるとするところ。
自然主義文学に対するその見方は、僕にはなんともいえないところがある。実際(それが勘違いであったとしても)当事者はそのように意識していたかも知れないわけだし、だとしたらそれを魚住がなした「誤謬ないし虚偽」と簡単に決め付けるわけにもいかないから。
そもそも、その元の論文が読めないわけだし、なんとも言いようがない。
書くこと(「文学」という言葉はどうも使いたくないので)に自己否定的傾向を強めるということはあり得ることだと思う。しかし、その自己否定の姿勢自体は、つねに自己主張の結果であろうと思うので傾向の共存自体は僕は否定すべきことだとは思わない。不徹底不完全じゃまずいだろうとは思うが。
逆にいうと、自己主張のために自己否定を徹底すれば、国家という権力の一形態にとどまらず、自分自身もさまざま行使しているような権力にもたどり着くはずだし。
しかしこの文章が今も読めるというのは、そういう前半部分ではなくて、自然主義者がかく主張する「国家への対抗」などは行われたとしてもたいしたことではないし、実際のところはまったく行われなかったではないか、という主張の背景となっている実感を述べる後半部分があるからだろう。
『一利己主義者と友人との対話』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card43031.html
こちらは、A、B二人の遊民の駄話で始まるが、読み進むと、実は一人は歌人であり、歌論的な会話になっていく。
「日本の国語が統一されるときには短歌は滅びる」という認識など、この時代にどっから思いついたんだろうか?
言葉が国語として統一されれば、言葉は透明な記号と化し、差異の戯れがなくなり、書かれたものは明白な目的を持ったものしかなくなり、文学は書かれたものが目的の達成度合いを判定する点数づけの作業と化す、というように、今の時代なら簡単に言い換えられるけど。
(追記) そういえば、『歌よみに与ふる書』の中にも↑の認識に発展させられるような箇所があったような気がする。次は正岡子規かな。