2008-10-02 23:21:00+09:00
日記 . mixi

[今日の一言] 「リアル」の反対語は?

mixi日記から転載 id=951647731

「まったくリアリスティックでない人たちを主役とする一連の出来事の効果は、あくまでリアルなわけだから」(市田良彦)


市田良彦が何某かはここでは重要ではない。

僕は言葉というものは基本的に人に属すると考える。誰かが"I don't believe in Beatles."と言ったとしたら、その誰かがJohn Lennonであったときにのみ意味を持つ、というようなものだ。それがそこまではっきりしていないように見えたとしても、注意をさらに向けていくとやはりそういうところが出てくるものだ。

そういう言葉の属人性を限りなく逸脱しているように見える言葉もなくはない。「私の耳は 貝の殻/海の響きを懐かしむ」という言葉に作者ジャン・コクトーあるいは翻訳者堀口大學の名前が必要だろうか?

僕には、そのように属人性を極小化することが必ずしも良いことには思えないが、そのような言葉があれば当然ひっかかりもすれば、一人うなづいたりもするわけであり。

と、いうわけで、さて。

「まったくリアリスティックでない人たち」というのはこの場合、最初にみずからの反映としてイスラム原理主義を実体視したキリスト教原理主義者、ということになるのだが、全然リアルではない認識からリアルな結果が生まれるというのは、実は、われわれがざらに経験することでもある。

実際には裏切っていない恋人の裏切りを疑い、それを払拭することができずにつきあっているうちに愛情が冷めたと思われてほんとうに裏切られる、とか。この場合の「裏切り」は実際にはないことではあっても、疑う当事者にとっては限りなくリアリスティックなことなのではあろう。

この場合裏切りを問いただす、というのもあまりいい方策ではないだろうし、実は、裏切りの有無を認識することが必要なのかどうかも疑わしい。まあそう思うかどうかは人によるだろうが、いずれにせよ、疑いに促されてなんらかの行動を取るとしたら、それは必ず現実に対してリアルな効果を産むだろうことは想像できる。

ここに「効果」という語が使われることに、注意を促しておきたいものだ。

よく思うのだが、(モノ=コトという状態にある何かとしての)事物に備わる「はたらき」をより注意深く見れば、機能的側面と効果的側面があり、多くの人は、実は「効果」を問題にすべきときに「機能」を問題にしてしまう、ということが頻繁にあるのではないか。いや、「多くの人は」などといわずに、「僕は」と言ったほうがむしろいいのか。

「はたらき」という語は厳密にいえば効果の意味しかないかも知れないので、感触の曖昧な「事物」という言い方をせざるをえないが、上掲の言葉は、事物を機能としか捉えない人たちが見る世界はどんどんリアリスティックでなくなる、といい直すことができないだろうか。

この事態に対する原則的な指摘を行ったのはマルクスだと思うが、言葉にはしてくれたものの、では実際に機能と効果を取り違えないためのハウツウのようなものは、(あたりまえだけれど)彼は書き残さなかった。それは、その危険性を身にしみて知っている、あるいは、マルクスなりニーチェなり、いや別に Beatlesだろうが上掲文だろうが、それらから学んで、あたかも身にしみたかのように理解している誰かが、日々、実践していくしかないことなのだろう。

しかし、そうなのだろうか?

機能と効果と現実の関係をよりexplicitに語っておく必要を感じないでもない。たとえば、機能はリアルではないが効果は機能がなければ発現しない、とか。いや、より一般化すれば機能は効果からレトロスペクティヴに見出されるものではないのか、とか。あるいは、機能と効果は同じ一つの事物の違う側面でしかなく、仮に機能から効果が生まれるとした場合には、効果はより包括的なレベルにおいては機能として現れる、とか。

ところで「リアリスティックでない」というのはなぜだろう?「リアル」の反対語はなんだろう?この場合、その語句を使わないのはなぜだろう?