レビューを書いたので補遺。
悪童日記
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](http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=2444430&id=14920)
4.60点 ( 416人中)
1991早川書房堀 茂樹, クリストフ、アゴタ, Agota Kristof
作者は、ハンガリー動乱を逃れてスイスに亡命、時計工場で働きながら習得したフランス語で書いた"Le grand cahier (「悪童日記」)"が絶賛されてデビューした。この作品の後に、"Le Preuve(「ふたりの証拠」)"、"Le Troisième Mensonge(「第三の嘘」)"と続くのが"La Trilogie des jumeaux(「双子の三部作」)"と呼ばれているようだ。
実際、本作は本作のみでも読めないことはないが、第二~三作は本作から続けて読まないと苦しいだろう。本作にしても、三部作全体を読むのと読まないのとでは、読後感は相当に異なるものになると思われる。
たくさんレビューされていて、大まかな紹介やストーリーその他はそちらでだいたいわかると思うので、ひたすら思いつきを書く。
現代の、フランス文学でいえばヌーヴォー・ロマン以降、文学(≒小説)の開拓の主戦場があまりに一般性とかけ離れてしまったとされたところに生まれた小説意識は、ラテン・アメリカを始めとする非ヨーロッパのヨーロッパ的文学の影響もあるのか、ちょうど日本で言えば横光利一の『純粋小説論』にも通じるような志向を持つ。
ちなみに『純粋小説論』は整理されてなくてわかりにくく、さらにはそれに見合った実作ができなかったために嘲笑または無視の対象になっているけれど、実際読んでみると意外に気持ちはわかるところもあると思う、というのはさておき。
「意識の流れ」にみられるような因習的語りからの開放、さらには語りそのものからも離れ、書く/書かれる/読む/読まれる行為の舞台となる二次元平面への積極的な侵入、といった前代の遺産を受け継ぎつつ、その中で失われた要素(人格、個性、歴史)の再導入を試みる、というように僕はとりあえず概括しているのだが、この三部作の全体的な方向性なのだろう。その中でこの第一部は、再導入された要素の色彩を強く感じさせる。
その要素が、魅力的な主人公の言動や、見事な叙述(原文を味わえないから「文体」とは言えないが、おそらく文体も)によりあまりに輝いているため、後の二作があまりに本作に負いすぎているというか、ある意味では、本作の注釈のように読めてしまうところもなくはない。しかし、注釈といってもそれはもしかすると、『荒地(T.S.Eliot)』の本編と注釈の関係の如く、注釈は本編の栽培場なのかも知れない、という気もしてきて、立派にフィードバックループを構成しているところはさすがだと思う。惜しむらくはそれがあくまで「一⇔二、三」に留まっているようで、三作が完全に相互交通するようにはなっていないところか。しかし、虚構と現実、というのがそもそも二項対立なわけだから、それがうまくいかないのは仕方のないことかもしれない。
その他思いついたことそぞろ。ネタばれ嫌いな人は飛ばしてください。
読み始めてすぐに気づくのは、全篇「僕ら」という二人称複数が主語で、さらに記述でも登場人物が双子であるとされるのだが、ほどなくこの「双子」という設定には何かしかけがあるのでは?と、気づくと思う。逆にいえば、二人で一人と言えるほどの融合感を持って描かれているともいえて、それがある切ない希求的な読後感をもたらすのに貢献しているのではあるが。
主語は二人称複数、時制は直説法現在、と原文をみるとフランス語でも最も簡潔になりうるスタイルで書かれている。翻訳では時制は過去形になっていて、日本語としてさほど違和感なく収まっているのだけれど、フランス語に疎い僕は、これは、たとえば漱石の写生文のように現在形をむしろ積極的に使って、描写の視点が明確にならないように訳したほうがいいのではないかと感じた。だが、文法的には小説などにおいて直説法現在を単純過去の代わりに物語の過去として使う、という用法があるようなので、お作法的にはこれがあたりなのだろう。
しかし、こういう時にいつも思うのだが、フランス語母語の人にとっても、これは過去のことではあるが、普通は現在あるいは近い未来を表すのに使う時制が使われている、というニュアンスは残るのではないかという気がする。物語に直説法現在を使う、というのがどのくらい一般的なのか、まったくわからないから予測しかできないのだが、再度漱石をひけば、過去に設定されていても、文章は「~である」を中心にしていたりするものがあり、それが、単なる明確な過去形とは違う、様々に解釈されもする浮遊感、ゆらぎ感を呼び込む、ということがある。
その辺はどうなのか、まあ、そこまで気にするのならフランス語を喋れ、ってことにならざるを得ないのかもしれないけれども。
だから、というわけではないけれど、ためしにこれのペイパーバックと朗読CDというのも買ってみた。朗読CDの方は日英仏のamazonでも品切れで、結局フランスの別の通販サイトで買ったけど、あっというまに届いてちょっと感動w
各章ごとに分けられたmp3ファイルになっていてCD1枚に収まっているし、コピーしてiPodに読み込むこともできれば、QuickTime Playerで十分聞き取れるように再生速度を落としたりもできる。
便利で仕方がないw なんで、みんなこうならないんだろう?w
それはともかく、文体的な配慮において簡潔に書かれた文章なのかもしれないが、朗読を聞いていると「モノガタリ」なのだなあという気になってくる。「書くこと/書かれたもの」と「語ること/聞くこと」が自然に結びついた形式は二十世紀以来あまり評判がよくないわけだけど、語り、声、響き、リズム、といったものには、やはり抗し難い魅力がある、ということなのだろうか。
作者の人間観、世界観は多分そうとうにペシミスティックなものなのかもしれない。それは、書かれている事件の顛末や、宗教や性の取り扱い方からも感じられる。しかし、あえて言えば少なくとも本作の双子に関しては、もしかしたらそうかもしれない作者のペシミズムを大きく裏切る肯定の匂いがする。三部作トータルではそれが曖昧になりがちであるとはいえ。物語に対する個人的な興味としては、その部分をもう少し吟味してみたいと思う。
なんにせよ、一度読んだだけに終わらず、これから長く付き合っていく作品になるだろう。