なわけでめんたいロック。
サンハウスはよく聴いたことがない、というか、この辺話題になった頃はプログレからCrossover→Jazzと趣味が移行している時期だったので実はほとんどリアルタイムでは聴いていない^^;
80年代に入ってからだからすでに再発見のレベルだったんだが、そんなわけでこの紹介はなかなかおもしろい。
博多めんたいロックの歴史(サンハウス、モッズ、ルースターズ、ロッカーズ)
これを見ると、ムーブメント(こんな言葉使うの何年ぶりだろう?w)として盛り上がったのは80年代に入ってからみたいだから、それほど遅くもなかったのかなとも思うけれど。
この中でも言及されてるけど、ロックンロールの疾走感と日本語が結びつく可能性、というのを垣間見せてくれたのは確かにこの辺が最初だったように思う。
しかし、そこにはなかなか越えるのが難しい壁もあるというのは、当時から感じていた。言葉自体が持つリズムの違い、というのもある。
さらには、言葉は意味をもって発せられるものだということがある。「唄」での言葉の使われ方というのは、たとえば、今そうなっているような演歌のように、できあがってしまった言葉に付随する情緒をなぞるだけで、一歩も異化効果を産まない場合もあり、言葉に新しく意味を付け加えて豊かにしていく場合もある。
大多数のリスナーはむしろ、自分の慣れ親しんだ情緒を逸脱しない言葉の使い方を好むわけで、それに忠実な作り手の曲が広く受け入れられる、という構図が基本。
だけど、それじゃつまらん、という雰囲気が出てくるとき、というのもまたあって、作り手側は概ね常にそう思っている(はずだよね?)のだから、それが合致したときに、情緒をいらだたせるほどではないかもしれないが、確実に言葉の意味を変えていくような唄が生まれる。
その観点からすると、この時代にしては、というか日本語とその意味、価値観からして、性急すぎる傾向があったのではなかろうか。性急というより、演奏面と同じで、さほど洗練されていない(魅力がないということではない)あっちのロックンロールの歌詞を直訳で日本語にしてのっけてしまったところに、いまいち広がりをもてなかった理由があるのではないかと思う。
作り手側として、従来の情緒にハマってしまうような感性の持ち主は、最初はどうでも、活動していくうちにどんどん演歌みたいなものになっていき、そうでない人は先細りになる、という構図は、めんたいロックに限らない。
ただ、日本のロックとしては、例外的といっていいくらいに「唄」の比重が大きかったためにそれが目立ったということではないかなあ。
彼らの影響を受けたこの後の世代、A.R.B.とかユニコーンとかになると、その辺がだいぶこなれてくるのだけれど、しかし、だからといってそれでよかったかというとまた難しいところで…。
まあ、その辺になるともう趣味の問題といえるかもしれないけれど、これはいまだに、というか、音楽がガラパゴスと黒船の出現交代によって移り変わっていくと考えると常にある状況なのかもしれない。
「ガラパゴス/黒船」っていいなw
ミカバンドの時代は「ガラパゴス」は問題にならなかったわけかな?今はガラパゴスの時代だから、両方を明確に意識にのぼせておかないとマズい、ってことかな。
ま、それはともかく、
演奏面でもそういうところはあるのだが、やっぱり海外の曲の翻案にとどまっているものに今でも聴けるものが多い、というところがね。
The Roosters-新型セドリック
Roostersは"ガールフレンド"とか、当時は「なかなかやるな!」って気がしたものだけど、今動画で見ると残念ながらインパクトが持続していないかもなあ。
これは当時いろんなバンドがやってたClashの"Brand New Cadillac"の翻案だけど、どっかのバンドみたいに曲がまったく一緒ってわけでもなく、日本じゃ実感に乏しいキャデラックをセドリック(って車があったんですよ昔)に言い換えたりとか、努力しているのだけども。
でも演奏はいいよね、うん。かっこいい!
漱石は教師時代に生徒が"I Love You"を「あなたを愛しています」と訳したのを怒って、「ばかもの、そういうときは『月が綺麗ですね』とでも訳すのだ」と言ったというが、それに反発しつつも無視はしない感性を持っている人がもう少しいたらなあという気がする。
シーナ&ロケッツは一時糸井重里の歌詞をよく使っていて、「プロポーズ」という曲なんか、その辺をうまく処理してあって、ちょっと安全すぎるけど(まあ糸井サンだからねえ、色恋沙汰には向かんでしょうが)よくやってるなと感心した覚えがあるのだけど、その動画はないようだ。
となるとやっぱり、カバーものになっちゃうんだよね。
『Satisfaction』 SHEENA& THE ROKKETS
まあ、この演奏も最近のものでだいぶ枯れちゃってるけど、動画でも言及されてる"Pin-up Baby Blues"に入ってる演奏はかなりよかった記憶が。
なかなか難しいですね…。 しかし、既存の情緒をなぞるだけなんてやっぱりつまらないよね。
鮎川氏は最初の動画で「日常/非日常」と対立させていたけど、唄に関しては非日常で産んで日常に注入しても溶けずに日常をより豊かに変えていく、というようなものが欲しいな。
まあ、音楽の場をあえて非日常だという必要性は僕は感じないけれど。