2008-11-27 17:44:00+09:00
日記 . mixi

遠目を保つ

mixi日記から転載 id=1006747045

フォト id:photo_343898068

山も田んぼも馴染みの薄い街から引っ越してきたのは小学校入学の直前。

引越し直後に野良犬に追いかけられ、さらに田んぼの畦道で大きな蛇に遭遇、すっかりおじけづいてしまった。とにかく外が怖い。入学から二年、ほとんど屋内で本を読んで過ごし、他に記憶といえば、友達もできないまま(学年で地元でない新入りは僕ぐらいで、後は皆入学前から馴染みが多かった)、確か昭和七年建造の古い木造平屋建て校舎の壁にもたれ、皆が遊ぶのをじっと眺めたことくらい。

そんなとき、相変わらず蛇や蛙やトカゲやバッタや…、その他、諸々怖いものだらけの恐怖地帯である田んぼに、父親の釣りのお供で連れ出された。怖くて畦道を歩けない僕に父親はいった。

「遠目にしてまわり全体をまんべんなく見てろ。何か出ても近くに来る前にわかるだろ!」

確かに、足元ばかりを見歩いて、何かに遭遇すると心臓が止まりそうになるくらい怖いが、あ、あそこにいる、来るか来ないか、という暇が若干の余裕を生むように思える。そうか、(近くも含めてだが)全体を見るともなく見ればいいのか。

慣れると、自分の周囲がまさに空間として脳内に把握できるようになる。見ているかどうかはっきりせずとも、実はちゃんと足元なんかも有る程度意識できているものなのだ、ということもだんだん分かってくる。

全体を見る。で、過去の記憶と未来の予測にある程度の幅を持たせて行動する。少し蛇が出てもうろたえなくて済むようになった。足がすくむのは同じだけど。しかし、これは度が過ぎると弊害も出てくるということにはそのときあまり気がつかなかった。外界の捉え方がだんだん転倒してくるのだ。こういう姿勢が強くなると、時間や空間が先見的にあって、その中がいろいろな個物=モノで充たされているという世界観になってくる。そうすると、外界は映画のスクリーンのように意識されるようになり、最後には外界とは、記号表象が貼り付けられた映像に過ぎなくなる。

個物の感触の喪失。

実際には逆で、個物=モノがあふれているからこそ、そこから時間や空間というフレームが先見的に見えるということなのだが。

こういうのは意外に人の行動パターンを決定するものなのか、依然として蛇が怖いままで二十年以上遠目を保つのが好きだった少年は、長じて、個物を閑却してある種記号のギャラリーと化した外界から抜け出すために、今度は目の前の一つ一つの「モノ」をじっと見つめ、触れてみて、感じる訓練をするハメになる。

このコーヒーカップ、この鉛筆、この草花、この…。

五感からの入力をいちいち言葉に変換して、ひとりごつ、目前の「モノ」の感触と記号表象を結合しなおす。類似する経験を述べた文章などを助けに、ああ、こうやって「モノ」に触れた方がいいのか、などと。

今も相変わらず蛇は怖いが、この畦道はなんとか渡りきる気になり、渡りきることができた。

遠目を保って、かつ接するものたちを感じつつ、だったろうか?

なんだか、久々の体験だったかな。 こういうときはアスファルトより泥や草の中がいいな。