2022-04-07 00:48:00+09:00

訃報に接し読書中 『突破者への遺言 宮崎学』

R.I.P. 宮崎学氏

訃報に接し読書中である。

https://imgur.com/a/ugVHAsY

突破者の遺言。 R.I.P.

突破者への遺言 宮崎学

抜き書き。

日本を守る最大の武器は、日本の国民が国民を思う力だ、国を思う力だ。 これもまた民族としての根底的感情である。 それがなければアメリカの核があろうが日本が核武装しようが、 日本を守ることなどできやしない。 逆にそれさえあれば、アメリカの核がなかろうが何がなかろうが、 日本を守り抜くことはできる。

ベトナムを見ろ。 世界で唯一アメリカを敗北させたベトナムには核などなかった。 大日本帝国ほどの軍事力もなかった。 だが、民が民を思い、国を思う力があった。 ベトナムはそれでアメリカに勝って民族を統一し、独立国を樹立したのだ。

翻って大日本帝国はなぜ負けたか。 当時の日本国民は確かにその力を持っていたはずだ。 大日本帝国とベトナムは何が違ったのか。 それは日米戦争は軍部が指導した「上からの戦争」だったが、 ベトナム戦争は民衆が蜂起した「下からの戦争」だったからだろう。

ベトナムは本土決戦でゲリラ戦を展開して勝利した。 それでは日本も本土決戦を戦うべきだったのか。 私はそうは思わない。 「上からの戦争」では本土決戦をやろうが勝てなかったはずだ。 私は民衆が腹の底から怒って蜂起した戦争には行ってもいいが、 軍部が 「お前、戦争に行ってこい」と指導するような戦争は御免だ。

話を戻す。

戦後日本はアメリカの核に頼った。 その結果、いまや日本人はアメリカに対する恨みを忘れ、 アメリカの核に頼らざるをえない屈辱感を捨てた。 同時に、というかそれゆえに国民が国家を思う力も完全に失った。 アメリカに対する恨みや屈辱感という、民族としての根底的感情を手放したがゆえに、 同時に、国民が国家を思う力も捨て去ったのである。

その結果、いま日本人は何をしているのか。 アメリカに原爆を投下された日に、アメリカの核の傘の下にいながら、 「カクナキセカイ」という綺麗事を復唱しているのだ。 これほど情けない民族がいるか。 これほど恥ずべき民族がいるか。 私は悔しい。 悔しくて堪らない。

もはや日本の民族的感性は摩滅している。 いまさらアメリカを恨めと言っても時代遅れだろう。 アメリカともう一戦やるわけにもいくまい。 民族の感性とはナショナリズムに他ならないが、 これだけ科学技術が進歩した中でナショナリズムが暴走して全面戦争が勃発すれば、 75年前の原爆投下以上に破滅的な事態を招かざるをえない。 その意味で、確かにナショナリズムは無責任に煽れるものではない。

しかし、だからと言ってナショナリズムなき民族はありえない。 いまの日本人を見ろ。 民族としての根底的感情をほぼ失った現代人は、精神を喪失した廃人の如く、 何も考えずアメリカにすがるだけではないか。

我々は民族としてアメリカに対する反感だけは持っているべきだ。 それがなければ日本人とは言えぬ。 私はそう思っている。