2024-01-02 17:30:00+09:00

『明治維新の遺産 テツオ・ナジタ』

読書中であった

読書中であった。

明治維新の遺産 テツオ・ナジタ

明治維新から議会政治が機能不全になる戦前までの政治史、政治思想史に関しては、 高校日本史の教科書の次はこれかなというような本。

とはいえ何しろ四十年前の刊行なので、 参考文献等は今はもっといろいろ出ているような気もする。

しかし、

近代日本の歴史は勝者─敗者の観点から見るよりも、 大久保に典型的に見られる官僚合理主義的価値観と西郷に代表される理想主義的価値観の 両極端の相互作用という観点から見た方が、よりよく理解しうる

というのも今ではどちらかといえば常識的な見方かと思うが、 しかし、考えてみると戦後はどうだったかといえば、 これが当て嵌るのは、佐藤内閣の時代くらいまでで、 その後は、どちらの価値観も崩れ去ったように思える。

ところで、最近は読書はほとんどKindleで、書籍のリンクもKindleのページになっている のだが、この本は既に今はKindleでは扱っていないようだ。 そういうこともあるのかと思った。

以下抜き書き

本書は政治史研究者が近代日本を理解する上での不可欠な基本軸として、 二つの命題を強調しようとするものである。 その第一は、「官僚的合理主基」の伝統に根差した官僚的な効率性の浸透力、 という命題である。 この伝統においては、官僚による効果的で計量可能な経営が国家の安寧にとって 最重要のことと見なされる。 これに反し第二の命題は、先の伝統にくらべてより目につきにくく、 とらえどころがないかもしれないが、 官僚的規範の優先性を承認しないという命題である。 この命題は古くから深く意識されてきた価値、「人間性」とか「心」とか呼ばれる 人間精神の純粋性や、 あるいは自己を願みずに創造し奉仕する人間の理想主義的能力に対しておかれてきた価値 を背定するものである。 この伝統のより近代的な概念は、 社会がめざすべき精神的文化的規範としての民主主義的価値の優先へと向かう。 近代日本における政治的批判の歴史は、 官僚主義的原理に対する理想主義的抵抗に端を発しているのである。


太平洋戦争終了以前においては、 天皇制がこのような理想主義的倫理の負を握る役割を果たしていた。 天皇制は、法的権力の窓極的な源泉として産業革命を是認したが、 同時に日本の文化的連続性の象徴としては、 国家共同体への純粋で無私な献身の原理を表象するものでもあった。 とくに現人神たる天皇は、平凡な人間が自らを何か非凡なものに変え、 埋もれている動的で創造的な自己の潜在能力を十全に実現する可能性を いやがうえにも高める、あるひとつの文化的な理想を表象するものでもあった。


しかしこの楽観は長くつづかなかった。 民主的な憲法はできたが、 その権力構造は戦後民主主義の特徴よりも 戦前政治の痕跡の方を多くもっているようであった。 一九五〇年代を通じて、 新憲法のもとにあってもあからさまに非民主的な形で産業復興政策を強化できることが 次第にあきらかになってきた。 また戦後の官僚エリート、産業エリートたちは民主的な新憲法体制下においても じつに効果的にまた居心地良く仕事をすることができ、 国民の国政参加を経済発展の方向に舵とりできることもあきらかになった。 さらに社会主義運動に対抗しての保守合同は、 自由民主党が議会と選挙過程とを掌握する政治機構の出現を予告するものであった。 今日にいたるまで自民党は、議会の半永久的な絶対多数を握りつづけ、 社会主義諸政党を一貫して少数党の地位に追いやることにより、 日本の国政を事実上支配しつづけてきた。

このような動かしがたい大勢にもかかわらず、 価値観としての民主主義は今日の日本においてなお重要なものとして存続している。 人道主義の抽象的な規範的価値でもある民主主義は、 既存の政治と歴史の外側における引照基点として機能している。 この意味において、民主主義は、日本においては 政治過程についての現実主義的な概念ではなく、急進主義的な概念なのであり、 歴史的趨勢と文化的政治的現状を批判するための倫理的確証を与えるものなのである。 戦前期の一九ニ〇年代と同様に、 民主主義は立憲政治に力を付与するイデオロギーではなく、 政治批判の思想であり、多くの場合非政治的な思想なのである。


それゆえに本書は一六〇〇年の転換点から日本の歴史の検討に入る。 なぜならば、日本において官僚制的秩序が確立したのは徳川時代だからである。 静的な構造においてではなく、その態度、思考様式、行動類型などにおいて、 近代日本はこの徳川時代の官僚制秩序に多くを負っているのである。 日本が初めて「政治的」になった、すなわち自らの社会を組織立った官僚制社会と見なし、 官僚経営の理論とその倫理的意義を論じるための政治的語法を発達させる ようになったのは、この徳川時代においてであると考えてよいからである。


幕藩体制について、

この政治体制は、土地と軍事力と忠誠倫理という相容れない自己同一化の対象を、 統合し調和させるための一つの制度的な解決であった。


完全な中央集権化は、 守るべき強力な領国をもった大名による長期的な内乱を引き起しかねなかった。 そうだとすれば、「忠」の原理も中央集権化のためだけに排他的に適用されてはならず、 一定の制限内で、各領国内の忠誠関係も許容する形で適用されなければならなかった。 こうして江戸に安座する徳川幕府の圧倒的な支配にもかかわらず、 幕藩体制は奇妙に分権化されたのである。 地方的な自治を与えるために、重要な政治的均衡がつくりだされたのである。


富の源泉としての外国賢易は、二世紀にわたる交易の発展にもかかわらず、 日本の需要にとって不用のものとして否定され、農業に大きな比重がおかれるにいたった。 一五九〇年代の豊臣秀吉の朝鮮侵略に見られるような軍事的膨張主義も同様に否定された。 またキリスト教も禁じられた。 要するに、幕府はいっそうの中央集権化を要請するような 十六世紀の膨張主義的傾向を逆転させ、 栄光ある鎖国と国内における大名の地方分権の容認の道を選んだのである。 この観点から見るとき、交易に対する農業の優先性への独断的な固執、 西欧の銃砲に対する日本の刀剣の賛美、キリスト教の危険に対する鎖国の尊重、 などは日本人に固有の偏執症の徴候であるというよりも、 幕藩体制がその構造的統一のために依拠した政治行政組織の指針との関係で 出て来たものと見なした方がよいであろう。


闇斎の思想的遺産は複雑であるだけでなく両義的でもある。 一方では、政治的倫理的規範は経典のように不動なものであるとする彼の見解は、 こみいった組織と、倹約令や苛酷な懲罰令などの複雑な法制度におおわれた幕府に、 明白な支援を与えるものであった。 しかし他方では、彼の思想のなかには、 ひたすら勉学に励むよりも自己変革的な実践を強調する一面もあった。 そしてこの場合には心理的同一化の対象は遠く隔たった天皇制であって 目前の権力にはなかった。 天皇は形而上的規範のもっとも純粋な表象を代表するものであった。 歴史的な理由により、天皇は制度化された政治や官僚経営の領域の外部に存在したが、 同時にその無為性によって、 諸個人の実践的な自己発展の不変の規範を象徴するものとして把えられたのである。


この補強は「古学」派によって行なわれた。 山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春台らの傑出した思想家がこの学派に属していた。 彼らの間にはいくつかの共通の前提が存在していた。 彼らはみな、倫理と政治を組み立てる理論的前提としての先験的な規範の存在を否定した。 彼らはまた、精神と事物、本質と形相の均衡として自然的社会的秋序を説明する 朱子学的二元論をしりぞけた。 彼らはみな、存在と宇宙とを単一の原理で見る唯物論的一元論から出発し、 倫理的社会的制度を人間の具体的必要の延長として説明するにいたった。 山鹿素行の批判によれば、 朱子学の根元的な誤謬は、「物」と「事」とを区別できなかった点にあった。 すなわち、「物」とは物質的現実であり、「事」とは経験された実践であり、 それゆえに「物」はかならず「事」に先行する、としたのである。 要するに「事」とは「物」の秩序なのではなく、 人間の思想と実践の領域に属するものなのである。


山県大弐にあっては、「形而上」と「歴史」との両規範概念が天皇制に統合される。 永遠の規範性と階統制度の究極的な政治的是認とが、 あいまいな形で結合して日本の天皇の性格を規定するのである。 徳川中・後期の日本において天皇の政治的「再発見」が歴史的重要性をおびるのは、 この両概念の混合によってであった。 しかしここで強調されるべき点は、 天皇制イデオロギーがもっていた政治的な体制否定の側面ではない。 天皇制をそのように組み立てなおし利用することは、 さほど困難なことではなかったのである。 イデオロギー的にいっそう重要なのは次の点である。 すなわち、天皇象徴が倫理的意味での規範的実体として着実に承認されていくのに 反比例して、現存の官僚制度を機能的な絶対、それゆえに「相対的」なものと見なす 傾向が発達してきたのである。 いいかえれば、諸制度は実践のための実用的な枠組であり、 権力のヒエラルヒーに過ぎないと考え、時間をこえた先験的な真実を構造化したものとは 見なされなくなってきたのである。


会沢は政治社会体制としての幕府の防御能力に疑問を呈している。 欧米列強による全極東の蚕食は不可避であり、 この脅威に立ちむかうための現実的な戦略として、日本は鎖国をやめなければならない。 しかしこのような戦略をとるためには、 身分制度を無視して社会の総エネルギーを活用しなければならない。 身分制度をこえた陸海軍をつくり、近代的火器をつくらなければならない。 さらに社会全体の支持を強めるために、倫理的宗教的な、理想、象徴、偶像、儀式、神社 などを最大限に利用しなければならない。 しかもそれらは天皇象徴と不変の国体という理想とに合致しなければならない。 要するに一般民衆を恐れたり、刑罰をもっておさえたりするのではなく、 彼らを社会的エネルギーの源と見なし、 "尊王"心の培養を通じて強国日本の形成のために組み入れていかなければならない、 というのが『新論』の主張であった。 ここには荻生徂徠以来の、「尊王」は有効な統治のための技術の一つである、 という考え方が見られる。 「尊王」の理論的な正統性は、形而上的実在にではなく、歴史的必要にあったのである。


徳川末期の理想主義のなかには、相互に重複点をもちながらも あきらかに相異なる多数の理論的傾向を識別することができる。 これらの理想主義的立場によって共通に否定されたのは、 事物の観察 専念すれば個人の敵身がいかなるものであるべきかが判明する という見解であった。 形而上的な考察であれ歴史的な観察であれ、 およそ観察のなしうるのは構造の説明に過ぎず、何が真理であるかを説明しえない。 観察によって歴史的知識を確認することはできても、 制度的な欠陥をあきらかにすることはできない。 観察によって人びとがなぜに官僚主義的規範に従うかは判明するが、 なぜ人は倫理的に行動すべきなのかはわからない。 ここには人間性についての浪漫的な見解が端的に表明されている。 すなわち制度、地位、学識、私益よりも精神的な理想が強調され、 信念が理性に、忠義の行動が冥想にとって代り、 歴史は合理的に類型化されたものとは見られず、 宇宙の倫理体系によって予見しうるものとされるのである。 歴史は伝統的な理性を超越した道徳的精神の表明であるか、 あるいは神聖なる神の創造物であり、 それゆえに機械的官僚主義的な統御を超えたものであるとされた。 ここには社会の欠陥と悲惨とが完全に矯正されるような 歴史における奇跡的事件への信念が見られる。 この伝統こそが、客観的な障壁のいかんにかかわらず、 人が真理と信ずるとこるの信念にもとづいたな行動を要求するのであった。

このような見方は、 日本政治史の折衷主義的な知的構造に組み込まれている政治的憤怒、 反抗、反乱的行動などの心理を理解するうえで決定的に重要である。 このような知的伝統のなかで陽明学と国学の二つの形の思想と行動が群を抜いていたが、 その両者は理論的には本質的に異なるものであった。 陽明学の理想主義は宇宙の窮極的な本質についての哲学であるのに対し、 国学は日本文化の特異性についての歴史的概念であった。 しかし徳川末期の歴史においては両者は相互に補強しあった。 政治的行為とは窮極的には直覚的な性格のものであるということを強調する点で、 両者は共通していたからである。 この点において両者は、山崎闇斎や荻生徂徠らによって発展させられた官僚主義的理想 の対極に位置していたのである。


それよりも重要なのは、藤樹や蕃山が武士の教育においてもっていた意味である。 官僚になるために教育を受けていたにもかかわらず、 すべての武士は陽明学の行動至上主義を教えられていた。 陽明学は、個人の生涯の(あるいはそれを拡張して社会の)決定的な時点にあっては、 伝統的な理性や考え方は行動の指針としては役立たない、このような時点においては、 人は自己の精神的自我にまで深く分け入り、何が自己の利益になるかを考えずに、 正しいと信ずるところに断乎として身を捧げなければならない、という立場をとっていた。 藤樹や蕃山はこのような直観にもとづく行動倫理の手本として、たびたび引用された。 事実、武士は、その窮極的な知的立場が、朱子学、古学派、折衷学派、国学などの どれであろうとも、 "陽明学局面"を経由しており、不慮の事態にそなえて、 藤樹や蕃山を通して陽明学の教示を自己のなかに組み入れていた。


宣長は荻生徂徠の現世的歴史主義からも吸収した。 徂徠自身は日本文化に対する軽蔑を隠さない中国びいきであったが、 同時に彼は日本の特異性の説明にそのまま適用できる歴史観を発達させていたのである。 徂徠によれば、文化や倫理は形而上的必要によって生れたものではなく、 歴史的な産物であった。 それゆえにどの社会も古代世界に一つのはっきりした始点をもち、 時をへるに従い相異なる話法を発展させていったのである。 宣長は主として彼の師であった賀茂真淵(一六九七─一七六九)を通して 徂徠の歴史的相対主義を吸収し、それを彼の日本文化史研究に適用したのである。

日本の社会はその始点においては、一つの共通した人間的感情で結ばれていた。 この人間的感情はきわめて自発的なものであったので、自然そのもののように純粋で、 倫理的な細工のないものに見えた。 この人間的感情はまた、情熱的でおさえようのないものであり、愛と憎しみ、 喜びと悲しみ、苦痛への恐怖と神秘なるものへの畏怖などと同様に、 必然的なものであった。 こうして宣長は、日本の特異性は、 このような人間的感情をあるがままに受け容れることのなかに、あるいは、 この感情の美しさを創造的で優雅な言葉で表現しようとする努力のなかに、 存在していると結論したのである。


彼らは主として薩長両落の出身者であったが、出身地の共通性以上に重要なのは、 彼らの明治維新観の共通性であった。 すなわち彼らにとって明治維新とは、官僚的手段によって、 強力で豊かで自立的な国家日本を創出せよという至上命令にほかならなかったのである。 かつての敵である幕臣勝海舟(一八二三─九九)や 彼らと同じ見解をもっていた渋沢栄一(一八四〇─一九三一)のような平民も、 新政権においては近代海軍の立案や、銀行制度の樹立などの 非常に責任の重い地位を与えられた。 反対に、西郷隆盛、江藤新平(一八三四─七四)、前原一誠らは、 維新の窮極目的については彼らと一致していたが、感覚的、理想主義的立場から 「官僚主義的」方法に抵抗したために、次第に寡頭制の中心から追いやられていった。 幕府に対する反抗においては重要な同志であったにもかかわらずである。


これに対する伊藤の報復は迅速であった。 彼は岩倉の支持を受けて、大隈案に反対した。 英国憲法は「不文律」で、英国の政治慣習に固有のものであり、日本の国体には合致しない と論駁したのである。 彼の言わんとしたところは明白である。 すなわち、 中世以来の歴史を、「時代錯誤」「恣意的」としてほとんど払拭してしまった以上、 日本は慣習法にもとづく憲法に依存するには不適当な状態にある。 日本に必要なのは、近代的法体系に権威のある規範を与え、一一八五年以来久しくつづいた 幕府体制に明確に対決しうるような明文化された憲法である。 同時にこの明文憲法は、皇室に象徴されるような、日本固有の連綿とつづく 文化的伝統をも包摂するものでなければならない、という主張であった。


福沢によって計画的な私的利益の追求における正当な快楽主義と結びつけられているのは、 武士知識人の精神なのである。 福沢にあっては、明治維新の反逆的理想主義者西郷隆盛を尊敬することと、 私的利益の噴出を規制するものとして近代的立憲政体の樹立を主張することとは、 なんら矛盾することではなかった。 幕末維新期の政治文化に織り込まれていた「功利主義」と「実践主義」の両者は、 福沢のなかで結合され、明治社会のあらゆる階層の個人に対して、自らを教育し、 世に出て、名を成すことの奨励(福沢の時代の標語を使えば「立身出世])となったのである。


この明治の自然権思想の中心にあるのは、個人の完全な自主という考え方であった。 個人の自主は「生得」のものと考えられ、「自カ」と理解された。 これは日本の宗教的伝統に深く根差した理念であった。 権力の諸制度と無関係に、この精神の自主は激情からの自由でもあった。 植木枝盛は否定してはいるが、この自由は道徳的原理、中江兆民の言うところの 「リベルテ・モラル(心神の自由)」であり、「静的」で「不動」の精神力として表現され、 理解されていた(福沢の「痩我慢」の理想と似ていなくもない)。 それは孟子や禅や陽明学の諸思想と密接に結びついた考え方であった。 しかしながら、すでに植木について見たように、 この複合された伝統よりなるエリート主義は、 近代日本にとっては不十分であるとしてしりぞけられた。 ここにおいて「契約」という概念が決定的な役割を果たす。


政府指導者のすべてが、この「官権主義的」な憲法観を共有していた。 彼らにとっては立憲政治とは相対立する利益集団、 イデオロギー集団間の闘争を法的に裁定することを意味せず、その正反対に、 闘争自体を減少させ、利害と見解の一致をつくりだすべきものであった。 もちろん憲法は伊藤が期待したほどには円満に機能しはしなかった。 政党は議会で勝手気ままにふるまった。 また、加藤、福沢、中江らは明治憲法を是認したとはいえ、これまでに記したことから あきらかなように、それはおのおの相異なった理由からであった。 加藤にとっては憲法秩序は社会に対する献身的行為を明示するものであった。 福沢にとっては、それは私的利害にもとづく論争を法的に承認し、 秩序立った変化を承認するはずのものであった。 中江にとっては、憲法体制とは社会の自由を拡大するための闘いを公認するものであった。 伊藤やその同僚の確信がいかなるものであったにせよ、それはまったく短命であった。 政治対立と理論闘争とがいっこうに弱まらないのを見て、 伊藤自身も憲法体制の機能に関する自己の見解の修正を迫られ、 山県との間のつらく深刻な論争に巻き込まれ、ついに一九〇〇年に、 衆議院の一政党の総裁になるにいたったのである。

要するに、明治時代が二十世紀に遣したものは、調和という遺産ではなく、 壮大な論争という遺産であった。 一九〇〇年には、日本社会の理論的構成はあきらかに多元的であり、 支配的な正統イデオロギーを欠いていた。 これ以後太平洋戦争の前夜までの数十年間に、理論的分化は深化し、 政治生活の質に対する激しい批判と抗議の形態をとった。 他方憲法体制そのものも内部から、 とくに立憲思想と権力関係に関して劇的な変化をこうむり、 明治憲法体制の創設者たちがまったく予想しなかった方向へと動いていったのである。


元来は軍の指導者であった山県は、憲法を彼が考案した徴兵制度と同じような 社会的動員の枠組として理解した。 政党の反対や抵抗は、彼の眼には憲法が大逆と規定した反乱による妨害と ほとんど変らないものとうつったのである。 これと対照的に伊藤は、国内政治を規制するために軍隊や警察力を使うことに反対した。 歴史の趣勢について鋭い限をもっていた伊藤は、 力の行使は自分と山県とがともにめざしている国家目標の達成にとって逆効果である と信じていた。


原敬が日本の政治に与えた影響は広範なものであった。 彼は立憲政体についての伊藤の理想、 すなわちほぼ対等の立憲的諸組織が相互に調和を保って均衡しているという 立憲政体像を打ちこわした。 原はまた、藩閥指導者が固定した制度的枠内で考えてきた「忠誠的行為」を 「党派的行為」を意味するものに、はっきりと定義しなおした。 彼は国家全体にとっては、党派的行為は忠誠的行為と同義であるとして、 党派的行為を明治的忠誠の言いまわしで正当化したのである。


美濃部の理論は自然権理論の否定の上に立つものであり、 その点において彼は一世代前の加藤弘之らの政治イデオロギーの伝統に属する。 この理論によれば、法の起源は自然的なものでも形而上的なものでもなく、 社会的、歴史的なものであった。 それゆえに諸権利は人間性に内在したものではなく、 主権と同様に憲法と契約の外延なのである。


しかし同時に、美濃部は「明文化」された明治憲法が、 象徴的で行為しない君主という「不文律」の憲法と結びついていることを容認していた。 天皇が古来、日本社会に共通の感情、信条、歴史的記憶を象徴しつづけてきた以上、 国体概念は無意味ではない、 ただそのような文化的事実は法的な意味での君主主権と混同されてはならない、 と美濃部は説くのである。


社会の多くの部分は原や美濃部の党派的で道具主義的な観念を軽蔑する思想によって 影響されていた。 またこの二つの事件は、党派の競争的政治の拾頭に対する反感が 強い底流をなしていることを指し示すものであった。 政党政治に希望を見出した者があったことは疑いないが、同時にそれが 官僚、軍部、知識人たちに混乱と苦渋を与えたことも事実であった。 自国の安全の確保をやっと獲得したばかりの国家、 その文化的自立がなお懸案になっている国家にとって、党派政治は許しがたい贅沢、 国民の期待と必要に対する鈍感さのあらわれであると思われたのである。 明治憲法体制内における産業の発達に対して期待されていたものが 利権政治ではなかったことはあきらかであり、 そのような政治は、当時しばしば使われた言葉で言えば、 「憲政の常道」によって矯正されるべき変則と見なされたのである。


雪嶺や中野正剛によれば、個々人は特色ある道徳的個性を賦与されており、 政治の目的はこの個性の力を社会的目的のために解き放つことにあった。 ここには自由民権運動の理論とのあきらかな精神的結びつきが見られる。 精神的自立と献身の窮極に近い存在として西郷隆盛が想起され、植木枝盛らのような 理論家と並んで、板垣退助も自由を擁護した者として賞護された。 雪嶺と中野正剛はともに西郷をこえて、大塩平八郎の反骨的個性に代表される 藤樹や蕃山の陽明学的伝統とあきらかに同一化していた。 中野正剛がはっきり記しているように、大塩らの決定的な重要性は、 腐敗政治と官僚的基準の人民への押し付けに抵抗する伝統にあったのである。


以上のことからあきらかなように、 二十世紀初頭の国民主義運動と自由民権運動とを真に結びつけているものは、 官僚的統治に対する共通の懐疑であり、自然権理論の共有ではなかった。 ここで理想化されているのは道徳的個人主義の精神であり、 それこそが日本国民とその歴史を貴重で独特なものにしていると信じていたのである。 この点においては、国民主義の基底にある前提は、 加藤弘之と彼の反自然権理論の立場を想起させるものがある。 すでに記したように加藤弘之は、社会は道徳的共同体であり、 この共同体を統合する精神的価値観は自然から先験的に与えられるものではなく、 その歴史によってつくられたものであることを強調していた。 しかし加藤はこの理論に依拠して、 独立した強国への日本の発展の手綱をとるためには立憲的官僚制が必要であることを 主張したのであり、美濃部はこの理論をさらに発展させて、 立憲主義を法理念の実現をめざす進歩的努力として正当化したのである。 これに反して国民主義の主張者たちは、同じ理論的前提を使って 官僚主義と日本国民の創造的理想主義との間の根本的な矛盾を強調した。 彼らは美濃部と同じく国民の政治参加を支持したが、その理由は理想主義的なものであって、 美濃部のように個人が主権秩序の法的な「手段」であったからではない。 すなわち、大正期国民主義者は理論においては加藤弘之や美濃部達吉に与しながら、 感情的には自由民権運動に見られる抵抗の精神や 徳川末期に明確な形をとった反逆的な忠誠主義に自己を同一化したのである。

官僚組織は国民全体の精神的な幸福、 すなわち「国家社会主義」や「真善美」という共通の理想の実現に役立つ限りは、 彼らにとっても重要であった。 人は地位の上下にかかわらず、だれでも日本という共同体の精神的、美的価値を共有する 歴史的社会的「権利」をもっており、 それゆえに政府の施政の具体的な成果を享受する権利がある、というのである。 政府は一握りの支配者のものではなく国民のものであり、 国民は自らの共通の「使命」を決定しなければならないというのが彼らの主張であった。


固有の歴史的価値により規定され、 国民の政治参加を通じて共通の使命を遂行する独自の国民文化、という考え方は、 あきらかに「アジア主義」的な要素をも含有していた。 欧米を無批判に模倣すべきではないという議論は広範に拡がり、 岡倉天心(一八六大ニ─一九一三)の「入亜」論のようなはっきりした形の呼びかけを 生むにいたっていた。 岡倉は、日本が独立国家として歴史的に発展してきた文化圏、 日本の真の関心と当然の責任とが存在している文化圏、 すなわち亜細亜に日本は立ち戻るべきであると論じたのである。 岡倉の見解によれば、一つの文化圏内にあるすべての社会は ある種の精神的命題を共有しているが、 各社会は同時に自己に固有の創造的特徴を発達させてきた。 より具体的に言えば、すべてのアジア諸国は欧米の影響を最小にして、 アジア的環境のなかで各自の独特で創造的な可能性を実現していく文化的権利をもっている。 これまでの成功から言って日本は、欧米列強の支配する競争的近代世界において アジア諸国が独立を保つための最善の模範として、 自己を律する責任があるというのである。 この種の主張の背後にある思想は文化的なものであるが、 一九三〇年代後半におけるようにそれが日本の膨張主義者による 「アジアの解放」の正当化に容易に転化しうることは言うを俟たないであるう。


このような国民主義者の声は、 藩閥と貴族院の特権勢力の声望を失墜させるのに大きく貢献した。 藩閥支配者たちが天皇自身ときわめて密接な関係をもっていたにもかかわらず、 国民からまったく信頼されず、非常に低い評価しか与えられなかったことは、 近代日本の政治の一つの特徴である。 国民の目にうつる天皇の英雄的な上輝きの余光は、彼ら藩閥指導者には及ばなかった。 一九二ニ年の山県有朋の死は国民の悲嘆をほとんど受けなかったのである。

このような藩閥官僚のエリート主義に対する批判を通じて、国民主義が、 自由主義的民主主義や社会主義のような、 本来的には民族主義的ではない大正期のほかの抵抗思想と混じりあったことも、 重要な点である。 自由主義や社会主義の概念的諸前提はその用語においても理論においても、 国民主義に比してはるかに国際主義的であり、 「アジア主義」的度合いの薄いものであった。 それにもかかわらず両者の間には、民衆主義的で平等主義的な思考、国民の感情的、 精神的要求に対する強い情熱的な同一化、立憲政治のなかに浸み込んだ 官僚的な政治的エリート主義に対する強い反撥、などの共通の気質が存在していたのである。

国民主義的思想と自由主義的批判とを橋渡ししたもっとも重要な人物は、 吉野作造であった。 吉野は東京大学法学部教授で、大正期におけるもっとも卓越した言論人であった。 キリスト教ヒューマニストであった吉野は、 当時欧米で盛んであった理想主義的自由主義の用語をもちいて、 普選運動をはじめとする改革運動の先頭に立った。 吉野は、国民主義者が重視していた民衆主義の精神と個人の理想化された道徳的自立性とを かねそなえていた。 一九一〇年代中頃には彼は早くも「民本主義」を主張しており、 この主張はやがて政治的のみならず道徳的、精神的改革をもふくんだ運動に向けられていった。


吉野が強調しようとしたことは、 憲法上の諸機構は宮中制度をもふくめて静的な構築物ではなく、 人間の価値観と期待との具現であるという点であった。 しかし同時に人が意識に内在するイメージにもとづいて 現存の諸制度をあるべき方向へつくりなおすためには、人は「新しい意識」を発達させ、 「新人」にならなければならない (彼の影響下にあった学生は、 この「新人」を一九一八年に創った組織(新人会)の名称として使った)。 そうだとすれば、 政治的進歩とは人間の開明化に応じた制度の絶えざる再解釈をふくむものである。 「新人」の数が多ければそれだけ進歩的改革の可能性も増大するのである。


高名な文学者三島由紀夫(一九二五─七〇)が伝統的急進主義の復活を情熱的に訴えたのも、 戦後政治が失敗であったというこの一般的な感情に根差したものであった。

たしかに彼の経済主義の否定は日本中の人びとの琴線に触れるものであった。 しかし彼の一九三〇年代の急進的青年将校との同一化は日本人の眼には時代錯誤とうつり、 新しい政治運動の先駆者とは映じなかったのである。

欧米の観察者はしばしば、日本の反体制的批判者は左翼右翼を問わず、 けっして権力を握ることのできない敗北者によって構成されていると指摘する。 このような見解は日本における抵抗の性格を誤解したものである。 もし我われが近代社会を誰が権力をとったかという点だけから見るならば、 そのような見解も成り立つかもしれない。 しかし本書が提示してきた見解はそういう見方とはかなり相違したものである。 日本の政治過程は幕末以来激しい変化をこうむってきた。 そしてこの激動の歴史のなかでは、 政治指導は簡単に予見できるような形で自己再生産しうるようなものではなかった。 このことは幕府官僚から明治寡頭制支配者へ、ついで政党政治家へ、 さらには軍部官僚へとつづく一連の政権移動を見ればあきらかであろう。 さらに、このような権力移動は絶えざる緊張を伴っていた。 一方で大久保、原、浜口らの「官僚」が急進派の襲撃の犠牲になり、 他方で大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛、北一輝らが確立した法秩序によって処刑された (自刃もふくむ)、という事実は記憶されるべきである。

それゆえに、近代日本の歴史は勝者─敗者の観点から見るよりも、 大久保に典型的に見られる官僚合理主義的価値観と西郷に代表される理想主義的価値観の 両極端の相互作用という観点から見た方が、よりよく理解しうるように思われる。


これらの両極端の思想を想像力に充ちた動的な方法でたえず改造し、 過去のいくつかの陥穽を避けていくことが、日本の今後の課題であるう。 このことは「同一性」の探究というようなことを意味するものではない。 こういう言い方は日本人には同一化の対象が欠けているかのように響くからである。 問題はむしろ相対立する自己同一性の間に一つの関係をつくりだすことが重要なのである。 産業の再建を先例のないような技能と献身によって完了した日本は、 いまや説得という巨大な課題、すなわち政治的自覚をもち、 それによって自己主張のできる階層の忠誠を獲得し維持するという仕事に直面している。 日本のこの階層は欧米と同じく広範で複雑なのである。 このような忠誠をついに獲得できなかった大正期、 すなわち一九一〇年代、二〇年代の様相を考慮するとき、 この課題の困難さには想像を絶するものがある。 この課題は想像力と開明的な思想によってのみ遂行できるものである。 他方、抵抗者側の政治も巨大な困難に直面している。 現在の歴史の方向は変更されなければならないという自覚は、 官僚と企業の体制の巨大なカの認識によってつりあわされている。 一九六〇年代末期に諸大学を荒廃させたような周期的な直接行動への依存によっては、 根本的変革がもたらされないことはあきらかであろるう。 維新主義や左翼の秘密主義的な冒険主義を乗りこえて、 説得力のある持続的な抗議の戦略が必要となっている。


西郷について書かれたものは、 かならずしも学問的業績とはいえないものを含めれば非常に多数にのぼる。 まず吉田常吉の短編「西郷隆盛」 (小西四郎編『日本人物史大系 第五巻』九二─一ニニ頁)をあげたい。 ほかにも木村毅『西郷南州』(雪華社 一九六六年)、 池波正太郎『西郷隆盛』 (人物往来社 一九六七年)、 芳賀登『西郷隆盛』(雄山間 一九六八年)などがある。 最近のすぐれた研究としては、井上清『西郷隆盛』上下(中央公論社 一九七〇年)がある。


(邦訳『明治立憲政と伊藤博文』 荒井孝太郎・坂野潤治 東京大学出版会 一九七一年 三四─四二頁)。 アキタの著作は、とくに伊藤博文を中心にして見事に書かれた書物であり、 一八七〇年代および八〇年代の政治史研究として重要なものである。


Okuma Shigenobu, ed., Fifty Years of New Japan, 2 Vols. (London:Smith, Elder, 1909) (日本語版 副島八十六編『開国五十年史』上下 同史発行所 一九〇七─〇八年)。 本書は伊藤博文や山県有朋らの明治時代の指導的人物の小論文や回想を集めたものである。 また伊藤博文については、 Akita, Foundations of Constitutional Government (邦訳『明治立憲政と伊藤博文』)参照


坂井雄吉の最近の小論文は、美濃部による「中世的立憲主義」の理論的吸収、 とくに彼の天皇制理論におけるそれを強調し、美濃部のライヴァルであった 穂積八束や上杉慎吉が「伝統主義者」であったという通説の修正を辿っている (坂井「明治憲法と伝統的国家観」 〈石井紫郎編『日本近代法史講義』〉 青林書院新社 一九七二年 六一─九三頁)。

以下は坂野潤治によるあとがき。

たしかに現代日本において反体制知識人は表面的にはなお尊敬されているが、 実社会に必要な情報・知識は官僚・財界エリートに独占されているという信念も同時に強く、 歴史上の登場人物に対しても両者の評価は両義的である。 権力側を「腐敗」した「全能者」ととらえ、 反体制指導者を「理想主義」的な「無能者」とみなす傾向は、 潜在的にはかなり強力なのである。 日本近代史を、体制指導者と反体制指導者を同一平面においてとらえようとする場合、 ここで著者が提起している問題は重要な意味をもってくるように思われる。


本書が描いた「官僚的合理主義」と「維新主義」の対立共存という日本政治の特徴は、 二〇〇年前の江戸中期から今日まで、いささかも変わっていない。 本文庫版刊行の二〇一三年夏においても、時の総理大臣(安倍晋三氏)は、 アベノミクスにおいては「官僚的合理主義」であり、 憲法改正論においては「維新主義」である。