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見聞読録 『邪馬台国の最終定理──理系学者が読み解く『魏志』倭人伝と邪馬台国の所在地』 宮﨑照雄

読書中であった

筆者のHP、「 狗奴国私考 」に狗奴国を中心にしたさらなる論稿がある。

もし、倭女王が密かに呉と同盟を結んでいれば、魏の遺使も当然同じ目にあうことは認識していたであろう。 いつ襲われるかもわからない危険をおかしてまで、誰が、初めての地にやすやすと上陸するものか。 魏使は末盧国の津で下船はしていないとすべきである。 魏の遺使団は、「部使往來常所駐」(帯方郡使が往来するとき常に泊まる所)であり、 「王遣使詣京都帯方郡諸韓國 及郡使倭國皆臨津」 (洛陽の京都、帯方郡、韓諸国を訪問するための女王の遣使、及び倭国への帯方郡使が皆臨む津) がある伊都国の津に到着して上陸したのだ。 そのため、伊都国の記述は、「到伊都國」として、「到」を使っている。 他の国には「至」を使い、行先を示しただけである。

……

三世紀頃後漢で「指南魚」が発明された (「海の不思議箱」日本船舶用洋工学会 Web)。 「指南魚」は一種の羅針盤である。 磁石(磁化した磁鉄鉱片)を魚形の木片に組み込み、水に浮かせて南を知るもので、 魚の頭が南を、尾鰭が北を指し示す。 それが指南魚である。 これらの道具「指南」の語源でもある。

……

『魏志』倭人伝は、倭国紀行文や観光案内ではない、戦略図であるのだ。

しかし、「魏志』倭人伝は、未盧国以後、伊都国、奴国、不弥国、投馬国の継に「又」・「自」を使っていない。 つまり、陳寿は「順次読みの筆法」を使っていないのだ。 それゆえに、これらの国々を「順次読み」してはダメなのである。 魏の遣使団は、これらの国々を順次訪問していないのだ。 前述したように一支国から直接に伊都国の津に上陸したのである。

劉宋王朝に伝わった『三国志』魏書東夷伝倭人条にある倭女王の都「邪馬壹國」を疑っていた范曄は、 讃の遣使に聴聞して、女王卑弥呼の都の倭語(やまとことば、日本語)を聞き出したとしたい。 その結果、范曄は、「邪馬臺」こそが倭語の言語音の借字であると理解して「其大倭王居邪馬臺國」と記載した。 つまり、遺使から得た情報に基づき 『後漢書』倭伝を著すとき、陳寿の「邪馬壹」を「邪馬臺」に修正したと、私は考える。

魏の官吏は当然のこととして、女王卑弥呼の宮殿を訪れ、魏の少帝からの下賜の膨大な品々を拝仮した。 その際、女王の宮殿が「山のふもとの台地」にあることを確認したはずで、 倭人が言った「耶麻臺」=「山臺」を「女王の宮殿がある丘陵」として記録し復命したとしたい。

ではなぜ、「臺」に「壹」をあてたのか?「臺」には 「朝廷」あるいは「皇帝が展望を楽しむための高層の建築物」の意味があり、 そのため貴字の「臺」の使用を避けて、似た字である「壹」をあてたと、私は考える。 「耶麻」=「山」を卑字で記したくらいであるから、貴字の「臺」の使用を避けたのは当然のことである。

ではなぜ、南九州の原住民が「侏儒」、つまり低身長であったのか? その原因は、薩摩半島や大隅半島が、三三万年~七三〇〇年前に起こったいくつものカルデラ噴火 (三三万年前の加久藤カルデラ、一ー万年前の阿多カルデラ、二五〇〇〇年前の始良カルデラ、 七三〇〇年前の喜界カルデラ) がもたらした火砕流により形成されたシラス台地(火山灰台地)で覆われていることに因る。 土地は、水はけがよく、酸性であり、ミネラルが消失しやすいので、 シラス台地の耕地で育つ作物はミネラルが不足しやすい。 なかでも亜鉛を含まない作物を人々が食糧にすると、亜鉛欠乏症になり、 細胞分裂が阻害されることにより「亜鉛欠乏性低身長症」を発症する(「亜鉛」 Web)、 したがって、シラス台地の地域である薩摩・大隅半島では、亜鉛欠乏性低身長症が集団で発生することになる。

実際に、古墳の考古学的調査で「低身長症」の人骨が検出されている。

この「地下式墓」を隼人族の墓制と認識するならば、 『後漢書』倭伝が記す 「建武中元二年 倭奴國 奉貢朝賀 使人自称大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の条にある 「倭国の極南界」がどこを指すのか、正しく認識出来るのである。 つまり、「地下式墓」が遺存する宮崎県の西都市の西都原と新富町の新田原を結ぶ線から以北が倭人の居住地域、 即ち「倭国の極南界」であり、旧臼杵郡域 (現在の高千穂町、日之影町、延岡市、東臼杵郡、日向市あたり)と判断できることになる。

先に、女王国から伊都国までの旅程は、行政の実効性を考慮して「一日」であるべきと解析した。 さらに、「水行十日陸行一月」の「一月」は「一日」の誤記・誤植とできると考察した。 第五章では、侏儒国と周旋五千余里の条の論考から「女王国から伊都国までの里程は一日」であると実証できた。

侏儒国から東南船行一年で至る黒歯国はどこかというと、ずばり、ニューギニア島である (鹿児島から東南五〇〇〇km)。 このことは、植物学・食物学・化学の知識があれば、容易にわかることである。 ニューギニア島の住民はタロイモと野生バナナを主食にしていた。 これらの食物は、渋味のもとであるタンニンを多く含む。 タンニンを含む食物を食べ、鉄分を含む水を飲むと、 両者が化学反応を起こして黒化し、結果、歯を黒く染めることになる (※日本人のお歯黒や西洋のインキはこの化学反応の応用である。 また、お茶を鉄分の多い水で点てると青黒くなるのも同じ化学反応の結果である)。 ニューギニア島の古民芸品には黒い歯を持つ男子面や女性木像がみられる(Web)ことで、「黒歯」は実証されよう。 なんと!日本人は、弥生時代既に、メラニシア諸島の住民が「黒い歯」をしていることを知っていたのだ。

では、本当に弥生人がニューギニア島を知っていたのか? 「黒歯国」の記述には、陳寿のトリックがあると、私は考える。 記録に残っているか否かは検索していないが、 後漢の宮廷人は「黒歯国」を知っていた可能性が否定できないのである。 そのことを、陳寿は「魏志』倭人伝で開陳したとしたい。

実は、漢王朝では、金印紫綬の下賜は方物の珍宝・珍奇性で決定していたのである。

二八〇年に西晋により滅ぼされた呉では、孫権は長江(揚子江)流域に国を建てた。 人口の少ない地域であり、兵力の増大強化は孫権の宿願であった。 そこで、黄龍二年(二三〇年)、孫権は兵員の微集のため、将軍の衛温と諸葛直を遣わし、 甲士一万人を将〈ひき〉いて夷洲および亶洲〈たんしゅう〉を海中に求めさせた。 しかし、亶洲は所在絶縁で、到ることができなかった。 かわりに、夷洲(台湾?)から数千人を連れ帰った (「黄龍二年・・遺将軍衛温諸葛直将甲士万人 浮海求夷洲及電洲 亶洲在海中 長老伝言 秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海求蓬莱神仙及仙薬 止此洲不還 世相承有数万家 其上人民時有至会稽貨布 会稽東県人海行有遭風流移至亶洲者 所在絕遠卒不可得至 但得夷洲数千人還」 『三国志』呉書呉主伝第二 孫権条)。

この「人狩り」ともいえる船団の基地が「会稽東県」すなわち「会稽東治」の東の湊と推察される。

話はそれるが、魏の冊封体制に入った女王卑弥呼に対して二四七年頃より戦闘態勢に入った 狗奴国〈くなこく〉の卑弥弓呼〈ひみここ〉が、呉と同盟を結んでいたという説(松本清張、ほか)もあるが、 全くの妄想であるといいたい。 前述の亶洲は日本のこと解されている。 呉の孫権は兵力の増大強化を宿願としており、同盟を結べば狗奴国から多数の人民の供出が強要され、 魏との戦争で多大な犠牲をだしていたことは想像に難くない。 それでは、女王国との戦闘(二四七~二四八年)などなしえない。 狗奴国が呉と同盟を結んだことは、絶対にありえないといえよう。 孫権は、兵力の増大強化のため、平気で人狩りを命じるような人物であり、 映画の「レッドクリフ、赤壁の戦い」でえがかれたような有徳の人物ではないのである。

それでは、撣國王と同じ朝賀で金印紫綬が下賜された「伊那(委奴)国王」の方物は、何であったのか? それは「倭国の極南界」が産する「珍宝」すなわち「金」であった。 「倭国の極南界」である宮崎県県北を流れる五ヶ瀬川上流域の高千穂町や日之影町には金銀銅の鉱山があり (日本の鉱山の一覧 Web)、古代の五ヶ瀬川支流では砂金や金塊が採取できた。 「伊那(委奴)国王」はそこに暮らす山武族〈やまつみぞく〉から金を入手していたとしたい。

木花咲耶姫(神吾田津姫)は吾田邑〈あたのむら〉(現在の延岡市)に拠点を置く大山祇の姫であったのだ。

鉅奴国=狗奴国では、青銅器だけではなく、阿曇族の海人が弁辰から移入した鉄鋌や、 現地に産する褐鉄鉱〈かってっこう〉から製鉄した鉄を用いて農具や武器を製造し、 稲作を盛んにして国力を増大させた。

……

倭国大乱とは、一九〇年前数年間に行われた伊都国陣営と鉅奴国(狗奴国)の戦闘と判断したい。

……

福岡平野と筑紫平野とをつなぐ二日市構造谷(筑紫コリドー)に臨む筑紫野市にある 永岡遺跡、隈・西小田遺跡(弥生時代中期?)からは、 合計約四百八十体の遺骨を入れた甕棺墓などの墓が発掘されている。 そのなかの大人の遺骨には青銅器の切っ先が突き刺さっていたり、頭を割られていたり、首がなかったり、 あるいは首だけだったりと、無残な「戦死者」がとにかく多い(隈・西小田遺跡 Web)。 戦場がこのあたりにあり、戦死者を弔った墓地遺跡ではないだろうか?

「倭国大乱」とは、決して、幾千万の軍衆を動員しての大戦争でもなければ、 日本列島の邑々を巻き込む戦闘でもないのである。

褐鉄鉱(湖沼における鉄バクテリアの代謝生成物)を用いた製鉄であるが、 山内祐子の実験では、七輪で送風しておこした炭火(約一二〇〇℃)に褐鉄鉱を投入して加熱する方法で、 五〇〇グラムの鉱石から約三〇グラムの海綿鉄・鉄塊・鉄球が得られた。 得られた鉄は極軟鉄であったが、鍛造すると鍛接可能で、鉄鏃や刀子を作る事ができた (「古代製鉄原料としての褐鉄鉱の可能性」山内祐子)。 この実験結果からわかることは、砂鉄や鉄鉱石を原料とする「たたら製鉄」でなくても、 褐鉄鉱から簡便に製鉄できるのである。 鉄滓〈てつさい〉が大量に検出される鍛冶遺跡では、褐鉄鉱を用いた製鉄を行っていた可能性が高い (奥野正男『邪馬台国はここだ』梓書院 2010年)。

この台与の御子こそ、記紀神話および『先代旧事本紀』に現れる 「饒速日尊、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊、天火明命」であり、 後世、「瓊瓊杵尊」の兄として脚色されることになる。

倭国大乱で、伊都国陣営と戦争をした狗奴国(鉅奴国)はどこにあったのであろうか? 狗奴国の官の狗古智卑狗〈くこちひこ〉が、旧菊池郡久久地〈くくち〉(=岐久地)に通じ、 「菊池彦」と解釈できることから、通説とおり熊本県の菊池川流域と比定できるのではないか。

熊本県の山鹿市の菊池川と方保田川に挟まれた台地上に広がる、弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡として、 方保田東原〈かとうだひがしばる〉遺跡がある (井上筑前 邪馬台国大研究:歴史倶楽部168回例会・肥後熊本・吉野ヶ里の旅 Web、 「方保田東原遺跡」山鹿市教育委員会社会教育課 Web、 「方保田東原遺跡の全容」中村幸史郎『季刊邪馬台国』133号 2017年)。

天武十二年(六八三年)、天武帝の勅命により、『日本書紀』編集に、小錦下阿曇稲敷〈あづみのいなしき〉が、 川島皇子ら十一人と共に「帝記」および「上古の諸事」を記す任に着いている。 『日本書紀』が記す「伊弉諾・伊弉冉の国生み神話」に登場する洲々を詳細に考察すると、 全て阿量族の拠点が在る地域や島であることがわかる (詳細は、いずれ別書で述べる。それでは『古事記』にでてくる島々の選択基準はなにであったのか? 考えてみてください)。

また、国生みの情景は大きな器を使った製塩の情景を映しているとされる (森浩一『日本神話の考古学』朝日新聞社 1993年)。 その製塩を淡路島で行っていたのが阿曇族である。 つまり、紀元五七年「伊那(委奴)国王」の後漢光武帝への奉貢朝賀に活躍した阿曇族の後裔が、阿曇稲敷である。 であるならば、『日本書紀』の「上古の諸事」には、 阿曇族に伝承されてきた事績が、ちりばめられていても不思議ではない。

その後、伊弉諾尊が、小戸の海で左目を洗ったとき天照大神、右目を洗ったとき月読尊(月夜見尊)、 鼻を洗ったとき素戔嗚尊〈すさのをのみこと〉が化生する。 この三貴子は人格を持った神とされる。 私は、「伊那国」が内紛で、伊都国と奴国に分裂し、さらに奴国の分国として鉅奴国が興ったと解した。 記紀神話は実在した人物を「⬜︎⬜︎⬜︎の神」、「△△△△の尊(命)」と神格化して描いていると判断するので、 独り神となった伊弉諾尊は、「伊那国王」であり、天照大神は伊都国の表徴で人格は卑弥呼、 月夜見尊は奴国の表徴で人格は卑弥弓呼、素戔嗚尊は狗奴国の表徴で人格は卑弥弓呼に比定できよう。

倭国大乱の前、伊那国(委奴国)の内紛により分裂してできた奴国と伊都国は融和を図るため、 伊都国の権力者の女(むすめ)の卑弥呼と奴国の王族本貫の卑弥弓呼は結婚(入り婿)していたとしたい。 政略結婚ではあったものの、倭国大乱の最中だけでなく、乱の後もしばらくは、二人は仲睦ましく暮らしていた。 その場所は、天照大神と素戔嗚尊が「子生み」をかけて誓約〈うけい〉をおこなった安河が流れる邑 (平塚川添遺跡の環濠集落? 旧福岡県朝倉郡夜須町)である。 「安河が流れる邑を含む環濠集落群の地域が邪馬台国であり、高天原である」とする安本美典説にしたがえば、 平塚川添遺跡の環濠集落は二日市構造谷(筑紫コリドー)の南端域にあり、 福岡平野を拠点とする奴国と背振山地南山麓の丘陵にできた伊都国の新開発領域とはほぼ等距離にある。 伊都国と奴国の融和を図るために政略結婚した卑弥呼と卑弥弓呼が暮らすにはふさわしい所と言えよう。 この時、卑弥呼は卑弥弓呼よりかなり年長であったとしたい。 ただし、誓約で生まれた三人の女子と五人の男子についてはここでは論考しない。

卑弥呼の新鏡としての「日像鏡」のモデルといえる小型の銘帯内行花文鏡および大型の長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡は、 社家海部氏の祖神とする饒速日命を祀る籠神社(元伊勢籠神社、京都府宮津市)の神宝として公開されている。 『魏志』倭人伝以後の華夏王朝の史書を読み解くと、饒速日は、卑弥呼の宗女である台与(臺與)の御子とできる。

実は、卑弥呼弑殺の現場が、銅鐸に描かれていたのである。 兵庫県桜ヶ丘(旧神岡)出土の平鈕式銅鐸、神岡〈かみか〉銅鐸5号にある「三人の争い図」がそれである(図2-11)。 図では、「一人の小柄な女の頭を中央の男が左手で驚づかみし、 今にも振り下ろされようとする剣をもつ男の右手にもう一人の女がとりすがっている」 (三角頭は女性、丸頭は男性を表す)。 この絵の解釈には諸説あるようである。 私なりに解釈して、「小柄の女を、男が剣で切り殺そうとするのを、もう一人の女が必死に制止している」ようにみえる。

現在の糸島市前原町に平原遺跡があり、そのなかに方形周溝墓が原田大六らによって発掘されている。 発掘当時、幅ニメートルほどの溝がめぐる方形墓の大きさは 東西十八メートル、南北十四メートルであったと記録されている(図2-13) (『戦後50年 古代史発掘総まくり』朝日新聞社 1996年)。 原田大六による平原墓の発掘について、森浩一は以下のように解説している (森浩一『古墳』保育社 1970年、第342回邪馬台国の会「卑弥呼の墓」を考える『魏志倭人伝』を徹底的に読む 徇葬 Web 所収)。

「昭和四十年(1965年)二月、福岡県糸島市前原町平原で原田大六氏らによって発掘された古墓がある。 その古墓は、長大な割竹形木棺を埋葬施設にし、銅鏡だけでも42面分の破片を副葬した方形周溝墓である。 原田氏は、古墓の東に接した別の古墓も調査した。 その際、周溝を丁寧に調べると、水を流す溝ではなく、殉(徇)葬用の墓穴を連続させた可能性がつよく、 溝内に16人の葬があったことが推定できるとした」。 以上、引用終わり。

この時、鏡の前を飾る玉飾り、および守護の武器も作られた。 『記・紀』・『古語拾遺』・『先代旧事本紀』は記す。

「櫛明玉神が八坂瓊の五百筒の玉飾りを、石凝姥命が天の金山の銅を採って日矛〈ひぼこ〉を、 天目一箇神が諸々の刀・斧および鉄鐸〈てったく〉を作った。 鉄鐸は日矛に飾りつけられた。 云々。 天の香山の枝葉のよく茂った賢木を掘りとり、賢木の上の枝には八咫鏡を掛け、 中ほどの枝には八坂瓊の玉飾りを掛け、下の枝には青和幣・白和幣を掛けた」

これで、濱の準備が整ったのである。

……

天宇受売命の行動でいえば、「歌舞」ではなく、まして、祭りの俳優のストリップショーと認識してはダメなのである。 天宇受売命が「神憑りになったように喋る」とは誄〈しのびごと〉と理解すべきなのである。 「誄」、つまり現代の葬儀の際の「弔辞」である。 「誄」は故人の生前の事績を述べる。 天宇受売命の「舞と喋り」は卑弥呼の一代記を述べる誄であったとすべきなのだ。 天宇受売命がその頭脳に記録してきた卑弥呼の一代記を、踊りながら誦唱〈ずしょう〉したのである。 これが、『記・紀』に表された「誄」の初出であり、「鎮魂の神楽」の起源とみるべきなのだ。

「天照大神は、祭の騒ぎをあやしまれて、石屋戸をわずかに開いて、わけを問うた。 天宇受売命が答えた。 『あなた様よりも、素晴らしく尊い神がおいでになっているので、喜び笑っているのです』。 天太玉命と天児屋命が新鏡をそっと差し出して、天照大神に見せると、 天照大神は少し細めに石屋戸をあけて鏡を見た。

そのとき天手力雄神は、その扉を引き開け、天照大神の御手をとって引き出させて言った。 『復な還幸りましそ』」

この天照大神の岩屋戸からの再臨の情景では、天宇受売命は「台与が新女王に推挙された」ことを伝え、 台与は卑弥呼の鏡が無事であった事を確認した。 そして、台与は、宮殿の外に出たのである。 台与(壹與)は十三歳にして、二代目の女王になった (「復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定」『魏志』倭人伝)。

その時、投馬国(出雲国)の葦原中国〈あしはらのなかつくに〉に拠点を構える大國主命が 本州島と四国島を統治しており、東遷するためには大國主命から統率権を奪わなければならなかった。 そこで、出雲国へ船での交通に便利なように、都を伊都国に移し、 そして響灘西部から玄界灘に勢力を持つ胸形(宗像)氏と、 隣接する古遠賀潟流域に勢力をもつ物部〈もののべ〉の氏族に操船と造船の協力を求めた。 鉅奴国の本貫である奴国の阿量族には協力を求めることができなかったからである。 胸形氏と物部族には、女王台与の叔母(義理の姉?)にあたる多紀理毘売(田心姫 たごりひめ)、 市寸島比売(市杵嶋姫 いちきしまひめ)、および多岐都比売(湍津姫 たぎつひめ)の三女神が交渉にあたった。 これが縁で、三女神の神魂(多紀理毘売の青玉、市寸島比売の紫玉、多岐都比売の八咫鏡)が 宗像三所(沖津宮、中津宮 辺津宮)にそれぞれ鎮座し、胸形君により斎祭られることになる(『古事記』)。 また、物部族の領域である遠賀川流域にも三女神降臨の伝承が残されることになる。

他方、横穴式石室は扉のついた出入り口をもち、死者の部屋、 つまり玄室に現世の人間が立ち入ることができる(図3-3)。 当然、死体の変化を目撃することになる(森浩一 前掲)。 それに、横穴式石室は扉のついた出入り口をもつので、玄室は密封状態になる。 動物の腐乱死体は四〇〇種類以上の輝発性有機ガスを発生する。 当然、炎色はそれぞれに異なる。 黄泉国の伊邪那美命の死体の上に現れた八色の雷光(大雷、火雷、黒雷、折雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷)は、 伊邪那岐命がともした火から引火して発火した種々の輝発性有機ガスの炎であるとできる。 火を持った人物が動き回れば、ガスも動き、炎はついてまわる。 この様子を、伊邪那岐命を襲う豫母都志許売〈よもつしこめ〉として脚色したのである。 伊邪那岐命は恐怖のあまり失禁しながら石室の入り口に逃れ、剣を後ろ手に振りながら羨道を通って外に出て、 磐石で入り口を塞ぐのであった。