「 …、一言語のみ習得している者はモノリンガル(monolingual)、二言語の環境にいたものの母語と二言語目の両方において年齢に応じたレベルに達していない者はセミリンガル(semilingual)と呼ばれる。
近年セミリンガルという言葉が否定的だという意見が増え、ダブル・リミテッド(double limited)という名称が広まりつつある。ダブル・リミテッドは、日本において帰国生徒や日本に住む外国人児童の間に散見されるため、とくに教育関係者の懸案事項となっており、言語学や教育学の専門家による研究が広く行われている。
言語獲得は環境および年齢差・個人差が大きい上に、日常会話能力(BICS)はバイリンガルであっても、抽象思考や学習のための言語能力(CALP)がダブル・リミテッドの状態にあり教科学習に支障をきたす者もいる。
何をもってバイリンガル、何をもってダブル・リミテッドと判断するのかは未だ曖昧である。 」 (『多言語』 Wikipediaより)
ポリグロットに関してチラ見してたらこんな内容。まあ、そういうことはあろう、というか非常に心配だよなあ、とさらにチラ見すると。
英語教育は小学校2年生からが良い!? 外国人児童には「ダブルリミテッド」問題が浮上
http://news.ohmynews.co.jp/news/20070704/12813
英語教育をいつからするべきかはともかく、気になったのは以下。
日本にいるブラジル人労働者は半分以上が東海地方居住らしい。その外国人児童が抱える問題点は、日本語が話せない、という単純なものだけではない。言語学的にダブルリミテッド(2カ国語とも十分に話せない)と呼ばれる児童が中部地方や関東地方で増加しているという。
家族で移住するケースが増え、幼いころに来日、あるいは日本で生まれた外国人児童にこうした問題が起きているとのこと。彼らは、ポルトガル語も日本語も不完全で、日本語での日常会話はできるが、抽象的な事柄を考えたり、物事を順序だてて説明することができないので授業でつまずくという。
教育問題としてはともかく、自分にひきつけて考えてみる。
意識とは言語であり、無意識とは意識=言語の残余として遡及的に形成されるもの、という考え方に慣れている僕にとっては、要するに、言葉で表せることがその人が考えられることのすべてであって、言葉で表せなければ考えていないのと同じ、としてしまうほうが親しみやすい。
もちろん、意識にある概念は常に増え、豊かになっていくわけで、その過程でそれまで意識できなかったことが意識できるようになるときの、恐慌的な状態があることは身を持って知っているつもりだが、だからといって、そこで獲得された意識が、それ以前にも存在したとはあまり思えない。むしろ、言語システム内での組み換え強迫の結果のように思える。
たとえば、「無限」の概念は「無限」という言葉を知って初めて意識に組み込まれる。最初は理解不能な異物として。それが理解可能な形に組み込まれるときには、それなりの恐慌的な心的状態を経てそうなるのだ、と経験的には感じる。
しかし、ダブル・リミテッドの状態というのは、もしかすると、言語以前に備わっている意識、…「意識」はここでは言語だと仮定しているし「無意識」も「意識」なしでは生まれ得ないから、「プロト意識」とでも言うか…、言語以前のプロト意識をも、言語によって捕捉できないという側面が強いのかもしれない。
それは、本能に近いような感情であったりするのだろうか。たとえば、Jeff Beckなんかそういう意識の持ち主なような気がする。savageですな。
たとえば、どうもなんか落ち着かないとか調子が悪い、いらいらする、落ち込む、考えがまとまらない…、などなどネガティヴな状態を感じていて、なんでだろう?と考えて、そうか、空腹だったんだ!と気がつくとすっきりするが、そのすっきりしない前の状態に、いろいろな状況で逢着するということか。
僕にとってこの記事が興味深かったのは、ダブル・リミテッドの背景に、早い時期の移住があるとされていたからで、詳しくは書かないが、実は、最近知ったキャラクターの強い人がいるのだけれど、もしかするとダブル・リミテッドに近いところがあるのかも、とはたと気づいたからである。
その人は日本で生まれて幼いときにブラジルに移住、今は日本に滞在しているという、多分もう30代から40代にかかっているだろう人なのだが。その人の雰囲気が、まさにそんな感じなのだ。
この記事を読むまでは、その人は日本に来たばかりでほとんど日本語を解さないためにそういうキャラが出ているだけで、ポルトガル語でコミュニケーションすればまた変わるんだろうと漠然と思っていたのだが、実はそうでないのかも知れない、と思った。
もう一つは、まさに自分について。
英語やフランス語で考えようとすると、途端に、言いたいことの100万分の1も言えずに苦しむことがほとんどなのだけれど、幸い相手を考えずに自分の中だけなら日本語に逃げることもできるので助かってるけれども、まあ、なんというか、この感じはなんなのだろう、と、しみじみ思うわけで、もし母語に逃げて落ち着くことができずにずっと暮らさなければならないとしたら、それはそれは大変だろうなあとしみじみ思うわけである。
ただし、ここで注意しなければならないのは、言いたいことが言えることの100万倍あると思えるのは、つまり母語がある程度使える、というか、母語によって形成された意識がそれだけある、ということだけれど、それはともかく。
ある命題を腑に落ちるように理解するには、ときとして困難だ。誰でも、宇宙の果てに何があるのかと考えて、宇宙には果てがない、果てがないってどういうこと??と、悩んで苦しくなった経験があると思うが、要するにあれである。「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」と書いたパスカルが経験したのはそれだろー!?と僕は勝手に決めているが、まあしかし、息もたえだえになるくらいに苦しんでも理解できない、という経験を経てなんとか腑に落とすような命題、というのは誰にもあるだろうが、普通はそれほど多くないだろう。
しかし、いったん母語を離れるとそれに似たような事態の中に継続して叩き込まれることになる。それはまあ、しんどいことであるな。
しかし、これもまた不思議なのだが、それはまたこの上もなく刺激的だし、外国語を学ぼうとすると、どうも気持ちの上だけは積極的にそういう事態を招くようなやり方でこそやってみたいと思ってもいるらしい、ということも最近あらためて感じるのだった。
物好きなのかなw