レビューを書いた。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
[
](http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=2444430&id=1129282)
4.00点 ( 167人中)
水村 美苗筑摩書房2008年11月
この人はもしかするとあまり知られていないかも、どういう人かというと…。
東京生まれ、12歳で父の転勤でニューヨークへ移住するもアメリカに馴染めず、円本の日本近代文学全集に逃避する少女時代を経て、イェールで仏文を専攻、のち創作の傍らアメリカの大学で日本近代文学を教えた経験を持つ。作品には、漱石の未完の遺作『明暗』の続きを書いた『続・明暗』、英語漢字かな混じり文で小説を書きたいという発想から生まれた『私小説 from left to right』、未読だがブロンテの『嵐が丘』を現代日本に翻案した『本格小説』がある。ちなみに夫は経済学者の岩井克人で、こんなことをいってはなんだが、彼の専門以外の(文庫や新書になるような)仕事の素晴らしいものは、多分ほとんど水村の影響が大きいと僕は睨んでいる。岩井が最近その面で冴えないように見えるのは…、ともかくw
英語の世紀⇒日本語が亡びる、という図式は実際のところ因果関係があるとはっきり言えるわけではない。英語が世界の普遍語になるというのも、日本語(というか日本語で書かれた文学)が、制度的文化的歴史的その他の面でまさに亡びんとする状態にあるというのも、それぞれはもう二十年前から見えていたことである。「亡びる」というのは、日本語を母語とする人がすべていなくなる、ということではなく、それまでの豊かな成果と可能性を持ちえていた国語の特質をほとんど失って、似ても似つかない貧困な道具に成り下がることを「亡びる」といっているのは言わずもがな。
しかし、普遍語としての英語を道具として使いこなす日本人は増えているかもしれないが、そのことが、日本文学の才能の枯渇を招いている直接の原因とはいえまい。むしろ日本(というか全世界的に)の文学的才能の枯渇は、世界の普遍語をめぐるヘゲモニー争いとは別に、他業界への流出がもたらした、というのが二十世紀を通じてある流れではないのか(他業界とは、映画、音楽、テレビ、ゲームを始めとしたコンピュータ、等々)。まあ、どちらもアメリカ式産業資本主義の世界化(グローバリゼーション)の一側面という気はするが、実際のところ日本にいて文学を志し(w)結局英語で書くべきという強迫から英語で小説なり詩を書いて世界的に成功した日本人の文学者というのがいないのだから、それを直接結びつけるのは無理ではないか。
ことばを、コミュニケーションの道具として収まりよく見るか、それも一側面であるもっと怪しげなものと見るか、人によって違うだろうけれども、文学をやろうなんていう人間は、ことばをコミュニケーションの道具だとして自足できるわけはない。いっぽう、英語が普遍語になるなら英語を書くべきという強迫は、むしろ、ことば、言語、国語をコミュニケーションの道具として簡単に見ることができる人たちのものである。しかし、文学とて人に読まれることを前提としている以上、その強迫にまったく無縁ではいられまい。
しかし、人間書くためだけにことばを習得することなどできないのであって、何語であろうと、それが浸されているところの文化や歴史をともにしつつ読み得たことばを使って書くことができる「可能性はある」というだけなのだ。食わないものは出ないし、食っても出ないかもしれないのだ。それが誠実に行われたときに勝れた文学が生まれるだけであって、それは普遍語が何か、などは本質的には関係ないはず。書きたいことは何語で書くか、と切り離して出てくるわけではないので、日本語でしか書けないと作者が思えば日本語で書けばよいし、英語でしか書けないと思えば英語で書くより他になかろう。文化が先にあってことば(や、その他のさまざまな文化現象)があるのではなく、ことばその他をある歴史的視点を持ってみたときに「文化」とでもまとめるよりないなにものかが判別できるような気がするに過ぎない。
水村が最終的に日本語と日本文化の伝統を守れ的な意見に落ち着くのは、「英語で書くべき強迫」、および、アメリカにいながら英語に馴染めず、近代文学全集を読みふけって成長した「傷」によるものと、決め付けられなくもない気はする。
それはいかにも江藤淳なんかに似ているのだが、江藤以前から、もちろん今でもありふれている美しい日本語論者よりは、ニュークリティシズム、ポストモダニズム、マルチカルチャリズムの教養をしっかり身につけて使っている分、現実に即しているようにみえてしまうし、個別の分析は実際現実に即しているのだろう。しかし、私見では、水村が批判的に書いている坂口安吾の『日本文化私観』のキモは、(水村の意見によれば、島国という日本の地理的条件により偶然に守られていたに過ぎないのに)「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ」と書くような、他の脳天気と同意だと誤読されそうな箇所にあるのではない。「守るべき日本文化とはなにか」という構えからはイデオロギーしか産まず、文化から(文化的事象を含む)生活を見る視線に生産性はない、ということだと思う。「日本文化私観」が、多くの曖昧な情報認識(それは近年いろいろ指摘されているが)にもかかわらず、実は、「日本人の生活が健康だとはどういうことか」という問いへの答えを宙吊りにしたままで(それは、その都度の根拠のない―と、とりあえず書くが―認識によってしか知りえない)「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ」「法隆寺をとりこわして停車場を作るがいい」と書きえたところにある。それは、『堕落論』や『白痴』その他の彼の小説をあわせて読んでみれば明らかなことだと思う。
そこを他の論者の意見と区別できないというのは、やはり「傷」の故なのか、それはよくわからないが、したがって、多くの勝れた文学作品と同様、本書の素晴らしいところは著者が意図したところにはあまりないのではないかと思われる。たとえば本書の第一章、「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々」の描写などは実にいいと思う。水村は本書で日本語と日本文化と日本近代文学を救うためにどうすればいいか、さまざま提案するのだが、実はそれは一方で滅び行く国語であることを意識しつつ―したのかしないのかはともかく―、やはり覇権を失いゆく国家・国語・文化を、それでも、ナショナリスティックに守り、あまつさえ高く売れる商品にさえしようとするフランスのやり方の模倣のようなところがある。政策としては僕もそれがよいだろうと思うが、決して真新しい提案ではない(常に少数派であるだけ)。しかし、ある部分に限られるとしても、読む者に日本文学の伝統がここに生きていると思わせるものを書く、ということが、水村個人ができる最大の貢献なのではないか。
批評として言えば、小林秀雄を代表として、言ってることは伝統教養重視なのに、実は、(日本語も含めて)どの言葉もあまり得意そうでない人たちがいる一方、逆に言葉はよくできるのに考えが足りないので伝統教養重視といってお茶を濁している人たちが一方にいて不毛に対立、という、それこそ日本近代文学の伝統となっている事態を、よい意味で壊す可能性がある、という期待を込めて、心配しつつ今後も読んで行きたいと思う。
著者がこのまま日本に棲みながら、「外国に縁がある手相」のままに、さまざまな風にあたりつづけて、「書きたい言葉で書けばいい」と達観し「読めるようにする努力は最大限するが、読みうるものが書けるとは限らない」と開き直らないだろうか。そういう書き手が一人でもいるうちは日本語は亡びたりはしない、と明るく強弁しつつ、そうなったときこそ、彼女がいう日本語と日本近代文学の他の言語に勝る点を活かすことができるのではないかと思うが。