過去ブログから転載加筆修正ブックレビュー
TITLE: 環境と文明の世界史 / 石 弘之, 湯浅 赳男 , 安田 喜憲 (新書y) DATE: 01/10/2006
2006年の始まりにあたり(ってもう10日も経ってるが…)、こんなのはいかがでしょう。
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ
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3.84点 ( 13人中)
2001洋泉社石 弘之, 湯浅 赳男, 安田 喜憲
環境学の石弘之、環境考古学の安田喜憲、経済人類学の湯浅赳男が人類誕生から現在までを環境史の面から話し合った鼎談本。二十万年前~紀元前2000年頃/~15世紀/~現代の三部構成で各部で一人が仕切りを担当している。
いきおい各人の専門領域に重点を置いた構成になっていると思われるが、それでも世界史全体の流れとして不自然さは感じない程度の話題はカバーされていると感じる。
昨今スローライフだのLOHASだのといった言葉がもてはやされていて、個人的にはそれらの言葉に取り立てて感慨は持たないけれども、まあ要するに、今の資本主義社会において商品化可能になったからこそ話題のぼるようになったに過ぎない。
個人的なスタイルとして好悪を云々するのは結構だけど、人類史とは環境破壊史の別名だともいいたくなりそうな、本書で言及されているような実態を少しは知ったうえで気が向いたらやってみようとなればより足場は固まるかと。
未来への展望で結びとなるが、現状分析からいえば、本書の結びで提言されているようなソフトランディングでの解決は(数十年先というリミットから考えても)無理で、局地的か世界規模かはわからねどカタストロフによるハードランディングが待っている可能性のほうが高いのでは、と個人的には思う。
まあ今の人類のDNA分析によると一時的に40人~一万人規模に減った痕跡もあるそうだし、読んでいると、そんなものなのかなあという気にもなってくる。
確か、僕が子供の頃にはイースター島の巨石像が発見されたときに島に住んでいた人たちは巨石像とは関係ないのではないかといわれていたような気がしていたのだが、これも一度は7000人以上に増えた巨石像を作った住人たちがカタストロフで激減、未開化した結果であるらしい。カタストロフも未開化も、短い人類史といえどもさして珍しいことではないのかも。
まあしかし、そんな構えなくても興味深いトピックには事欠かない。
たとえば、ヨーロッパ中世の奴隷獲得("Slave"の語源はスラブ族のことなんだそうだ)の話や、インドの肉食忌避の話が興味深かった。この辺はもう少し詳しい文献がないかと思う。
また、ドイツやスイスの広大な森林がほとんどは自然林ではなく、いったんの森林資源の衰退を経て、今に至って人為によって、やっとここまで復活したのだという話や、自然林というのはそのままでは生産性が低く、人がつかず離れず手を入れなければ、よい森林や生態系(あくまでも人間にとってだということはそれでも言っておく必要があろうが)を維持することはできない…、これはまあ「となりのトトロ」なんかでも引用されているくらいの意見だから、いまやそれほど目新しくもないかも知れないが。
そしてこれはトリヴィアにするには重すぎる話題ではあるのだが、森の民、稲作の文明(といっしょにすると縄文・弥生も一括した日本の文明として語れてしまってどうも都合良すぎると思うのだが)は、欲望のコントロール装置がきかないと成り立たず、結果個の自立が妨げられてヨーロッパ的な個人は出てこない、しかし、個が自立していればいいのか?と問いかけた部分。
本書でもバタイユ等が引かれているが、それは洋の東西ですでに問われ続けてきた問題であるわけで、安易にそっちにいくと現代の条件下では集団主義の熱狂からファシズムへとなりかねないし、逆にたとえばH.G.ウェルズのように、確立した個人主義から世界史をみれば絶望せざるを得ない、ということにもなる。
そして、どっちつかずの状態からみれば室町から戦国時代の日本がある種パラダイスに見える、というのも、まあ過去にも言った人はいるわけで、そこから出てきた織田信長の絶対主義的アプローチが頓挫せず徳川封建制でなく職豊絶対主義王権が誕生していたら、逆に、そう安易に『日本のルネサンス』を持ち上げられたかな、なんてことも考えてしまう。
が、世の中どうするかなんて話だけでなく、自分のライフスタイルをどうするかにも直結する問題設定であるから、重いってことになってしまうのだけれど。
本書では(特に安田)、延々と環境破壊(と、ひいては共食いともいうような暴力性の発揮)を繰り返してきたのは、基本的には狩猟民族であり、ヨーロッパ人をはじめとする肉食民族であり、そういった価値観やライフスタイルをあきらめなければ未来はないという見方が底流にある。
事実として過去を振り返れば確かにそうだろう。だが、それをなんというか、そういった破壊と暴力性を保持してきた(そして今も保持している)人間たちの存在条件のようなことに話を収斂させて行くのは注意深くなければいけないと思う。
彼らがここで話しているほど、新人は凶暴ではなかった(この本に書いてあることが全部過去の事実だとしたらもうみんな剃髪して仏の道にでも入らなければ未来はないかのように思えてくるがw)ことを裏付けるような遺跡・遺物調査の結果が出ていなくもないことは、本書の後出た同種の話題を扱った本から伺えなくもない。
まあ、しかし基本はやはり本書の目線なのは未だに変わっていないように思う。
これを書いてから2~3年で地球温暖化がクローズアップされて↑に書いた売り文句に、さらに「エコ」というのも加わった。
しかし、忘れてならないのは要するに現代に置いてはそれらの破壊も、あるいは解決も、すべて、資本主義、商品経済、儲かるかどうか、という大前提をおいては行われない、ということ。
そしてそれは悪いことでもなんでもなく、悪い側面はどんなシステムにもあるわけで、むしろ貨幣は、もしそれがなければ繋がる可能性もなかった人同士を繋げる可能性さえ持つメディアでもある、ということを考えた方がよいだろうと思う。
簡単に言えば、こんな本を読んで普通は考えないことを考えうる、ということだって、資本主義だからできることで、そうでなかったら、そもそも世界のどこかにはもっと貧困に喘いでいる人がいる、ということさえ知らずに終わってしまうかもしれない。
資本主義の性能を高めるということに、そういう価値観を入れて行く。
それはつまり、資本の魔力にとらわれている人間たちそのものを変え、資本主義経済そのものを変え、フルに使い切る以外には持続的解決の道はないということではないか、と思える。
実際には商品経済に生かされているだけなのに(僕も含めて大部分がそうだろう)それに気づかぬふりをするのはみっともないし、強引に商品経済から自分の身を引きはがそうとするのも持続可能性に乏しい。
そして、自分が意見や行動を変えるのは自由だが、他人にそれを強制することはできない。