過去に読書中であった。
増補版 が出ているとのこと。 読むかどうかは未定。
以下転載。
「権力を取らずに」というタイトルだが、中身を読めば、権力を取っても世界は変えられず、 取らなくても変えられないと書いてある。 しかしこれは出発点を示した本なのだ。 出発点がこれであり、だからこそ希望があり、元気がでる。
社会的自己決定にもとづく社会、コミュニズム社会は、ほんとうに可能なのでしょうか。 私たちにはわかりません。私たちは、「もうひとつの世界は可能だ」といいます。 しかし、ほんとうに可能であるかどうかは、実際にはわからないのです。
とはいっても、それが問題だというわけではありません。 そのことが議論を左右するわけではありません。 コミュニズム(自己決定)は、すべての川が流れ込む海、ユートピアの星、 差し迫って必要なものでありつづけているのです。
コミュニズムはユートピアの星です。でも、それ以上のものでもあります。 私たちを鼓舞してくれる未踏の目標といったものではなくて、差し迫った必要なのです。 それは、けっして、政治的実戦を方向づける公理というようなものではありません。 いまや、かつてなく明白になっているのは、 人類の自滅がはっきりと資本主義の日程に上ってきていることであり、 これを避ける唯一の途は、私たち自身が社会発展を決定づけることができるような社会、 社会的自己決定にもとづく社会をつくりだす途しかないということです。 社会的自己決定に向かう営みは、差し迫って必要なもの、 支配の表面の割れ目を一所懸命に探し求めるべきもの、希望に対立する希望になっているのです。
おそらく、コミュニズムは、なによりも、寄せては返す答えのない問いの波また波、 創造されるべき世界、コンマを打たれた世界、しかしピリオドのない。
結びの文章だがこれはどうしても必要なのか。 「人類の自滅」をたてにして変革を迫るのは昨今の流行ではあるが、 この場合、社会的自己決定にもとづく社会が自滅を防ぐというのは希望的観測に過ぎない。 しかし、社会的自己決定にもとづく社会への希求は、実は要するにそうなりたいからそうなろうとする、 以上の根拠づけは必要ないのではなかろうか。 むしろ、全体ではそのことのほうを云っているように読めるのだが。
ちなみに、この結びは原文では、
Perhaps, above all, communism is wave after of unanswered questions, a world to be created, a world with commas, but no full stop
と、まるで落丁か何かのように、実際にピリオドもなく途切れている。 僕は、思想内容のおもしろさだけでなく、それを綴っている文体というか文章そのものが、 内容の実践になっているような文章が好きだ。
この本もそれに入る。
「人類の自滅」イメージについては、自分の中でも結構変化はあった。
まあ当り前なのだが、核戦争が起きようが(地球自体が吹っ飛ぶとかは別として)、 気候変動が極大化しようが、人間が一人残らず死に絶えるなんてことはないわけである。
過去には地球上の人類がそれこそ数万人単位まで減少したことがあったらしいが、 そこからまた人類は増え、今の文明社会となった。
むしろ人口がどのくらい減るか、ということではなく、 我々の生活がちょっと想像できないほど悲惨なものになり、 それでもだらだら生きていかざるを得ない、というのが今のイメージになっている。