過去に読書中であった。
以下転載。
40年近い昔、思想的な本を読み始めた時に手にとったのは、 久野収、鶴見俊輔、丸山真男、神島二郎といった人たち。 今読んでみると、むしろ自分の考え方で変わらないところ、 変わったところが浮き出てくる気がする。 しかし、当時読んで感じたよりもあらためておもしろいことを言ってる部分があると思う。
ウィリアム・モリスをあらためて再評価しなければいけないという件は、 ここ数年の自分の実感を確認する思い。
習慣の変更の第一歩は、言葉使いにはじまる記号の使用方法の自主的変更であり、 漢文的、文語的、欧文的文脈にかわる新しい記号使用方法の形成であり、 よそゆき的記号使用法の漸進的廃止である。
ここから生じる第二歩は、職業と生活との分裂を架橋する再統一であり、 その主体こそ新しい市民にほかならない。 ぼくたちの希望は、こうして誕生する新しい市民による、すべての領域の作り直しである。
「漢文的、文語的、欧文的文脈」とは要するに書き言葉のことをいっているのではないかと思う。 書き言葉は常にestablishされており、その場においてcanonを強制してくる。 それに従って事足れりとするな、と読めば、同意できる。 つまりそこから生まれる新しい市民たる主体とは、要するに「個人」である。 だが、よそゆき的記号使用法とよそゆきでない記号使用法を分けるのは簡単ではないだろう。 人はある部分では書くように話しているし、 よそゆきでない服は実はよそゆきが古びた服だったりするのだから。
久野 片っ方に巨大なジャーナリズム、つまり非人称的な、 誰という名を持たない機構的な大ジャーナリズムがあり、 それに対してパーソナル・ジャーナリズムというものが拮抗していないと 両方ともうまくいかない。
鶴見 一人が一人に訴えるコミュニケーションでいいと思うんです。 私は、人間の場合それが根本だと思う。 自分が自分と対話する場をしっかりとつかむことが重要だと思います。 一千人に訴えたら行動だ、一万人集まったら行動だという考え方を私はとらない。 自分自身が行動できる基盤をどういうふうにして自分との間につくるか、 そこから考えていくことが基本だと思います。
同意だが、ジャーナリズムのコミュニケーション、と語句にして考えてみると、 現在は大ジャーナリズムというのがあるのか、 あるとしてもinternetのP2Pのコミュニケーションによって 大ジャーナリズムにもパーソナル・ジャーナリズムのスタンスの浸食が起きるのでは。 久野が言っているのはそういう意味ではないだろうが。
久野 …日本の左翼は、 憲法を国内の支配・被支配関係から理解する方法に力点をおいており、 確かにその側面も重大です。 しかし、対外的に日本の団結というものをどのように新しくつくり出していくのかが、 実は独立を確保するための憲法の眼目だったとぼくは思います。 明治維新を経て政府が外側に向かって新しい団結を固めあげるためには最小限、 国内に、形式的であれ、法的平等のきずなが生まれないと全国民的愛国心さえ生じない。 明治憲法は対外的団結のための国民の法的、形式的平等の確保が目的だった。
ただその実現の仕方が一君万民、天皇に向かっての国民の平等であって、 天皇も位置こそ国民とちがうにせよ、国民の一人だとする国民相互の平等ではなかった。 この点が昭和の憲法において大きく変えられたのは、だれもが見るとおりです。 明治憲法は対内的支配の制度であると同時に、対外的団結の制度でもあった。 ぼくの言い方で言えば、「対他的構造」と「対自的構造」の二つの側面をもっているわけです。 ここを抜きに考えると、憲法が国民をとらえた力がわからなくなるでしょう。
今となってはナショナリティについてのごく常識的な見解といってしまえるが、 「ここを抜きに考えると」危険は 「憲法が国民をとらえた力がわからなくなる」にとどまらないだろう。