過去に読書中であった。
『 『倭人伝を読みなおす』 森浩一 』
以下転載。
邪馬台国がどこにあったかについて、 著者は北九州で始まり後に大和に移ったという東遷説を支持する。
陳寿の著した『三国志』のうち『魏志』にある「烏丸・鮮卑・東夷伝」倭人条、通称『魏志倭人伝』。 本書にはこの倭人条(本書では『倭人伝』と表記)の原文が転載されていて便利。 新書にすれば四ページ、字数では二千字あまりの記述を巡って実にさまざまな解釈がされてきたものだ。 原文の解釈には、魏志あるいは三国志全体を見て、 他の部分との記述の共通性や違いをみていくべきという著者の論点にはおおいに同意。
『魏志』倭人伝は三世紀の倭人社会を知るうえでは最重要の史料である。 とはいえ先にこの史料の限界をよく知っておくことが大切である。 何よりもこの史料が描きだしているのは日本列島の全域ではなく、 九州島の北部、特に北西の玄界灘に臨んだ土地を詳しく書いている。 それとともに、その地域でおこった事件が描かれているのである。
読者によっては、九州島の北部や中部だけといえば狭い範囲のような印象をもつだろう。 しかしながら三世紀の国際関係でいえば、 九州島は人口の点でも生産力の点でも重要な土地であり、 魏の政府では九州島が一つの倭国としてまとまることを期待し、その実現に努めた節がある。
本書でぼくが描きだそうとしたことは、 なぜ倭人伝であって、倭伝や倭国伝でなかったかという疑問に始まり、 倭人伝全体の流れから読みといた壮大な歴史物語の骨組を抉りだすことにあった。 そこには日本の建国前夜の激動する物語が展開するのである。
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ここでの激の内容は分からないが、励ましではなく厳しい言葉だったと推測できる。 さらに激とはふれぶみでもあるから、倭の人たちにも卑弥呼の政治的失敗を周知させたと思われる。 すでに魏の政府は卑弥呼を見限り卑弥呼の大夫だった難升米を引きあげて女王国の代表として扱い、 詔を下したり皇帝の権限の印である黄幢もあたえていた。
卑弥呼も事態の激変は分かっていたから、従容として死を選んだことであろう。 ぼくには老齢の卑弥呼は自死したと思いたい。
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ぼくは北部九州勢力の東遷説をとっており、 今回東遷の推進者(立案者か)が張政であるという見通しをもてるようになった。 それは卑弥呼の死の後の狗奴国の男王(女王国に属する奴国などの王でもよい)の時代か、 男王が立ったための混乱期がおさまり、トヨが晋に遣使する二六六年までの間、 つまり二五〇年代の可能性が高い。
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北部九州でも東寄りにある宗像は、古代には胸形とも書き、考古額資料も多く、 何よりも日本の神社の中でも由緒の古い宗像三女神を祀る土地であり、 宗像大島には中ツ宮が鎮座している。 ぼくの疑問はどうして宗像とみられる土地が倭人伝にでていないのかである。 このことはすぐには解けないが、やはり倭人伝研究では見落とせないことである。