桜の季節
梅でちょっと浮かれていたら早くも桜が咲くという。梅も桜もバラ科サクラ属ってことで似ているといえばいえるが、落ち着いて鑑賞するには梅の方が良かったりはする。梅はまだしも節度があるが、満開の桜となるともうこれは…、淫靡極まりないというかなんというか。
いや淫靡はいけないか。
辞書を弾くと「節度がなく、みだらでくずれた感じのする・こと(さま)」とあり、節度がないのは確かだし、まあみだらもいいとしてもそれを「くずれた」とまとめられてしまうとなんか違う。「くずれた」とかいわず「奔放極まりない」とかいえばいいのに。
官能的?
しかしこういうとまたちょっと違って、文明化された人間にふさわしい無害無毒な感覚の変化程度の雰囲気になってしまい、あのなんつーか、ある種おそろしさを伴うような生命の立ち騒ぎ感がなくなる。
「四月は残酷な月」というエリオットの『荒地』の出だしを読んで、しかし、死の冷たさや動かなさ以上に生命の過剰な立ち騒ぎ=エロスを感じないものは居まい。
同様に「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と書き残して死んだ男が感じていたのも、腐敗して無生物に還る屍体のイメージよりも、それをも糧にして美しく咲き誇り、雄蕊からは花粉を、幹の割れ目からは樹液を分泌し、近づくものを目眩に陶然とさせるほどの一瞬の命の味わいの氾濫ではなかろうか。
その意味では満開の桜は珊瑚の産卵にも似ている気がする。不幸にして未体験だけど、その凄さは想像するにあまりある。しかし、あっちはまだしも海の中、物好きが潜って体験しに行くようなもの。こっちは衆人環視でほとんど公然猥褻だな。
とはいえ、…。
昨今は日本もだいぶ文明化されてきたせいか、そういうことに気づかされる季節の巡り、というのもだいぶ感じられなくなってきた気はする(自分の加齢はこの際勘定しない)。
大体、昔に比べると空の青、大地の緑を始めとして目に入る景色は全体に彩度が落ちて、空気のせいかノイズも混じりがち、まず、色の氾濫に遭って体が燃え盛ってしまうなんて事はめったにない。
桜にしても僕が子供の頃は田舎とはいえ小学校の校庭で咲いていても、少年の性の目覚めを促すくらいの力があったが、今はどうだろうか。
暗い中で桜の幹にへばりついて写真撮っててそんなことを思わずにはいられなかった。
写真を撮るのは…
観たいものがそこにあればそこに行ってみればいいわけで、写真はそれとは別に観たいものがあるから撮るわけである。その点、動機は録音とまったく同じだと思う。
もちろんどちらも「記録検証のため」というときはあるけど。
それはともかく、で、じゃあ何が観たいのかというと、それがはっきりしない。が、それも道理で、人は何かを観る事ができて初めて何かを観たいという欲望を起こすわけで、何かを観なければ始まらないが、観たものがごくはっきりしているなら、やはり話はそこで終わり。つまりもともとはっきりしないものを観たいと欲望するわけである。
逆に言えば観たいものはどんなものか、なんて考えてもしょうがないというか、欲望があるのならそれにまかせて突き進むこと。考えてる間は立ち止まってるってことだし。
そうやってる間になんとなく、あ、なんか少し観たいものに近づいてきたかも、と思えればまあいいかと。
まだ写真は入門の入門だから甚だ頼りなくはあるが、観たいものの感触のようなものは少し感じられるようになってきた、…かも知れない(って前にも言ってなかったか?)。
多分、楽器で言うとスケール練習のやり方は分かったけど練習して身につけるのはこれから、みたいな段階かな?
撮影現像の手順を理解して、いろいろやってみているというところ。
二日にわたる桜撮り、以前から気になっているのは空気感のなさというか、それもちょっと違うんだけども、まあ、録音でいえばヘッドルームが狭い感じ。
これが気になっている。
空気が十分にあって、そこに被写体から分泌された粉やら液やらがぶわーっと分泌されて、体温でもわーっとなって、観てる方もむせかえる、みたいなイメージができないかしらねえ。
なんか色々と…
日々思いつく事はあって、なるべく書き残しておきたいと思うのだが、なかなかかなわないままに。
すでに桜の話だけでお後がよろしい量になってますな。