今はどの辺で満開なんだろうか桜。昼でも夜でもよいけど満開花吹雪が撮りたかったのだけど、今年はムリかなあ。
忘れじの満開桜
やはり普通に昼間で普通に満開の桜も、と思って撮っておいた写真。現像して、でも桜の写真多いしどうするかなあ、とそのままになっていたけど、落ち着かないので載せてしまった。
当初は枚数がこの倍くらいあって絞れなかったのだけど、時間が経つと結構えいやで選べるようになるんですな。
忘れじの言文一致
中学生の頃、当時『朝日ジャーナル』という雑誌があって、内容はともかくこういうのが作りたいなと思って先生を騙してガリ版刷りのなんとかジャーナルをでっち上げて以来、原稿を書くのはどういうメディアに載せるかと込みでないと、さらにいえば目的内容やターゲット、メディアの種別に関わらず、同じフォーマットで書いて自動的にいろんなメディアになってくれる、というのでないとヤだなあと苦闘し続けてきたんだけど、五十を越えた今になってやっとそれが形になりそうな感じになってきた。
Writing by making。その環境のテスト改修も兼ねていろいろ書きモノをしているのだけど、環境が安定してきた分、文章そのものをどう書くかに頭を悩ませる毎日。
これまでももちろん試行錯誤はしてきたけど、なんというか色々ある面倒の一つという感じで、大体はやっつけの結果を出力せざるを得なかったのが、ちょっと変わってきたというところ。
これまでは、柔らかい/固いと分けると固い文章の方をより多く書いてきたことになると思うんだけど、それは例えば文学的issueとして見れば、言文一致運動の、「だ・である」調と「です・ます」調とが対立(別に喧嘩してたわけじゃないけど)して出てきて、ニュートラルな言文一致体としては「だ・である」調が主流になった、というような歴史を思い起こさせる。
のだけど、実はそれで済ませられるならまだ甘いのだ、ということを今更に思い知る。
たとえばこの日記自体、「です・ます」な丁寧な語尾は使っていないけれど、じゃあ「だ・である」かというと違う、少なくとも書いてる僕はそう思ってなくて、かつて編集に携わっていたときに、漢字を開くのと同じ感覚で語尾を変えて、とかいう世界を漠然と疑問にする気分の延長で書いてる事は確か。
言文一致というフィールドでニュートラルな論理的な文体を志向するとき「だ・である」をより好ましく思うというのはわからないでもないし、その先にあるのは多分数学の公式やら論理式で表せる文章、とまでは行かなくても例えばスピノザの『エチカ』みたいなスタイルに最終的にしたいというある種の欲望が存在するだろうことも認める。
しかし、ああいうのは、欲望はともかく、出来上がったものは言わせてもらえば半分以上ハッタリだと思うんだよねw
ハッタリといって悪ければ、スタイルが数学の証明のように書かれてるからって、中身が同じというわけではない、というのはもちろん書いた当人だって分かってたことだろうと思う。見た目は形式論理で繋がれているようにみえても、実は別のものが文章それぞれをしかるべく統合していたりするわけで。
文学的にはそれを連想とか喩とかの概念で説明しようとするけども、まあそれについては今はおいといて。
要するに、思うのは、日本語の語尾というのは単に落ち着き方を変えるだけではなくてそれによって書かれる文章の構造そのものを規定するくらいの力を持ってるのではないかということ。
極端にいえば「だ・である」調ではもしかしたら書き表せないことがあるかも、そこまで行かなくても、書き表せたとしても読み下せないことが出てくるかも、ということにならないだろうかね。
最初に思いつきをメモするときはめんどくさいので単語とてにをはを並べるだけ、または図だったり絵だったりなんだけども、それからまとまった文章を紡ぎだして行く作業のときに文章そのものに集中できるようになり、あらためて出てき得る文章の多彩な可能性にたじろいでいるといったところか。
固くてよくて「だ・である」でよければむしろ楽なんだ。極端な話、英語の構文を作って当てはめていけばできちゃう。昔の人はこれを漢文でやってたのかも知れないし、二葉亭四迷がロシア語の翻訳から「だ・である」調の言文一致体を作り出したというのもうなづける気がする。
だけど、ここでも話はそれで終わらなくて、二葉亭自身は韜晦好きというかあまり苦労や思いを語っていないけれど、そうやってできた日本語の文学的な限界ということも自覚していたのではないかと思う、とはいえ…。
なんでこんな大げさな話になったのかw
このまま行ったら大変だぞ。
元に戻すと、というように、つらつら書いてくるというのは、まさに単語の断片や絵や図をを構文に当てはめて文章をつくる、というのはまったく違う書き方なわけで、こういうのを、どう育てて行きましょうかね、というようなことなのかも。それは、つらつら書くということと論理で書くということと、どうせなら共存してていいじゃん、という気持ちもあるのだろうと思う。
二葉亭から120年あまり。
一般的な、というのは特に論理性を要求しない普通に使う日本の文章というのは、たとえば国木田、芥川、川端、太宰あたりが主導して今や村上春樹に至る流れに主導されているともいえる。別にそれをとやかくいうつもりはないのだが、自分のメインがその方面にないというのは間違いない。
ちょっとはあるかな…、つーか、そういう方面を追求するならむしろ詩を書いた方がよいし、文章の中に詩が入っててもいいだろうと思うわけで。そして、一方、子規漱石からおもしろいことに寺田寅彦や中谷宇吉郎のような流れもあれば、文学の世界でも大岡昇平のような散文もあり、そういうのは一般的な文章にはならないの?という気持ちもあるし。
それらを読んでいると、文体というけれど、体即実質だなあと思うし、出力はなくともそういうことを考える手がかりになるようなことをやって行きたいもんだと思うんだけども、ここはちょっと強引にまとめてしまった気がするな。
何しろ長くなった。
タバコ買ってこようっと。