2020-03-11 22:04:00+09:00

元首相は映画『Fukushima 50』をどう見たか 菅直人インタビュー

『早起き鳥の屯す処』より転載 泉は呟く

泉は 元首相は映画『Fukushima 50』をどう見たか 菅直人インタビュー【1】 を読んだらしい。

泉は呟く。ワタクシは泉、泉はワタクシ。


ワタクシが巨大技術を社会に実装することに否定的なのは 働き始めてから数年足らずの頃から。

ドメ人間だから他の国ではわからないけど、少なくともこの国では、 巨大技術の巨大さに対応する組織の巨大さがあったとしたら、 それはまともに働かないという確信からだった。

原発にしてもそうで、原子力技術自体は面白いところはあっても、 巨大技術となって社会の一部を形成するとなるとハナシは別。 それは危なすぎる、反対、という考え。

この感覚、社会に出たてのひよっこのワタクシさえ強く感じたくらいだから、 ある程度共有されてるだろうとずっと思ってた (少なくともその後自分が暮らしてた世界の人達とはこういう話は ある程度通じてたと思う)んだけど、 福島の原発事故の時、もしかするとそうじゃないのかも? とあらためて怖ろしくなった記憶がある。

この(上掲記事のこと)中での元首相の 「とにかく、東電と官邸は意思の疎通ができていなかった。 おそらく、現場と本店も意思の疎通ができていなかったのではないでしょうか。」 との述懐、 巨大なものの社会実装がうまく行かないであろう大きな理由の一つがそれ、 と考えてたワタクシとしては、当時報道をみて疑ってたことが どうやらあたってたのか、それにしてもなんで、 そうなるに決まってるんだからそのつもりで行く、ということがなかったのか、と。

この9年、東日本大震災があって世の中で変わったことがあるとすれば、 技術だけではなくて、多くの面で世の中がそのようであることが 多くに意識されてしまったことではないか、とも思う。

それを強く感じるようになったのはここ数年のことだけど、 確か、直接のきっかけがあったのかどうかわからないけれど、 震災後2〜3ヶ月のある時、あ、なんかタガが外れちゃったんだな日本は、 と思った記憶がある。

そうやって、世に捨てられた世捨て人たるワタクシも心乱されることが 過去にも増して多くなってるのだろうが。 まあ、ワタクシごときの心がいくら乱れようと、世に爪ほどの影響もなかろうし。

しかし、そういった中で、 実はワタクシもそれまで認識しながらも実践は諦めてた課題が あらためて意識されるようにはなってきた。

課題
組織(とその集合)が、適切な方向に向かう可能性を より高めて行くことが必要である。 そのために有効な方法は、組織(とその集合)における知識と コミュニケーションに相互作用を組み込み、改良していくこと

考えるだけでもウンザリする課題。

課題の評価にはそもそも適切な方向ってどっちなの?とか、 組織(とその集合)が向かっている方向がどっちなのかどう評価するの?とか、 さらにいうと組織(とその集合)の範囲をどう限定するの?限定できるの?とか ややこしい前処理が必要な気がするし。

さらにいえば、 行動に評価のフィードバックをちゃんと組み込めるんですか?という問題もある。

評価は歴史を待つというのはよくある物言いだけど、それはつまり、 歴史が評価するというのは、実際のところ、そこでは評価することはできない、 ということでもある。

で、これをまさにこの課題の評価にフィードバックすると、 それがほんとうに大事なのか、わからなくなってくる。 もうここからは、好み、価値観、信仰の問題なのかもしれない。

一方で、やればできるけどやらない方がいいことがたくさんある。 けど、大概できるとなればやっちゃうのが世の習いでもある。 その結果何が起きるか、なのだ。

悲惨な結果を産まないためには、 その悲惨さが、組織(とその集合)全体の認識となることが大前提なのは自明。 しかし、それってどういうこと?

悲惨な結果の予測が共有されていれば、 組織(とその集合)全体は人がするように悲惨を避ける選択をできるのだろうか?

実際、災害(「あらゆる災害は人災」というのも ワタクシのあまり理解の得られない命題なんだが)はあるにせよ、 それによっていろいろリセットされてまた我々は力強く立ちあがるのだ的な考え方も あるし、その中の全てではないにせよ、ある「適切な方向」が先にあり、 その「向い方」の方はあまり気にしないのかもしれず、 その場合は結果の悲惨さに対する統一的な対処法のコンセンサスが得られない、 ということにもなるだろう。

ワタクシのこの事態に対するアプローチは、 先の課題は、これを梃子にして事態を見ていくことで、 事態に潜在する問題の在処を知るのにも有効だということ。 これは現状分析だけど、そのためにも課題の後半を具体的に考える必要がある。

まあ、考えない理由には事欠かない、というのは世の常だけど、 多分東日本大震災がワタクシに教えてくれたこと、その当時何人かの人と話して、 あ、やっぱりこの人もそれに近いことを感じてるんだなと思えることがある。

教えてくれたこと。

考えるべきことを考え、できる範囲でやるべきことをやり、 それ以外では右往左往しなさんな

ワタクシにとってはそれは(ここのに限らず)課題の考察とできる範囲での実践。

知識とコミュニケーションがよく相互作用すれば、 組織と(とその集合)がよりよいありかたに移行すできるはず、 というヴィジョンを信じてワタクシは今の仕事を選択した という経緯もあるのだから、この課題が自分にとってのできる範囲でやるべき事だな。

それがお花畑であるという予測は当然あるけど、花を枯らすのがなんなのかは、 花を育ててみなければわからないし。

やる前にそれを知ることができるのが知識? まあ、確かにそうかも知れない。 賢さとはリスク回避能力であり、それは知識による行動の抑制能力なのかも知れない。

でも、やっぱりやっちゃう事ってあるんで、 それをリアルタイムに評価しつつ制御する能力もまた必要な賢さじゃないのかな。


泉は還暦に近づくにつれてあらゆる面で中学生のようになり、 もしかすると本気で暦を還すつもりでいるのかもしれない。 この呟きもまさに彼が中学生になろうという頃の 思考回路でなされているといってよい。 今年の終わり頃は小学校入学頃の虚弱な弱虫に戻っているかも。

しかしさすがに、賢さという自分が欠くこと甚しい能力を表す単語が 口をついて出た途端、呟くエネルギーをなくしたようだった。