2016-08-15 08:29:00+09:00

昭和初期発行の地形図での霞ヶ浦周辺と古代の榎浦津

『早起き鳥の屯す処』より転載

最近SNS等で流れてきた情報だが、スタンフォード大学の、 明治後期に測量をはじめて昭和初期に作成された 日本の1/50,000地形図のコレクションがネットで閲覧できる とのことで早速見に行ってみた。

戦後の高度経済成長の開発によって日本の国土も大分様相が変わってしまい、 日本の歴史を考える上で不便なことがなにかと多いが、 近代化は維新からだとはいえ、戦後に比べるとまだしも、 古くからの地形や地名の残滓が残っているようだ。

気になる地方は多々あるが、 まずは地元での一番の関心である霞ヶ浦に小野川が注ぐあたり、 今の江戸崎町周辺の地形を確認してみる。

https://imgur.com/DCe78VC

茨城県は維新以前の国制では周知の通り大部分が常陸国、南側の一部が下総国。 当時は東海道の終点が常陸の国だった。 風土記によれば、常陸国の東海道の玄関口とされた場所が榎浦津という場所で 「津」と付く通り港であった。

榎浦之津 すなわちここに馬家が設置されている。東海道の公街道、常陸路の起点である。伝駅使たちは、初めて国に入ろうとするにさいして、まず口をすすぎ手を洗い、東を向いて香島の大神を拝み、そうした後で入国することができるのである。
- 『風土記』(吉野裕 訳:東洋文庫)より

下総国から常陸国へ入るには今の利根川の流域が広い内海(香取海)となっており、 下総の神崎あたりから船で渡ったのだが、その船が着くのが榎浦津ということである。

その榎浦津の所在地は諸説あって定まっていない。

『茨城の歴史 県南・鹿行編』には以下の候補地が挙げられる(地名は同書発行当時)。

多くの比定地があるのだが、大別すると、小野川沿いの地域(図上A)、 今利根川になっている内海に面して南に下総国をのぞむ地域(図上B)、 そして龍ヶ崎市周辺(図上C)の三地域に分類できる。 このうち後の2地域はまさに常陸国と下総国の境に位置する点が 「常陸路の起点」にふさわしくも思えるのだが、むしろ私見では、 下総国とは一つ丘を隔てた小野川沿いにもとめたいとずっと考えてきた。

なぜなら、そもそも榎浦にあるから榎浦津なのであって、 いろいろ図を見ていくと古代に榎浦と呼ばれていたのは 今小野川になっている内海であるらしいからだ。 その目で今回の地形図を見てみると、まさに小野川下流に、 古渡のところでまた狭くなっているものの、 湖として残っているそれ(図の赤い囲み部分)は、 「榎浦」と呼ばれていたことがわかるのである。

小野川は現在の筑波研究学園都市の近くの水田が源流で、 今ではそれほど大きな川ではないが、現地の地形からは、 嘗てはかなり奥まで内海となっていただろうと想像できる。 そして実は小野川を遡っていくと川沿いに今でも「榎戸」という 地名が残っているのだ。 「えのきど」と呼ばれる土地なのだが、考えてみれば榎浦が「えのうら」ならば、 「榎=え」であり「榎戸=えど」と呼ばれていた可能性だってあるのではないか。 「えど」という地名についてもいろいろな意見があるが今はおく。

まあ、前述書でも多くの比定地を挙げた後で、 「江戸崎町江戸崎にあったと考えるのが妥当だろう」と書かれているのだが、 そこに至るまでの経路がどうなっていたのかはまた別に興味を惹かれる点でもある。

短かい距離であっても途中で陸路を経由するのは考えにくいから、 今の地形から考えると香取海から浮島付近を回って榎浦津に入ったと考えるのが 自然だろうが、南側の丘の間に水路が通じていたとすれば 下総からそのまま北に向って榎浦津まで船で行けた可能性もあるだろう。

この界隈の地形がどうなっていたのか、引き続き調べるとして、 今は、戦前の地形図でも小野川流域が榎浦と呼ばれていたことが 確認できたことを記すにとどめたい。