最初に『終焉をめぐって』を読んでからその引用のいくつかに震撼されたが、 その中に、
だが、あのフロイトがいった言葉をわれわれは想起する必要がある。 《戯れの反対は真面目ではない、現実だ》。
というのがあってこれがいまだ意識の中に時折甦ってくる。
で、そういえばしかしではフロイトの何からの引用だろう?と例のごとくぐぐったが 出てこない。 さすがにフロイト全部読んでいないし。 もしかしてフロイトじゃないんじゃ?と思いつつも確かこの本だったよなあと 取り寄せてみたらやっぱりそう書いてあった。
結局何からの引用かは未だ不明なのだが、そうやっているうちにフロイトにおける 「現実」という言葉は結構取扱い注意らしいということがわかった。
ラカンがいうところの「出会いとは出会い損ね以外のものではない」その出会い 損ねるしかない対象とは現実のことであり、実はそれはフロイトの「現実」の見方 の別ヴァージョンという考え方もでき、しかしそうだと思えば最初にこの引用を 読んだときに感じた不気味さにも納得できる気はする。
現実には出会いたいと思っても出会い損ねるしかないとすれば、 戯れるか真面目になるかしかない、としてもその反対は現実であるということを 悟った人間の戯れや真面目さと、そんなこととは露知らない人間の戯れや真面目さ では自ずと異らざるを得まい。
カフカ的主人公とはいってみれば反対には(決して出会えない)現実がある ということに思いもよらない存在であり、 その主人公同様あるいはそれ以上に反対には(決して出会えない)現実があることなど 思いもよらない周囲の群像が折りなす情景をどうやら 戯れの反対は真面目ではなく現実である、ということを悟った眼が描写したのが つまりカフカ的世界か。
というようなことを考えるとともに、しかしその決して出会えない現実を悟りつつ しかしこうすりゃワンチャン出会えるんじゃないかという論理矛盾に つい吸い寄せられるようなキャラもいて、そういうキャラが狂気乱舞したのが つまり二十世紀だったのか、と思ったり。
ま、それはともかく、結局のところわざわざ本を取り寄せたにもかかわらず 知りたかった出典はわからず仕舞の顛末だった。