昨夜久々に深夜世田谷公園付近を目指し、都心横断。
ここ十数年の謎開発で大きく表情を変えた街もあり、特に渋谷駅付近の変貌には驚く。 驚くというか、もちろん変ったという知識もあり、その間折々訪れることもあった。 その感想はといえば、ひとことで言えば「あ〜あ、こんなになっちゃったか…」 というものでしかない。
単に自分の記憶と食い違ったというだけでなく、渋谷だけでなく、東京に多く存在する 谷の低地にボコボコ高層ビルを建てるというのはどうなん? というのがそもそもの違和感のベースにあると自己分析。
それはともかく、こんな動画が目についたのは、まさに昨夜環七を豊玉あたりまで 北上して帰途についたから、我が生年のまだ繋っていない環七の状況がわかる動画。
動画の終りは亀有の常磐線にぶつかるところで終わっているが、 環七といえばもっとも古く記憶を辿ればこの先の水戸街道との交差点から。
開発で大きく変わったといえばこれもそうだ。 そうだが、現状が完璧とはいわないが、 あらためてできないよりはできたほうがよかったな と正直に思う。
我が個人生活に引きあてれば、 今(リモートワークの進展も加えて)それなりに仕事をしながら 自分の住みたい場所に住めるのは、 関東一円、たとえば東京外環道、圏央道(どちらにも様々論議があるのは踏まえた上で) が開通したからこそであるのは疑いないわけであり。
とはいえ、 自分が知ってる土地と違う、という感慨は個人の心中に収めるとしても、 ここにあげたような道路建設と今の東京再開発には道路と街という 違いだけではない質的な相違があるように感じる。
東京という都市を舞台にして、二つの都市計画の潮流がせめぎ合っていたのが 戦後昭和という時代だったように思えるのだ。
まず、歴史的な主流として、近代的でありつつも単純な経済性や機能性のみに 走らず、安全、人間的で住みやすい都市環境を提供することを主目的の一つに据える 流れがあった。
「歴史的」というのは、この流れが、維新以降、特に東京においては関東大震災、 太平洋戦争の戦災による焼け野原の経験にも育まれ、高度経済成長期を終えた時期に さらに顕在化したからである。
それに対して、バブル経済と昭和の終りとともにエネルギーを増した流れがある。 こちらは、前者のような発想と反対に、様々な規制を撤廃し、経済対策の観点から 計画され、都心再開発と東京一極集中を意図的に志向する流れである。
この二つの流れは、互いにまったく逆方向を向いているといっていいが、 前者から後者へ一気に転換したわけではなく、大体平成を通して共存しつつも、 ここに来てほぼ完全に後者の流れが主流になり、 神宮外苑の再開発に伴う樹木伐採問題などを見ると国家意思は完全に後者に載った ようにみえる。
たとえば、 源川真希の「東京史 ― 七つのテーマで巨大都市を読み解く」 には、
さらに二〇〇〇年代に入ると、構造改革を掲げた小泉政権と一九九九年に誕生した石原都政は、表裏一体の形で都市再生事業を進める。東京都のうちだした環状メガロポリス構想は、都内のいくつかの副都心を拠点に機能を分散的に配置しようとした従来の政策を転換させるものとなった。そして東京の都心のいくつかの場所を拠点に、都市再生緊急整備事業が展開され、用途や容積率の見直し、税制、金融上の支援が展開されていく。このように、都市再開発とその前提をなす都市計画行政の一部が、経済対策の観点からなされるようになったのが、世紀転換期の特徴であろう。他方では、いわば社会都市の行き詰まりにより、企業都市への移行というところまではいかないまでも、都市行政が変容していくことは否定できない。
とあるのがその転換を示しているといえるだろう。
が、一方で都市計画は数年の短かいスパンで実現されるものでもない。
その意味では今現在進んでいる都市開発のいくつかには、 それ以前の流れ、思想を前提にした部分も、 特に郊外においては見受けられるように思う。
そもそも、都心を中心に環状線を遠心的に設け、交通路を確保した上で広い面積 の都市域を実現して開発を行うというのは、まさに前者の流れに沿ったものでは なかろうか。
もちろん、確保された面積に従来のように経済性優先の詰め込み的開発を展開して しまったら元も子もないわけで、そこにはゾーニングであったり緑地その他を 計画的に配置する等、いわばより進化した「面」の開発思想と手法が整備されなければ ならなかった。 それが現在充分になされているかどうかは判断に迷うところではあるが。
対して、某企業グループを中心とした都心の再開発では高層ビルをモニュメントとし、 神宮外苑の再開発でも建造物の高さ制限の撤廃と、容積移転を駆使した計画が 鍵になっているように、そのベクトルは垂直方向に向う。
空間把握の点でも両者は対立するわけである。
思い出されるのはまさに旧淀橋浄水場跡地に平成とともに着工された現都庁舎、 これがまさにベクトルを垂直方向に向けた高層ビルであって、設計は丹下健三。
私感的には彼の代表作は代々木オリンピックプールで、あれはむしろ水平を志向して いるように思えるのだが、とはいえ、それが周囲に広大な空間を伴うとはいえ、 他を威圧するような高層建築をメインに据えた案を、 彼はそれ以前から多数出しているから、 むしろ代々木のほうが一時の気の迷いだったのかも知れないと思えてくる。
一方、コンペで敗れた磯崎新の低層案 ( 磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ を参照) が実現していたらどうだったろうと思う。 ただ、この設計はおそらく面を志向するだけではなく、当時すでに周囲に いくつもの高層ビルが建ち並んでいた西新宿という場所に対する一つの戦略という 方向もあったのかもしれず、一概に「面」「低層」で括るのも無理があるかもしれない。
が、磯崎がポストモダンを唱えつつも相当な近代主義者であったことも踏まえれば、 昭和の間続いた、現在は退けられたかに見える流れを消化し、発展させようとしていた だろうことは容易に想像できる。 実際、単に面というだけなら丹下にしても東京湾に橋をかけて湾岸をまるごと 開発、というような案もないわけではないが、磯崎との相違ははっきりしている。
というようなことを環七建設時の動画をみながら考えているところに神宮外苑の 再開発問題のニュースが流れ、そういえばザハ案については磯崎は?と検索すると 「 磯崎新による、新国立競技場に関する意見の全文 」がかかった。
「新国立競技場 ザハ・ハディド案の取り扱いについて 磯崎新」という意見の 全文を掲載したものである。
個人的には新国立競技場は現在の技術を使ってまったく同じものを作るべき (式年遷宮方式とでもいうか)と思っていたが、ここに書かれた意見も納得できる ものだった。 ここで示される解決策は例のごとく実現可能性は極小と思われるが、これもまた 実現していたらどうだったろうと想像してみたくなる。
建築と建築家という点でやはり重要なのは以下だろう。
この段階の決定には一般的に二つの解釈がある。①、「案」を選ぶ。そのままの姿で実施する。(建築家は無名で、案の物理的な姿を評価する)②、その案を作成した「建築家」を選ぶ。プログラムに変更があるとき、その建築家が条件に適合する新しい案の作成者になる。(建築家の潜在的能力が評価される)
新国立競技場案が迷走している理由は、①、「案」をえらぶ、ことに固執してしまって、自縄自縛に陥ったためだと思われます。諸条件が②であるべきなのは当然の流れなのに、何故かザハ・ハディドという署名入りの案を選んだと関係者が思い込んでしまった。国際コンペの通念に無知、無理解、無責任な判定が、すべての流れを捻らせたのです。
私のかかわったオリンピック施設の場合は常に②のケースでした。私は新しい条件に対応して、更に新しいアイディアを加えて、実施設計から管理までつき合うことができました。プロフェッショナルな建築家であれば、状況の変化に柔軟に対応できねばなりません。今回の当選者ザハ・ハディドは、30年前に私はその才能を発見して、その後いくつかの共同の仕事をやった建築家で、彼女のプロフェッショナルな能力は抜きんでており、どんな困難な時でも自ら主体的に参画していれば、自らの署名をそのデザインに残しうる人です。修正案にはその片鱗もみえない。歴史的な誤謬がおかされた、と言わざるを得ません。
今からでも遅くない。当選決定(国際公約です)の時点に立ち戻り、二年間の賛否両論はプログラムの検討スタディだったと考え、ザハ・ハディドにその条件を受けてあらためてデザインを依頼する。彼女はそのような対応のできる建築家です。
簡単にいえば、建築家は単に建物を設計するだけではなく、その建築が周囲の様々な 要素と調和拮抗しつつ、よりよい空間を創出する作業を行なわねばならず、 それができるのが優れた建築家である、ということだろう。 そしてここに建築の可能性と不可能性がある、とまとめて終ってしまうと、 まさに昭和ポストモダンになってしまうので、もう少し粘ると。
上で丹下の東京湾に橋を架けて…というのは、 「 東京計画1960 」 のマスタープランなのだが、 その規模からして、一見、磯崎の云う 「プログラムに変更があるとき、その建築家が条件に適合する新しい案の作成者」 になれる能力をも示すようにも見えかねないのだが、 そうであるとしたら、そこに磯崎的設計との相違を感じることはないはずだ。 そうでなくて違うと感じるのは、このプランは、これで完成型だという顔をしている からではないか。
この差というのは、たとえばソフトウェア開発でよく云われる、 ウォーターフォールとアジャイルの差に近いかもしれない。 ウォーターフォールは必然的にツリーになる、一方アジャイルを進めると、 まかり間違うとリゾーム(悪い場合には「スパゲッティ」といわれたかも)が できてしまう、というような比喩が浮んでも、考えてみればこれも単に 「 都市はツリーではない 」の言い換えでしかないのかもしれない。
ポストモダン期でいえば、建築の不可能性を克服するために必要なのは、まさに 「その建築が周囲の様々な要素と調和拮抗しつつ、よりよい空間を創出する」営為 こそがメタ建築としての建築であり、しかしその方法は明示できず、ただ 建築家の署名があるのみ、というようなところに落ち着いていたように思う。
しかしシステム開発においては、署名あるのみ、では相手にされないわけで、 その方法を明示することこそ今求められていることなのではないか、 という実感がある。
風が吹けば桶屋が儲かる、今回はこの辺で桶屋の出番。
そういえば磯崎の意見にも登場するSANAAの妹島和世は、 SANAAが設計した日立市役所 が台風で地下が浸水し電源喪失に陥いったことで話題になった。
磯崎が存命だったら何か意見を発したろうか。