2023-10-21 12:38:00+09:00

『平野が語る日本史 日下雅義』

読書中であった

読書中であった。

平野が語る日本史 日下雅義

地理、歴史といえばどちらも社会科の内容だが、子供の頃はどちらも好きだった。

それが科目として別れるころになるとその好きさ具合も二つに分かれてしまい、 時期によって好きさの度合いが変動するといった按配になったように思う。

長じてから、地理学と歴史学、考古学を融合したようなことをやっている人が いることが分かり、ああそうやればよかったのか、と改めて納得した次第で、 本書もその流れにあるといえるか。

平野に焦点をあてたということだが、取りあげられるのが西日本のケースが多く、 東国人たる身には多少疎遠に感じてしまいがちだったが、 最近の興味である九州北部、筑紫平野の章などは特に興味深く読んだし、 九十九里浜の東北端の椿の海は、これまであまり掘り下げられたことがないように思え、 少し距離はあるが、西方の芝山の古墳文化等と関連するところはないのか、 などさらに興味が広がるところだった。

同じアプローチで東日本を多く取り上げたものがあればさらに読んでみたい。

以下抜き書き。

第2章 日本の平野の特異性

比高の小さい段丘面では、四世紀末ころから地形改変がはじまった。規模の大きい池溝の築造による開田、大型古墳の築造などがその代表である。また山地や丘陵地の尾根や斜面に造られた群集墳は、下流の谷底平野の埋没を促進させた。

紀伊水道に面した徳島県の勝浦川左岸丈六低地のほぼ中央部の地下について

…。 注目すべき点は、深さほぼ一五メートルのところに火山灰が介在していることである。この火山灰をアカホヤ(約六三〇〇年前に噴出した鬼界アカホヤ火山灰)と仮定すると、ここでは過去約六三〇〇年間に一五メートルほどの土砂が堆積したことになる。当時、このあたりの水深は一五メートル前後であった。

最後は砂洲外側の海底から採取した資料(D地点)である。水深九・一メートルの海底には、厚さ八〇センチメートル前後の黒灰色のヘドロが堆積し、その下は厚さ約五〇〇センチメートルの砂層である。これは海岸砂洲を構成するもので、中砂を主体とし、直径二~三センチメートルの円礫を混じえている。その下は粘性土から砂質土へと続き、その中に有機物や貝殻片を含んでいる。この地質資料から、かなりの水深をもつ湾の入口に砂洲が発達した様子がよくわかる。

第5章 畿内の盆地群と都京の立地

「平城京」は、大和盆地の北端に位置する。東方は山麓に広がる段丘を隔てて春日山地、北と西は標高200メートル足らずの丘陵地に接している。低地は藤原京域とは逆に、南に向かって緩く傾斜する扇状地性の低地および氾濫原である。そして「平城京」は低地の頂部に当たり、地形環境は比較的良い。地形環境のみからいえば、この都はもう少し長期間存続してもよかった。

一方、 平安遷都は都市インフラとしての平城京が限界に逹したための必然、というのが、竹村公太郎の意見

「平安京」造営のころ鴨川の主流は紫竹付近から相国寺の東に至り、寺町通と川端通間の幅約500メートルのところを流れていたが、激しい洪水の際には、いくつかの流れが東は下鴨通、西には堀川付近にまで広がった。都造営に当たって流路が固定される一方、周辺部とりわけ上流部の森林伐採が進んだ結果、洪水は一時的に激しさを増し、左右両岸にしばしば溢れたはずである。それにもかかわらず、なぜ「平安京」は「長岡京」のように短命でなかったのであろうか。他の都京と比べても不思議といわざるを得ない。「平安京」が長くつづいた理由としてさまざまなことが述べられているが、恵まれた景観や、地質・地形条件、優れた地理的位置といった積極的理由のほかに、だんだんと巨大化してきた都を移し得る場所が近くに存在しなかったという、きわめて消極的な理由(実はこれが最大の理由だったと考えられる)をあげたい。

第6章 大井川扇状地の洪水と住民の知恵

扇状地は表面傾斜が急な山麓堆積面であり、砂礫よりなる。地下水位面が低いため、田を開くことが難しく、しばしば畑として利用された。

三角屋敷は、洪水による家屋の被害を防ぐために、優れた役目を果たすとともに、洪水の流れる方向にも、かなりの影響を与えたと考えられる。規模のきわめて大きい洪水が、一カ所に集中して襲ってきたときには、どのような形態の民家も、ひとたまりもなかったが、何本かに分かれた洪水の流れに対しては、三角屋敷が有効であったといえる。

第7章 紀ノ川氾濫原の河道変遷

『日本書記』神功皇后摂政元年二月条には「横に南海より出でて、紀伊水門に泊らしむ」と記されている。当時このあたりは紀伊の水軍の根拠地の役割を果たしていたと考えられる。 そして"みなと"(湊)は、紀ノ川が大きく弧を描く屈曲部付近にあったと考えてよい。 そこは砂州背後のラグーンと紀ノ川本流の接点にあたる。 しかしながら、南岸の鳴神付近に比べるとこの地域は陸化がおくれ、不安定であったため、港の位置は定まらず、時代とともに、また洪水の度ごとに上流あるいは下流部に移動していたものであろう。

第8章 筑後川三角州の水路網と舟運

『史記』の淮南衡山列伝に「徐福ハ平原広沢ヲ得テ止マリ」とある。 この平原広沢の地がどこに当たるのか、今のところはっきりしない。 しかし、推測される筑後川三角州(筑紫平野と呼ばれることが多い)の当時の景観と、きわめてよく一致する。 そのころ、すでに有明海の北岸には平地が広がっており、筑後川のほか、矢部川、嘉瀬川などが屈曲しながら流れ、あたり一面は"広沢"すなわち広々とした沼沢地の景観をなしていたのである。


この平野の特色は、扇状地の占める割合が小さいこと、それから筑後川のつくった自然堤防があまりみられない点も興味深い。 これは筑後川の流路付近で地盤沈下が起こっていること、および筑後川上流から運び出されてきた土砂が、途中であまり堆積することなく、いっきに河口部にまで逹したことなどによると考えられる。


筑紫平野には、弥生時代の遺跡がきわめて多く、その半数近くが貝塚を含んでいる。 ざっと数えても、筑後川左右両岸で、貝塚の数は30ヶ所にのぼる(和島誠一・麻生優・田中義昭「北九州における後氷期の海進海退について」『資源科学研究所彙報』六三 一九六四)。 しかも筑後川左岸では、弥生中期とされる柳川市の西蒲池遺跡が、干拓地から4キロメートル足らずのところにせまっている。この事実は、縄文後期から弥生中期に至る間の陸化がきわめて速く、その後はやや停滞的であったことを物語る。

弥生時代の遺跡を、ほぼ全滅に点在させるこの平野が、なぜ今なお湿潤な沼沢やクリークを広くとどめているのであろうか。誰しも抱く疑問である。 その理由としては、 ① 弥生時代ころの海水面は、現在よりも低位にあった ② 地盤運動と有明粘土層の圧縮によって、地表面がその後低下した ③ 弥生時代のころ、筑後川やその支流に沿って中州状の砂堆が、また海岸近くには河口州や浜堤が発達しており、当時の人びとは、そのような微高地を選んで居住していた 、などの点が指摘できる。


これらふたつの段丘のあいだ、すなわち段丘のあいだ、すなわち吉野ヶ里段丘の両サイドには、北から南に向けて緩やかに傾斜する低地が発達する。 この低地の標高は上流部で約30メートル、下流部で7〜8メートルであり、全体としては扇状地の正確をもつ。 しかし、よく注意してみると、同じ扇状地性の低地であっても、東の田手川沿いと西の城原川沿い、またそれぞれの低地の上流部と下流部とでは、地形の性格がかなり異なる。 このような違いが弥生時代およびそれ以降の居住や生産活動に、一定の影響を与えたと考えられるため、その点について少しふれてみよう。

田手川流域の低地は幅がわりあい深く、溝のようになっている。 洪水の際には絶えず氾濫し、河道をしばしば変遷させたが、乱流の範囲は低地の幅のほぼ半分であった。 上流では東に、そして下流では西に偏っている。 そのことは沖積Ⅰ面とⅡ面の配列状態から知ることができる。 Ⅰ面は歴史時代を通して割合安定していたのに対し、Ⅱ面は洪水にしばしばさらされた。

東山・大塚ヶ里両集落を結ぶ線より上流では、Ⅱ面がⅠ面を切り込むかたちになっているが、それより下流部では、両面のあいだにレベル差はほとんどない。 すでに述べたように、上流部で侵食が、そして下流部ではわずかに堆積が行なわれたためである。 右岸に溢れた田手川の水は、東山集落より上流では低位段丘を、下流では中位段丘の裾を削り、激しいときには、B地点で段丘を乗り越えて、東から西に流れたらしい。

これに対して、吉野ヶ里段丘西方の低地は幅が広く、田手川沿い低地の二倍に近い。 ここには城原川のほか三本松と貝川が、ほぼ平行して流れている。 この低地もⅠ・Ⅱ面に大きく分けることができる。 その境界は北部の的集落付近から石井ヶ里をへて平ヶ里集落の南に至るラインである。 的から石井ヶ里付近までは、ⅠとⅡを分ける崖が明瞭であるが、それ以南ではあまりはっきりしない。 田手川と同じような傾向がここでもみられるのである。 城原川は、左右両サイドに溢れたが、洪水流が吉野ヶ里段丘の裾にまで達することはなかった。

注目すべきは、三本松川の東を流れる貝川である。 水量は三本松川よりさらに少ないが、この川は主段丘とその西に孤立して存在する低い低位段丘とのあいだを流れた形跡がある。 その時期は今のところはっきりしないが、もし弥生時代ころであったとすれば、この細流の果たした役割は大きかったといえるであろう。 それは集落を分断するものであり、舟運に利用された可能性もある。

第9章 ラグーン(潟湖)型平野と古代の津

…。 いつのころからラグーンのような形になったのであろうか。 一概にはいえないが、2500〜2000年前ころには、ほぼラグーンの地形ができていたと考えてよい。 縄文時代の終わりから奈良時代のころに、最もラグーンらしいラグーンが日本海沿岸をはじめ各地の砂質海岸にに数多く見られたはずである。 弥生時代から古墳時代ころにかけては、いわばラグーンの壮年期、今はやりの言葉では"熟年期"にあたる。 渤海使が日本へ盛んにやってきた8〜9世紀ころは、若干ラグーンが老化していたと考えられる。

九十九里浜平野の東北端に位置するラグーン「椿の海」は近世に干拓され、「干潟八万石」と呼ばれる美田となった。 万葉のころ、汀線近くに数条のラグーンがあり、そこが港としてしばしば利用されていたことは、

夏麻引く海上潟の沖つ州に鳥はすだけど君は音もせず (一一七六)

鹿島の崎に ……… 夕潮の 満のととみに 御船子を 率ひ立てて 呼び立てて 御船出でなば 浜も狭に ……… 海上の その津を指して 君が漕ぎ行かば (一七八〇)

などからもうかがい知ることができる。

当時の「海上津」は、千葉県の旭市付近にあったと考えられる。


渤海使は、八世紀の前半から約200年間にわたって前後35回、日本へやって来て。 仮に越後国以東を東部、能登国から若狭国にかけてを中央部、丹後国以西を西部というように3地区に分け、来着場所とその時期との関係についてまず考えてみたい(「第9章 ラグーン(潟湖)型平野と古代の津」図21参照)。

全期間を通じて東部が7回、中央部が11回、西部が12回、到着場所不明が5回となっている。 前半期を西暦727年から819年までと仮定すると、この間に合わせて19回やってきているが、東部は出羽国野代湊など7回全部が前半に集中している。 そして中央部は前半期に越前国三国湊など5回と後半期に6回、西部すなわち丹後半島あたりから山陰地方では前半期が3回で後半期が3回で後半期が9回となっている。 これらの事実は、渤海使が最初のころは対馬海流によってはるか東方にまで流されることが多かったが、後半になると波を切る技術というか、経験から航海がうまくなり、また船の性能がよくなったため、伯耆国・出雲国など丹後半島より西の港にたどり着くことができるようになったことを暗示させる。

文庫版あとがき

学生の時、私は中野尊正著『日本の平野』(古今書院 一九五六)を繰り返し読んだ。 まず「平野」について勉強しようと思ったからである。