2023-10-24 20:09:00+09:00

『古代の鉄と神々 真弓常忠』

読書中であった

読書中であった。

古代の鉄と神々 真弓常忠

門脇禎二も網野善彦も森浩一も亡くなり、 新しい考古学や歴史の論考を新鮮な驚きとともに読むこともめっきりなくなってのこの十数年 だったが、今年は久々に特に古代史の分野では、これは、と思える論者を何人か 知ることができたようだ。

その中でもこれは実に刺激を受けた。

著者が『わが国の製鉄が、じつに弥生時代より行われ、銅鐸・銅剣・銅矛さえも、 鉄とかかわり深いこと、また神々の祭祀が古代の鉄文化の跡を明らか』にするにあたり、 従来のある種前提になっていた砂鉄つまり磁鉄鉱のたたら精錬等に先行してより 融点が低く加工しやすい褐鉄鉱の利用があったことを示したこと 、さらに製鉄法の変遷が古代の本邦の社会の移り変わりに大きな影響を与えたとし、 その跡を奈良・平安時代に至る古代のあれこれの事柄を位置付けなおす手際には 感服。

しかも、神職で神道学者という専門性を活かした、単なる考古学や文献史学の 視線とは違う、独特の資料の見方、文献の読み方を披露してくれる。

読み応えあり、以下抜き書き。

一 鉄穴の神

樋口清之氏によると、この山の山麓扇状地ははんれい岩の風化によってできた 灰黄色粘土混りの細砂からなり、中に多数の雲母と含鉄石英砂が混在し、 鉄分の多いはんれい岩の部分は酸化発色しているが、 これから鉄の製錬は可能であるといわれる。

事実、三輪山西南麓には金屋遺跡があり、ここからは前期縄文土器が発見されていて、 もっとも早く拓けたところと判明するが、注目すべきは、弥生時代の遺物とともに、 同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土していることである。 鉄滓は製鉄時にできる文字どおりの鉄の滓であるから、それが発見されるということは、 かならずその付近で、製鉄が行なわれていたことを示すわけで、 だからこそ「金屋」と称したのであろう。 また山本博氏によると、三輪山の山ノ神遺跡からも刀剣片と思われる鉄片が出土し、 穴師平主には鉄工の跡がみられるという。

したがって、三輪山が古代の鉄生産に関わる山であり、 この山を神体山とする大神神社の祭神、 倭大物主■■玉命 倭大物主櫛■(瓦+镸)玉命 、すなわちオオナムチの神が、 産鉄製鉄に関わる神であることは実証できることになる。

砂鉄による製錬は、まず鉄砂をふくむ山を選ぶことからはじまった。 この鉄砂をふくむ山を「鉄穴山」といい、砂鉄を採る作業を「鉄穴流し」といい、 そこで働く人びとを「鉄穴師」と呼ぶ。

鉄穴師は砂鉄分の多い削りやすい崖を選んで山から水をひき、 崖を切り崩して土砂を水流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁水は流し去り、 重い鉄砂は沈むからこれを採ってタタラ炉に入れて製錬する。

三輪山にまつるオオナムチの神、すなわち大物主神が産鉄の神であったとすると、 崇神天皇紀七年の条にこの神を祭る主に大田田根子をもってしたというのは 重大な問題を示唆していることになる。 大田田根子は河内の陶邑から連れて来られた。 陶邑は土器を焼成した地である。 初期製鉄は弥生式土器の焼成と同様な方法で為されたと察せられるから、 陶邑の土器の製作に精通している者であってこそ、 はじめて三輪山の祭祀を為し得たのである。 オオタタネコとは、タタラの神ないしタタラを扱う人の意であろう。


大和における水稲耕作は、三輪山西南麓の初瀬川流域の扇状地よりはじまったが、 そこに金屋遺跡があり、出雲氏本貫の地も、 同地域の初瀬の朝倉付近に求める説もあるから、 オオナムチの神を祭ったこの地の農耕の民が、 鉄製のスキ・クワをもって水稲耕作を推し進めたものと解される。 ただし鉄は酸化腐蝕するから考古学の対象となる遺物として発見されることがないのは とうぜんである。 しかし唐古遺跡から発見された農具が、鉄製利器によって製作されたことは 明らかであることからも、弥生時代に鉄製品が用いられていたことは証される。 斎スキを象徴するアジスキタカヒコネの神がオオナムチの神の子神にあたるのも そのゆえであろう。

それとともに「鉄穴流し」による砂鉄の採取自体が国づくりとなったことは 見逃すことができない。 鉄穴山の崖を削って、水流によって土砂を流し、砂鉄は比重により選鉱するが、 流れた土砂は湿原の干拓に利することになる。 水田が「鉄穴流し」によって荒らされ、製鉄の民と農耕の民の利害が衝突するのは、 職業の文化が生じ、完成した水田に土砂が流れこむことによるもので、 当初農耕の民が自ら製鉄を行った段階では、 「鉄穴流し」はそのまま国づくりとなったのである。 オオナムチの神を「天の下造らしし大神」とするゆえんである。 要するにオオナムチの神の原初的性格は「鉄穴」の神、 すなわち産鉄の神であったとすることができる。

二 鈴と鐸

天目一箇神とは要するに「一つ目小僧」で知られる製鉄のタタラ炉のホト穴より、 熔鉄の状態を視つめて、隻眼となった鍛冶職を神格化した名である。

世に鳴石と称するものがある。 鳴石は「なりわ」と訓まれ、地方によっては鈴石とも壺石とも称する。 愛知県の高師原で発見されたところから「高師小僧」と名づけられたのもそれで、 地質鉱物学上の用語をもってすれば褐鉄鉱の団塊である。

ようするに褐鉄鉱の団塊とは、水中に含まれている鉄分が沈殿して、 さらに鉄バクテリアが自己増殖して細胞分裂を行い、固い外殻を作ったものである。 とくに水辺の植物、葦・茅茅・薦等の根を地下水に溶解した鉄分が徐々に包んで、 根は枯死し、周囲に水酸化鉄を主とした固い外殻ができる。

わたしはこのような褐鉄鉱を、 山本氏の示教によって大阪府泉南郡岬町の鍛冶屋谷で採集した。 ここでは壺石と称し、宅地造成に際して発見されて以来、付近には花瓶としたり、 置物として蔵している家も多い。 わたしが採集したものの中に、銅鐸そのままの形状のものがあった。 それをみたとき、これは銅鐸と関係があることを瞬間的にひらめいたのである。

鍛冶屋谷の一キロ東は金山谷といい、 その隣の淡輪町には 五十敷命 五十瓊敷入彦命 の墓に比定されている前方後円墳がある。

五十瓊敷入彦命は垂仁天皇紀三十九年に、茅沼の菟砥の河上に居て、太刀一千口を作り、 石上神宮に納めたとされている。 菟砥とはこの地であることは本居宣長の証したところで、そこに褐鉄鉱の団塊である 「スズ」ガ採集されるのであるから、文字通り「スズ」が「すずなり」に生る地であった ことが判明する。 しかもこの褐鉄鉱は、道路を造成するため削りとって崖になったところでは地表より 約一メートルから一・五メートルのあたりで、幅約五センチの層を成していた。 そのことから考えると、千数百年前には褐鉄鉱は生成され易い状態であったとみられる。

銅鐸は畿内を中心に分布しているのに対して、北九州を中心に分布しているのは銅剣・銅鉾・銅戈である。 このことによって、従来は銅鐸文化圏と、銅剣・銅鉾・銅戈とに分けて考えられてきたが、近年北九州からも銅鐸が発見され、出雲から大量の銅剣も出土した。 これは「スズ」の生る植物(葦・薦・茅等)の葉の部分をもって象徴したのが銅剣・銅鉾・銅戈であり、「スズ」すなわち褐鉄鉱の状態を象徴したのが銅鐸であった。

これはどうかなあ?

三 鉄輪と藤枝

わが国の原始的な製鉄は「鉄穴流し」以前に、 沼沢や湿原に生成される褐鉄鉱の「スズ」を採取する方法があった。 弥生時代の民は、このスズを求めて沼沢・湿原に面した傾斜地等で鉄鐸を振り鳴らしたり、 銅鐸を埋祭したりしたが、とくに信濃の諏訪地方では、 もっとも原初的な鉄鐸による堪神事が最後までのこっていた。 諏訪社に伝世されている鉄鐸に数字が刻印されていることは、 六世紀代にもなお行われていたものと考えられる。 これは諏訪湖を中心とする沼沢に「スズ」が多く得られたこと、 僻地なるがゆえの後進性によるもおとみられる。

これに対して、畿内や山陰・山陽方面では、早くより砂鉄採取の方法が用いられていた。 それを用いたのがオオナムチ神系氏族であろう。 いわゆる倭鍛冶である。

しかし、三世紀代よりはじまる帰化系技術者、すなわち韓鍛冶の渡来によって、 技術革新がなされ、古い技術はしだいに追放される運命に至る。 そうした場合、進歩的な外来文化をいち早くとり入れたのは、 大和の皇室を中心とする勢力であり、土着の民はおおむね保守的であるのをつねとした。 オオナムチ神系氏族(出雲族)というのは、こうした保守的文化の担い手であって、 そのような保守層は大和にも、播磨にも、出雲にもいたのである。

オオナミチ神系氏族、いいかえれば、賀茂氏や三輪氏は古い製鉄技術の担い手であったが、 韓鍛冶による新しい製鉄法によって、古い技術はしょせんは追放される運命にあった。 タケミカツチの神と争ったタケミナカタの神は負けて逃げたのはそのためである。 タケミカツチの神は中央より派遣された組織的、進歩的技術を象徴する鍛鉄の神である。 古い技術に固執するタケミナカタの神は、新しい進歩的なタケミカツチの神と争って敗れ、 出雲より逃げなければならなかった。

ところが逃げたタケミナカタの神にも安住の地があった。 諏訪地方ではなお湛神事を行い、 薦や葦の根に「スズ」の生るのを気永く待っていたのである。 畿内をはじめ他の地方では三世紀代にすでに失なわれた技術が、ここではまだ生きていた。 文字通り「みずかかる信濃」だったのである。 中央はもとより出雲でさえ古いとされた製鉄技術が、ここではなお進歩的であった。 タケミナカタの神は、ここでいちだんと古い洩矢神と争うことになる。

四 銅鐸・銅剣・銅矛と産鉄地

ウヤツベとは宇夜の女神のことで神庭にかかわる女王であろう。 ヤマトタケルノミコト伝説地は製鉄地と一致することは、谷川健一氏が指摘するところで、 宇夜の里が、その建部と関係あり、さらに宇夜の里は鳥取氏に関連する製鉄地であった。 鳥取氏とは、『日本書紀』垂仁天皇二十三年条に、もの言わぬ皇子誉津別が、 鳥鵠を見て声を発したことに喜んだ天皇が、その鳥を捕らえよと命じ、 鳥取造の祖天湯河板挙が出雲にいたって捕らえることができたという説話に関係がある。

遺跡を見学に訪れる人々のために設けられた駐車場の東に大岩があり、 金鶏伝説地の看板が立てられている。 金鶏伝説とは、後にも述べるが、

朝日さす 夕日耀く 木の下に

黄金の鶏の埋めありけり

といった類いの謎の歌に託して、財宝を隠してあるとする伝承地が全国各地にあり、 そこは鉄の在りかを示すものである。 また駐車場の向かい側の柿の木畑には鉄滓がでるという、現地の人の証言を得た。

大場磐雄氏は、銅鐸祭祀氏族は加茂・ミワ族であるとされた。 大場氏は、銅鐸出土地が、カモ郷・ミワ郷、あるいはカモ社の多い点に着目して、 かねて主張されていたところで、カモ・ミワ族は、近畿を中心に東海は遠江・駿河まで、 東山は美濃・信濃、山陽は播磨・備中、南海では阿波・伊予・土佐、西海では筑前・豊前、 そして山陰は因幡・出雲・隠岐に分布したが、大和の勢力によって圧迫され、 一部は信濃の諏訪に退いてここを安住の地としたが、彼らの使用した銅鐸は、 その地で鉄鐸に変じて伝世されたと説かれたのである。

それに対して、田中巽・谷川健一氏らは、 銅鐸祭祀氏族を尾張氏または尾張氏有縁の氏族(伊福部氏・小野氏ら)とされた。 田中・谷川説によって銅鐸祭祀氏族は、尾張氏とすると、 大場説によるカモ・ミワ族とする説とくい違うかのようである。 ところが伊福部氏を含む尾張氏は、火明命を祖とする海人族であったのに対して、 賀茂氏は『新撰姓氏録』大和国神別、賀茂朝臣の項に

大神朝臣と同祖、大国主神の後なり。 大田田禰古命の孫、大賀茂都美命(一名、大賀茂足尼)賀茂神社に斎き奉る。

とあり、賀茂・三輪氏は、ともに大己貴神系氏族であるが、 先述の『伊福部臣系図』で知られるように、五十研丹穂命、すなわち火明命とも大己貴神とも 一系につながっていて畢竟同族であった。


銅鐸がなぜ埋められたかは、製鉄の原料であるスズを求めた祭祀の料としてであった。 それではなえ一斉に用いられなくなったのか。 ほかでもない、製鉄の原料を得るためには鉄穴流しの方法による 砂鉄採取の技術を会得したこと、とくに三世紀代よりの、天日槍らの名で象徴される 帰化系技術者の(韓鍛冶)の渡来によって、技術革新がなされ、さらに大量の鉄挺も輸入される におよんで、沼沢・湿原の薦や葦の根にスズが生るのを気永く待つ必要がなくなったからに ほかならない。 製鉄技術の革新が、弥生時代の銅鐸祭祀の終焉と古墳時代のはじまりを告げるのである。

吉野裕氏は、松本古墳群は、川砂鉄産地の真っ只中に成立した鍛冶王古墳であるとされた。 方墳または前方後方墳は、出雲国に集中的に存在するほか、 類似のものが美作をはじめ吉備国に多く、いずれも産鉄地であることから、 前方後円墳が農地を支配して大をなした首長の墳墓であるのに対し、 鍛冶王の古墳として特殊性をもつものとされたのである。

「山河の水泳る御魂」というのは、水中に形成される団塊をそのまま表現している。 従来の学者は、何人もこのことに気づいていない。 水中の植物に褐鉄鉱が形成され、それが製鉄の原料となったとは誰も想像さえできなかった からであるが、出雲にもそれはあったに違いない。 なぜなら、砂鉄の宝庫ともいうべき出雲の山地から流れ出る水は、鉄分を豊富に含んでいる からであって当然である。 それは多分、山あいの谷の沢になった辺りに生るものと思ってよい。

八俣の大蛇退治伝説は、肥の河(斐伊川)の砂鉄を支配したスサの男の物語である。 通説では八俣の大蛇が製鉄民で、製鉄によって生ずる土砂が、農地を荒らしたため 製鉄民を討伐して難渋する農耕の民を援けたとするが、 製鉄民と農耕民の対立抗争とみるのは当らない。 初期製鉄の段階では、「鉄穴の神」の章で述べたとおり製鉄の民と農耕の民と分化しては いなかった。 八俣の大蛇とは、斐伊川の砂鉄そのもので、これを採取し鉄穴流しのたたら製鉄を 支配したのがスサの男の神(スサノヲノミコト)であった。


奥野正男氏によると、砂鉄などチタン分の多いものは高温でないと還元できないが、 褐鉄鉱を原料として密閉式の炉内に木炭や原料を入れて点火し、送風をつづけると、 半溶解状の海綿鉄が得られる。 この中から良質な部分をとりだして加熱・鍛打をくりかえして純鉄を得ることができる というものである。 岡山県、門前池遺跡では、焼土面と棒状鉄器が出た弥生中期末の住居址に褐鉄鉱が 集められていたという。 山口県美祢市の秋吉台地の鉛山には、鉄分60〜80%の褐鉄鉱の露頭近くに、 3〜400トンにのぼる鉄滓が堆積していて、褐鉄鉱を原料とする製鉄が 行われていたことを示しているという。

吉野氏はオオナムチの神について、 「彼はスサノヲノミコトの娘と結婚し、いわばスサノヲの跡目を相続して〈大国主〉と よばれて祝福された存在だから、スサノヲノミコトよりはいっそう発展して 山砂鉄などにも手をのばした大〈鍛冶王〉だったかもしれない」とされているが、 私見では大穴持命は、むしろ在来の〈倭鍛冶〉によって奉じられた神で、 帰化系技術者である韓鍛冶の渡来によって、共同の祖神としてスサノヲノミコトを奉祀し、 オオナムチの神(大己貴神)の祖神として崇敬したのであろうと想像している。 すなわち、スサノヲノミコトは、元来鉄神としての性格を持っていたことを想像せしめる のである。 しかも、かなり早期の砂鉄採取以前の段階における習俗が残存して今日に至っているものと 推定するのである。

五 倭鍛冶と韓鍛冶の神々

このオオナムチの神とアメノヒボコ、すなわち古い文化と新しい外来の文化が争って、 播磨では一応、オオナムチの神の勢力、つまり旧い文化が優位を占めて、 新しい外来文化を拒否する形となり、アメノヒボコの勢力は播磨に入り得ずして 但馬に落着くこととなる。 それが『播磨国風土記』の世界であった。

『播磨国風土記』に語られる伊和大神とアメノヒボコの争いは、右の新旧文化の抗争に ほかならないが、ここでは伊和大神の名で語られる保守的文化が、アメノヒボコを代表とする 新しい外来文化を、全体としては押し返した状況となっているのは、 この地方の土着の民による製鉄技術がかなり進んでいたために、 外来技術の採用を必要とするにいたらなかったことを意味する。

姫路市の北部にある広峰山の山頂には古くから牛頭天王を祭った広峰神社がある。 牛頭天王はスサノヲノミコトと附会されており、 祇園社は、この広峰社より遷座したとも伝える。 スサノヲノミコトは先述のとおり鉄神とみられるが、 巨智里に属する現姫路市田寺・新在家・辻井の辺りが『風土記』の因逹の里にほかならず、 そこに鎮座するのが射楯兵主神社であった。

以上の語類の中で、テツ(鉄)はヒッタイト民族が鉄をもって築いた強大な王国トルコの名に 由来することは広く知られている。

このヒッタイトの創始した製鉄技術は、シルクロードを経由して 紀元前十三世紀頃の殷代の中国に入ったとされている。 殷・周代は中国では青銅器文化が発達したが、鉄は戦国時代に武器として用いられ、 漢代には、鉄は国の管理下におかれた。 このトルコ、タタール、韃靼に発した製鉄技術がたたらにほかならない。 タクタク、タツタツともいい、テツの語源となった。 わが国では北方大陸系文化としてもたらされたものである。

六 五十鈴川の鉄

このようにして倭姫命の巡幸地は、いずれも産鉄地に結びつくことは著しい。 しかも注意を要するのは、それらの地が多く河流・湖沼の水辺に臨んでおり、 「スズ」の採取を行った初期製鉄を想わせる点で、「鉄穴流し」による砂鉄採取よりも いちだんと古い段階であったことが判明するのである。 そのことは、神宮の創祀の年代が、帰化系技術者による進歩的な製鉄技術の普及した 五・六世紀以後のことではなく、もう一時代古い、原始的製鉄の時代であったことを 示すものといえる。

昭和五十九年十二月、伊勢市岡本町の丘陵から、弥生時代の住居跡が発見された。 従来宮川右岸から五十鈴川にかけて弥生時代の遺跡はなく、原野であったとみられていた。 それゆえ、神宮の鎮座を三世紀代とすることは考えられないとされてきたのであるが、 そこから弥生時代の遺跡が発見され、三世紀を下らないことも判明した。 神宮の創祀を垂仁天皇のとき(実年代では三世紀)とする『日本書紀』の伝えは、 そのまま肯定してよいことになる。 そのことは、製鉄技術の進歩の上からも一致するのである。

七 紀ノ川と鉄

広開土王碑文について

中国吉林省考古研究所王健群所長を中心とする研究グループで、赤外線写真などを駆使して 調べた結果、千五百年の風雪で肌荒れしているが、「来渡海破」の文字は原碑にもともと あったことは間違いないとして、「論争には終止符をうつべきだ」としている。 これは『日本書紀』その他に記す神功皇后の所伝がけっして架空の造作ではないことを 実証するものである。 ところが、この朝鮮半島の動乱には鉄の所在がからんでいた。 神功皇后西征の発端を語る仲哀天皇紀八年秋九月の条に、新羅のことを描いて、

眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在り。 是を栲衾新羅国と謂ふ。

と、金・銀の多くある国としているが、これは後世金銀が珍重されるにおよんで、 鉄に対する願望が振替えられたのであって、四・五世紀にあってはなによりも 鉄が求められたのである。 そのことは新羅が事実鉄産のすこぶる多い国であったことによって証明できる。

九 修験道と鉄

吉野・熊野から伊勢にかけて鉱物資源が在するのは中央構造線に関係がある。 先にも述べたように、中央構造線は、伊勢・二見付近から高見山地を通り、 紀伊半島を横断して紀ノ川河口に抜けているが、その北側に発達する領家変成帯、 南側の三波川変成帯もともに鉄・銅資源と関係があり、キースラーガー(層状含銅硫化鉄鉱床) と呼ばれる鉱床が存する。 つまり、吉野・熊野の山中には豊富な鉱物資源を提供しているわけで、その鉱床を求めて、 山中を跋渉・抖擻したのが山伏──山師であった。 彼らが法螺貝を吹き鳴らし、三鈷杵を振り鳴らすのも、 鉱脈を探りあてるための呪術に発した、と解することができる。

修験道の祖師と仰がれている役行者の伝説地である葛城山(金剛山)も領家変成帯中にある。 金剛山の千早赤坂村の千早はもと「血原」で、赤坂は文字どおり赤土であり、 この付近の土壌は代赭色を呈し、朱砂(辰砂)を含んでおり、鉄分も豊富である。 このことを示教されたのは中村直勝氏で、中村氏はこの付近に鉄・銅・朱砂といった 鉱産物があり、これが楠木正成らの活動の源泉であったことを述べられた。

こうした吉野・熊野から伊勢にかけての山間に、修験者と連携して二百四十年もの間、 伊勢国司として勢力を保ってきたのが北畠氏であった。 南朝が結んだのもこの修験者であった。 吉野朝は修験者によって支えられたのである。 その基礎には鉄・銅・辰砂等の鉱物資源があった。 そしてこの地と東国、とくに常陸方面との海上の道をとるため、伊勢の海に出る道を扼する 位置にあったのが、雲出川(廬城河)上流多気の地であった。 ここに北畠神社が存するのである。

一〇 犬と狩

安部の太夫が「狩」に出るに「犬」をあまたひきつれているが、 「犬」とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった。 つまり製鉄の部民にほかならない。 してみると、「犬」をつれて「狩」にでたというのは、山間の僻地なるがゆえに狩猟を なりわいとした行為をいうのではなく、鉄の在り処を求めて山野を跋渉する行為をいうものと 理解できる。 その「狩」をかたどって「もどき」としたのが、弓神事であるが、「犬」が製鉄の部民を 意味すると知るなら、犬上・犬飼・犬養の氏や地名も、これをたばねる人びとをいうことと 判明しよう。

昭和五十七年九月九日、奈良県橿原考古学研究所で行われた、古代刀剣シンポジウムで、 日立金属冶金研究所長清水欣吾氏は、 奈良県内の古墳出土の刀剣等百六点を化学分析した結果、原料は赤鉄鉱、褐鉄鉱であることが 判明したという。

このことは、初期製鉄が褐鉄鉱・赤鉄鉱を原料としたはずであるとのかねての私見が裏づけを 得たことになる。 ただし、それが磁鉄鉱に変わったのはいつの時代か、またその製鉄技術の具体的な方法に ついては、科学技術史の問題である。

わたしは、祭祀学の立場から、神々の祭祀や、神話・伝説、奉斎氏族、地名等によって 埋没した古代の文化を発掘する一つの端緒を提示したまでである。

一一 蛇と百足──鉄と銅

むかし有宇中将と申す者、明暮狩猟に耽っていたために勅勘を蒙って奥州に下ることとなる。 鷹と犬を供に馬に騎ってやってきたのが東山道下野国二荒山。 ここで朝日長者の娘、朝日姫と結ばれて生まれたのが馬頭御前(馬主)で、 さらにその子が小野猿丸。 容貌いたって見苦しく猿に似ていたが、弓箭とっては人に勝れた名手であった。 すでに親々は死して二荒の神となったが、山中の湖水をめぐって上野国の赤城神とあらそい、 たびたびの戦の末、鹿島大明神の教示で、孫の猿丸大夫に助勢させよというので、 鹿に姿を変えた二荒神は、熱借山に狩をしていた猿丸を日光山に誘い、そこで神と現われて、 弓執りの聞こえある汝にたのむとの神託あり、かくてあまたの百足となって寄せくる赤城神に 対して二荒神は大蛇となって迎えるが、中にも左右に角の生えた大いなる百足に向かって 猿丸が矢を放てば、左の眼に深々とささって遁走した。 よって二荒神は猿丸にこの山を与えて主としたというのである。

金屋子神降臨説話も、神と朝日長者と、オナリと称する巫女の三人立の形に還元できることは 石塚尊俊氏も説いている。 そして神と長者とその娘の三人立の形は、京の長者とその一人娘の玉屋姫とそれを訪ねた 炭焼藤太の話につながり、右の三輪や賀茂の神婚説話と同じく、三人立の形が 『日光山縁起』にも見出されることになる。

日光二荒山の祭神は、大穴貴命、妃神の田心姫命、 および御子神のアジスキタカヒコネノミコトとなっているが、これは三人立の形を そのまま表わしている。 本来は男体・女峰の両山が現われたという二柱の親神であったろうと推定しえる。 そして、その御子神が宇都宮大明神ではなかったか。 『延喜式』神名帳にはただの一座だけしか記載されていないのは、この神をもって二荒神の 現じたものとしたことと察せられるからである。 祭神は崇神天皇の皇子豊城入彦命とされている。 豊城入彦命とは上毛野・下毛野国造の始祖と伝えられていて、この地の開拓の祖神である。 現に二荒山神社は五世紀代と目される古墳の墳丘上に祭られているから、 下野国一円を支配した毛野君の始祖をもって、この神社の祭神とするのは当然で、 その神が『日光山縁起』の小野猿丸に比定したとしても、けっして矛盾するものではなく、 両者は信仰の上では、それなりの真実を表わしているといってよい。

三上山の東は日野町で、 柳田国男は「日野は恐らく朝日野の略で、朝日山の信仰によってできた地名である」とされ、 湖岸の村々から東に望む山の姿はいかにも旭日を拝するに適していて、 その川筋はみな東西に通って、川上の峯は神々しく、すこし北すれば「日之少宮」と 称えた多賀大社のあることを説かれた。

菅の生い茂った田であるとか、蒲の生えた野が、製鉄に関係があるとは現代の常識からは 想像できないかもしれないが、少し観点を変えて、往古湿原に生えた菅や蒲などの根に 水酸化鉄が沈殿して「スズ」(褐鉄鉱)が生成されたことを知るなら、そこに想像を絶する 古い時代に製鉄が行われていたことが理解できるはずである。

田原藤太秀郷の名乗った氏が蒲生であるのは、近江の蒲生野による名と察せられるが、 三上山の百足を退治したのは蛇のたのみによるものであった。 その三上山に製鉄神(天目一箇神)が祭られ、付近からは銅鐸が出土した。 『日光山縁起』では二荒山の蛇と赤城山の百足があらそった末、小野猿丸のはたらきで 百足は退治された。 二荒山と赤城山の中間に位置するのは足尾銅山である。 宇都宮の南、小山市郊外武居にある智方神社付近より小銅鐸が出土している。 そして日光男体山の山頂よりは鉄鐸が出土した。

男体山の鉄鐸は山頂の太郎坊神社付近より昭和三十五年、鏡鑑・錫杖・経筒・独鈷杵・土器類 とともに出土したもので、中宮祠宝物館に蔵されているが、山頂遺跡発掘調査報告 『日光男体山』に一三一口と報告されている。 実際には大小二〇〇口以上におよびおびただしい数で、 わたしはそれを二荒山神社中宮祠宝物館で拝観した。 そのさい、学芸員の矢野忠弘権禰宜に、この山に鉄滓がないかと尋ねたところ、 見せられたのはまさしく鉄滓であった。 銅もあった。 いずれも溶解したさいの残滓であるから、他から持ち込むことはあり得ない。 かならずこの中宮祠付近で製鉄、製銅の行われていたことを証するものである。

男体山上で発見された鉄鐸は、この地での製鉄が行われなくなった後も 久しく伝世されていたものが、修験者等によって他の法具とともに鎌倉時代のいつの頃にか 埋められたのであろう。 少なくとも二荒山に鉄を産したことは間違いなく、それが二荒山信仰のはじまりであり、 修験道発生の要因もじつはそこにあった。

そこでかりに二荒山に鉄を産し、赤城山に銅を産したとするなら、二荒神と蛇と、 赤城山の百足とのたたかいというのは、鉄文化と銅文化のあらそいではないか、 ということに想いいたったのである。 それというのも、蛇が鉄に結びつくのは、スサノヲノミコトの八岐大蛇退治の物語にも うかがわれるとおり、蛇は元来水に縁の深い動物であり、鉄もまた水辺の葦や薦の根に生る 「スズ」にしても、鉄穴流しによって砂鉄を採取するにしても、水に所縁の鉱物である。 したがって、水と蛇、水と鉄との結びつきから蛇と鉄と結びつくのは容易である。 さらに五行思想では「金生水」と称し、「金」は「水」を生ずる理となっていて、 鉄のあるところ水を生ずるから、そこに蛇があっても不思議ではない。

それに対しても銅が百足に比定されるのはなぜか。

道教の経典『抱朴子』によると、鉱山に入る場合、蛇の危害を避けるためには、 竹の管に百足を入れて腰に下げる、または百足のイミテーションをつくって身にまとうという 呪術信仰がある。

そして赤城山の中腹にある赤城神社は、中国江南の道教の聖地赤城山(せきじょうさん)から きたという伝承もあり、江南地方は中国古代の洞玄霊宝派道教の開発した冶金鍛造の技術の さかんな地方であり、その方面より渡来した技術者が近江・下野・上野に多く居住していた。

江南道教が採鉱冶金の技術を伝えたのはいつか。 『日本書紀』には雄略天皇の十四年(四七〇)呉国より漢織・呉織・兄媛・弟媛らが来日し、 朝廷は是を歓待して姓を賜り、太秦と称さしめたことが記されている。 この秦一族は、京中に居を占めて大をなしたことも知られているが、その頃から 呉国にあたる江南の人びとは次々に来日し、各地に居住したものとみられる。 その中に江南の採鉱冶金の技術を伝えた民もあったのであろう。 近江から下野・上野に移住した民もあったことと見る。

鉄が蛇、銅が百足となり、二荒山でも三上山でも両者があらそった末、 最終的には百足が敗退するのは、鉄文化が銅文化より優位にたったことを意味するに ほかならない。

むすび──豊葦原の瑞穂国

葦は葦であって、これが稲に変わることはない。 葦の豊かに生える原が、稲も豊かに稔ることの象徴となるについては、そこにもっと葦と稲の 必然的な結びつきがあるのではないか、というのがわたしには久しい疑問であった。 それが、葦の根に褐鉄鉱、すなわち「スズ」の生ることを知ったとき、 眼から鱗の落ちる思いがした。 つまり、葦の原は鉄の採れるところであった。 すなわち、葦の根に形成される褐鉄鉱の団塊「スズ」を採って、それにて鉄器を生産し、 開墾を進めたのである。 しかも水中に含まれる鉄分は稲の生育を促進させる。 稲は水中の鉄分を吸収して生長するのであるから、とうぜん葦原は稲の適地となる。

古来「神の田圃」と称して、葦や菅や萱等の茂る湿原を聖所としてまつっている例は 少なくない。 菅生神社、菅原神社、葦神社等、全国にそれを偲ばせる神社も少なくない。 金井典美氏はそれらをとりあげて、「湿原祭祀」の諸形態を説かれている。 「葦原が豊かな瑞穂国に変ってゆくという神話の状態であり、巨視的にみれば事実の反映」 と解されているが、葦の生える湿原に鉄が得られ、それが文字どおり稲の生育を約束する ものであったという事実への視点は欠落している。 湿原聖地は、そこに生育する水辺の植物の根に褐鉄鉱(スズ)が生成されたのである。

このような銅鐸ないし銅剣・銅鉾の祭祀の時代、 いいかえれば弥生時代の褐鉄鉱(サナギ)による鉄文化を象徴した神々、すなわち、 サナギ、サナミを名とした神が、イザナギ・イザナミ二神にほかならない。

イザナギ・イザナミ両神を「鐸」の神と推定したのは福士幸次郎である。 福士は、わが民族の記憶に絶するあたり、鈴を以て表示せられる主神の祭祀が存在し、 この祭祀上における鈴の名称が「鐸」であった、と述べ、鈴を男女両体のものとして サナギ・サナミと両個を立てて祭祀する形式が現われ、鈴そのものに元来からある 信仰上の意味、すなわち生産・生長・生殖の霊力授与の意味が拡大進展し、 やがて鈴の信仰がさらに人格神化されて考えられるまでの観念を生じ、鈴を祭器の名として とったサナギ・サナミから、その名を負った男女両柱の神の存在に成長するにいたった、 というのである(『原日本考』白馬書房、昭和十七年)。

尾張氏や安曇氏等の海人族(海幸彦)は、古層の文化の担い手であった。 彼らは、やがて進歩的な文化の担い手である、 大和の皇室を中心とする勢力(高天原系、山幸彦)に従属することとなる過程を描いたものに 海幸山幸神話がある。 海幸彦と山幸彦は執物を交換したが、山幸彦(ヒコホホデミノミコト)は、海神の援けを借りて 幸を得たとするところに、海人族の働きが古代文化の形成に重要な役割をはたしていた ことを物語るものといえよう。

古層の文化の担い手を表象する神に、オオナムチの神を中心とする出雲系の神々があった。 倭鍛冶である。 オオナムチの神は「鉄穴」の神を意味し、「鉄穴流し」によって砂鉄を採取し、磁鉄鉱による 製鉄を行った点で、褐鉄鉱による「スズ」の精錬からみれば進歩的であった。

この両者の新旧文化のあらそいを表象するのが、 洩矢神(鉄輪=鉄鐸)とタケミナカタの神(藤枝=砂鉄)とのあらそいであった。 タケミナカタの神は諏訪では洩矢神を敗ったが、オオナムチの神を代表とする倭鍛冶は、 兵主神やイタテ神による韓鍛冶を用いて、いちだんと進歩した大和の皇室を中心とする 勢力には譲らざるをえなかった。 それが出雲の国譲りである。

わたしは以上のように、神々の足跡をとおして古代の文化の発達の跡を追ってきた。 神社の祭神や由緒、関係氏族の隆替、神話や民間伝承、古い地名を手がかりに、 自然科学の援けをも借りつつ、古層の文化を掘り起こすことにつとめた。 そちて知り得たのは以上のような、考古学や文献の史学ではまったく思いもよらぬ 古代鉄文化の軌跡である。

解説 (上垣外憲一)

同じ学生社から、『古代日本 謎の四世紀』(平成二十三年)を書くにあたって、 特に神武天皇の『古事記』、『日本書紀』の記述が鉄にかかわる部分が多いと気づいて、 真弓先生からお話を伺おうと思って住吉大社を訪問したのであった。