2023-12-29 18:16:00+09:00

『蘇我氏の研究 客野宮治』

読書中であった

読書中であった。

蘇我氏の研究 客野宮治

医者を本業とする著者が、謎の多い蘇我氏の来歴に、主に記紀の読み込みから一貫した 像を与えた論考。

その像は結果としてそれこそ教科書にも載るような古代史の常識をも否定するほど 斬新だが、一方で古代を生きる人々を貫く思想に照らしてもむしろこれが自然なのでは ないかとしたくなるような自然さがある。

残念ながら著書はこれ一冊のようだが、また違う対象を扱い論じてほしいと願う。

ところで古代の氏族で謎というと藤原氏、その始祖中臣鎌足の出自の謎具合も相当だが、 本書最後に蘇我氏の出自も鎌足の出自もいわば同様とするところは、 ある程度納得はできるものの、逆にそんなに上手い話なのか?とも思う。

それは逆にいえばそれまでの論が水際立っているからこそなのかもしれないが。

しかし、これは今AmazonだとUnlimitedに入っているのだ。 それはなんというのか、いいのか、悪いのか、と…。

以下抜き書き。

もうーつ、蘇我氏の来歴についての関心の深さには、どうやら、 蘇我氏の祖とされる満智が実は百済から渡来した木羅満致と同一人物ではないかという、 門脇横二の説が大きな役割を果たしているらしい。 これについては、反響も大きいが反論も多く、最近はかなり批判にさらされ、 以前ほどの勢いはなくなっているようである。 問題が国内で解決できず、国外に解決策を求めたという点では、騎馬民族説に近い。

第一章 皇族の諱について

皇族の中には、伴造の名を冠したとは思えない諱が存在する。 欽明天皇の葛城皇子および大伴皇女、敏達・推古両天皇の間に生まれた尾張皇子らが そうであり、これらの諱の元、葛城臣、大伴大連、尾張連は、 当時の大族であり、伴造などと片づけられるものではない。 また、小墾田皇子、桜井皇子、来目皇子などの諱の由来となった、 小墾田臣、桜井臣、来目臣は、蘇我氏の枝族で大夫であった。 大夫は現代の閣僚クラスで、これもまた単なる伴造の名ではない。 これらに見られるように、上級貴族が皇族の資養を担当することがあり、 この場合、明らかに前出の資養氏族とは性格が異なると考えるべきである。


大きな刀を差した馬子を守屋が「矢が刺さった雀のようだ」と嘲笑し、 誄を奉じる守屋がよく震えるので、馬子が「鈴を付けたらよく鳴るだろう」と謗り返し、 両者の確執はここに始まったと『書紀』は記す。 だが、物部氏には鈴を振るわせて再生を願うフルべ神事があり、 追悼の際に身体を震わすのは当然で、 守屋にとっては特に悪口となる内容ではなかったはずである。 また、馬子は雀にたとえられているが、後の皇極天皇元年五月ニ十三日に、 蝦夷に白雀が、入鹿に白雀の子が献上されているのを見ると、 蘇我氏は雀と何か関係があったらしいことが分かる。 あとで解析するが、実際に蘇我氏は雀と密接な関係があった。 ここでは「蘇我と雀」問題と指摘しておくにとどめるが、 要するに、この二人の言葉は相手の氏族の特徴を表す表現で、 本来は悪口でも何でもなかったのである。


最終的に蝦夷が境部臣摩理勢一族を抹殺することによって山背も沈黙し、 舒明天皇が即位した。 蘇我の有力枝族であった境部臣氏はこのとき断絶した。 この事件には皇位継承問題だけではなく、葛城県の帰属問題も絡んでいたのだが、 蝦夷が蘇我氏と血の繋がりのない舒明をたてるために(実際には繋がっている。 後述するが、これは記紀の最大の欺瞞の一つである)、境部臣氏を滅亡させ、 そのことが蘇我氏全てを不信と混乱の中に陥れ、 やがて本宗家の内部抗争と氏族全体の凋落を招くのであるが、とりあえずここでは、 蝦夷の大夫会議および身内に対する指導力の低下を指摘しておく。

第四章 蘇我氏の正体

『古事記』には配偶者の名すら書かれていない安閑天皇だが、 『書紀』は四人の后妃の名をあげる。 皇后は春日山田皇女であり、妃は許勢大臣男人の娘紗手媛、その妹香香有媛、 そして物部大連木蓮子の娘宅援である。 記紀では、いずれの妃も子をなさなかったとする。 一方、『紹運録』の安閑系譜には、豊彦王という聞き慣れない皇子の名がある。 添え書きには、「現神播磨国大僻大明神是也、秦氏祖云」とされているが、 秦氏の氏祖かどうかは不詳とするしかない。 その他、事績も系譜も一切不明の存在であるが、 安閑に皇子がいたとする異伝があったことをほのめかしている。 ただ、『紹運録』自体は十五世紀前半の著作であるため、資料的価値は劣るとされる。


元来の難波はどこかとなると、現在の大阪には難波はニカ所ある。 中央区難波橋付近と、旧西成郡難波村、現在の大阪市中央区難波付近である。 前者は難波津のあった地である(日下雅義『地形から見た歴史』ニ三一~ニ三九頁)が、 後者は上町台地を西に外れるため、当時は海の中であったはずである。 となると、難波は、難波津のあった中央区北浜付近となる。

第五章 蘇我氏の誕生とその影響

蘇我氏は、欽明天皇の歳の近い甥から発し、臣籍降下した高貴な血筋であった。 また飲明・敏達両天皇にとって、蘇我氏はごく身近な親戚であり、 また自らの政権を支えてくれる、もっとも信頼できる身内でもあった。 蘇我氏は降下した家臣と言うより、天皇家の分家、いやむしろ、 副王とでも言うべき存在であったと考えられる。


馬子にとって、蘇我本宗家は安閑天皇の血脈に雀部臣氏の血筋が交わってできたものであり、 雀はそのシンボルであった。 「蘇我と雀」という意味不明の事柄が、実は稲目の正妻の身元を暗示していたのである。 蘇我氏が雀部と血縁関係にあったことは、当時の社会一般に知られていた事実であったろう。 さもなければ、馬子が雀にたとえられたり、 蝦夷や入鹿に白い雀が献上されたりするはずはない。 また、蘇我氏側にとっても、秘匿する必要もない事実だったはずである。


蘇我氏の血脈は、この苐媛、蟻臣を経由して葛城氏の系譜の中枢に直接つながっている。 さらに、仁賢の祖父履中の母親は磐之援であり、その父親は伝説的な葛城氏の祖先、 襲津彦である。 どこまでが神話でどこからが史実なのか、その境界すら判然としないが、 馬子が自分こそ葛城氏の末であると主張した根拠は、実はここまで遡ると考えられる。 そして、その主張は同時に、蘇我氏が山田皇后を通して前皇統の血脈を受け継いでいる と主張することと同義でもあった。 稲目の妻が葛城氏の出であったなどという、ささやかな問題ではない。 蘇我氏の血統の正当性がかかっていたのである。 馬子ならずとも必死になるであるう。


安閑天皇の子、稲目皇子は蘇我氏を創設し、父の死後、 宣化天皇の即位と同時に大臣となった。 したがってこれには、安閑、宣化、稲目の三人共同の意志が働いていたはずである。 いや、全員にそれを納得させたのは、その四年前に崩御した継体天皇だったと考えられる。 なぜなら、山田皇后に匝布屯倉を与えたのは、生前の継体だったからである。 蘇我氏の創設は、明らかにある確固たる目的を持って行われたのである。


金村は、失脚したわけでも隠居したわけでもなかった。 安閑天皇に屯倉の下賜を進言して蘇我氏を創設したとき、 金村は将来勃発するかもしれない抗争を予想して、 その抑止のために住吉宅に陣取ったのである。


皇統図から他に宅(部)を探してみると、安閑天皇の妃、宅媛が浮かび上がる。 宅媛は安閑から難波屯倉を下賜されたが、宅部皇子は、安閑とこの宅媛との間に生まれ、 三宅連に資養された皇子だったのではないか。 だとすれば、稲目とは異腹の兄弟であり、馬子には叔父に当たる。 世代的にも無理がない。 『書紀』は、一貫して安閑天皇には子孫なしとしているため、 宅部をその皇子と書くわけにいかず、宣化の子としたのではないか。 また、穴穂部と同時に殺されているため、多くの史書も穴穂部の同母弟としたのであろるう。


だいたい、同じ一族の中から、というより同じ兄弟の中から、 ほぼ同時期に二人も外征軍の大将軍が出るなどということがあり得るだるうか。 また、蘇我氏と皇室の命運をかけた丁未の役で、馬子の実弟であり、 蘇我氏きっての武人であった摩理勢が参戦しなかったなどということも、 またあり得るだろうか。 これらもまた、鳥那羅と摩理勢が同一人物とすれば、全て氷解する疑問である。


さらに、舒明天皇に息長足日広額という和風諡号を奉ることによって、 広姫の出身氏族としての息長氏を強調し、 真の出自である蘇我氏から後世の目を逸らそうとしたのだろう。 天皇の和風誰号に母方の祖母の出自である氏族名を入れたような例は、 他に類例を見ないきわめて異例で特殊な事例である。 息長足日広額を分解すると、息長+広(姫)+糠(出媛)とちゃんと系譜になっており、 しかも息長と広姫の間に足日が入って、両者の間に断層があることを示している (何と言ったらいいのか……、私はこのことに気づいたとき、唖然としてしまった。 この諡号をつくった人物は凄まじく暗い諧謔の持ち主であったに違いない)。


だが、本当の長子相続となれば、実は田村はその相続人ではない。 彦人は、敏達の長子であった。 母親広姫は稲目の娘であったため、彦人の血統的正当性は きわめて強固なものであったと考えられるが、彦人は皇位に就けなかった。 では、彦人の長子はとなると、これは田村ではなく、茅渟王なのである。 田村皇子は、茅渟王の腹違いの弟なのである。


もし、中大兄たちが武カクーデターで入鹿を倒さねばならなかったとすれば、 それは皇極天皇四年六月の時点ではなく、 舒明天皇十三年(六四一)十月の舒明天皇崩御の直後、 次期天皇が即位する前でなければならなかった。 本格的な武力闘争になると、茅渟王家側に勝ち目は薄かった。 勝負をかけるには暗殺しかなかったであろう。 暗殺の現場には、古人もいたとされ、当日二人がもろともに狙われた可能性が高い。 おそらく、それは実際にそのように決行され、 入鹿は暗殺され、古人大兄は屈服し失脚した。 その結果として宝皇女が皇位に昇ったとすれば、全ての矛盾が消失する。

『書紀』は、クーデターの日時を改変したのである。

第六章 追記

原因の一つは、男大迹王が皇位に就く前の履歴を改変するためであったと考えられる。 当時の社会体制を考えると、男大迹王は遠い越前にいたのではなく、 武烈政権内の構成員だった可能性が高い。


三嶋は、男大迹王家の本貫地だった。 それは、蘇我氏の本貫であったことをも意味する。 蘇我氏の末裔、石川朝臣年足の墓が三嶋にあったのは、 決しておかしなことでも不自然なことでもなかったのである。

ではなぜ、それが隠されねばならなかったのか。 武烈天皇は子孫を残さず崩御した。 儒教では、最大の悪徳は子孫を絶やすことである。 武烈は子孫を絶やしたため、儒教が一般化した後世になって、 悪徳の天皇として正史に描かれた。