読書中であった。
『 本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー 養老孟司 竹村公太郎 』
竹村氏の本は最近楽しく読んでいるが、この対談集での注目は著者には入っていないが、 神門善久 を加えた鼎談の章。 なにか薄々と感じていた予感を確認できそうな内容で、 次はこの人の本かなと思った。
『 日本農業への正しい絶望法 』は読んでいたようだが。
基本本邦の人口減少は避けられないけど、いいんじゃない? とは言っていないが、減ることを前提にして考えようというスタンスの人の論は読める。
以下抜き書き。
第二章 温暖化対策に金をかけるな
竹村 香川の沖積平野は特別です。 海に点々と島が存在していたところに四国山地の土砂が流れ出しました。 その土砂は島でブロックされて海の沖まで行かず、 地盤がどんどん高くなってしまったのです。 さて、これは富山平野の胸まで浸かった田植えの写真です。 この写真を見せると、 「うちの田舎もこんな感じだった」とおっしゃる方がいらっしゃいます。 つまり、私たちの稲作文明の原風景は、こういう湿地帯にあるのです。 この写真は昭和三〇年代のものですから、つい最近まではそうだった。
養老 「水の中に住むサルが人間になった」という仮説を思い出しますね……。
竹村 だから直立歩行が可能になったのではないですか……。 地上で直立歩行に移行するわけがありません。水の中なら自然に立ちますから。
湿地帯が稲作文明の原風景というのは、わからなくもないが、古代まで遡ってもそうなのか、 そこはまだ保留したい。 とはいえ弥生にも低湿地に遺跡があるのは確かかな…。
直立歩行は水の中から、というのはなるほど!ではあるが。
竹村 …… ですから、海に戻る水を確保する手法や、 この水量で農作物ができるシステムを開発しないといけません。 一方、この冬に増えた水を利用して効率的に発電することです。 さらに、いまは一億二千万人分の飲料用水を確保しなければなりませんが、 将来は人口が七千万人になると予想されます。 つまり五千万人分の水が浮きます。 それを全部水力発電エネルギーに振り替えるプランだって考えられる。 それを国民が認知して合意形成できたら、 日本文明は多様なメニューを持つことができます。 ただし、いまはそれを言っても誰も相手にしてくれません。 少子化を前提としてインフラを整備しましょうという議論は、 ある意味でタブーだからです。
第三章 少子化万歳!──小さいことが好きな日本人
竹村 …… 公共事業にはデメリットがあることもわかっている。 しかし、それは言えませんでした。 言ったら負けるからです。 しかし、「この人はデメリットがあることを認識している」 と相手に理解してもらうことは必要なのです。 責任者が公共事業のデメリットを口にしたら、国会で弾かれます。 しかし、「一〇〇%盲信しているわけではない。 公共事業にはメリットもデメリットもある。 その上でこの公共を選択していく」という無言の姿勢が信頼を生むことがある。 そういった綱渡りのようなきわどい状態での社会との対話の苦労は、 やってみて初めてわかります。 いまはすべてそれを表現していかなければならない時代になりましたが。
第五章 農業・漁業・林業 百年の計
竹村 ところで、食料自給率四〇%というのはトリックの数字です。 極端な表現を使えば八百長です。 一九八七年までは農林水産省は自給率を生産額ベースで発表していたのです。 生産額ベースで出すと当時は八〇%でした。 ところが、八八年から九四年まで生産額ベースとカロリーベースを併記するようになった。 生産額ベースで七十数%、カロリーベースでは四十数%というように。 そして九五年からは、生産額ベースが隠されカロリーベースだけになって、 その結果、みんなが 「日本の食料自給率は四〇%」と刷り込まれてしまった。 最近は生産額ベースの数値も出すようになりましたが、 論調は依然としてカロリーベースの四〇%です。
国民が自分の国の食料自給率を四〇%と聞いたら、誰でも腰から脚の力が抜けていきます。 ところが、生産額ベースで計算すると、七〇%あるのです。 生産額ベースとは、わかりやすく言えば、 私が一万円で食料品を買ったら七千円分が国産だったということです。 なぜカロリーベースの自給率を流布させたのか? これは、「農水行政は大事だ」と思わせるための操作だと思います。 農水行政の重要性を私は理解しているつもりです。 しかし、農水行政の重要性を強調したいがため、都合の悪いデータは隠し、 都合の良いデータだけを出す。 それはいけない。 それによって国民が自立していく気概を損ない、自信を失ってしまった。 「食料自給率四〇%」という国民の自立への気概を損なう宣伝は罪深いと思います。
ウナギとか牛肉とか、カロリーの高いものは外国依存率が高いし、 コンビニなどがどんどん食べ物を捨てるでしょう。 そういったことを考えると、 カロリーベースの自給率は贅沢を示す数字と思った方がいいです。 アフリカの貸しい国のカロリーベースの自給率は一〇〇%になります。
第六章 特別鼎談 日本の農業、本当の問題
神門 …… 農地の有効利用を阻んでいるのは、自然環境や農業生産技術の問題ではありません。 農業生産にはさほど関心がないのに、 漠然と将来の転用を期待して単なる資産として農地を持っている人たちが多すぎます。 こういう人たちは地域の計画的な土地利用や水管理にも非協力的です。 農作業の効率を高めるためには、 ひとかたまりのまとまった大面積を一つの農家に集約する必要があるのですが、 実際には、大規模農家の農地でさえ、なかなかひとまとまりにならず、 あっちに一枚、こっちに一枚と、モザイク状になっています。 営農意欲も営農能力もない元農家の子弟にフリーパスで農地相続を認め、 さらには耕作放棄まで認めているわけですから、 これでは地域全体の農地の有効利用の妨げになります。
具体的な技術の話では、土木出身の竹村さんの前で恐縮ですが、 日本の農地ほど優れた灌漑設備は、世界中のどこを探してもまずないはずです。 これだけ完璧に水位コントロールができる田んぼはありません。 韓国でも台湾でもまだ田んぼにナマズがいますが、 日本ではナマズが消滅するほど河川管理をやってしまったわけですね。 そういうすごい灌漑設備があります。
神門 兼業農家が日本農業の圧倒的多数派を占めるわけですが、 彼らは農外所得に依存して、総じて普通の勤労者世帯よりも裕福な生活をしています。 兼業農家は米を作りたがりますが、それは米作の機械化が進んでいて、 作るのがラクだからです。 農業生産額のうち米は三〇%を占めるのですが、 米生産農家は、農家戸数の八割ぐらいになります。
他方、主業農家は施設園芸や畜産を中心にしている場合が多いです。 日本の野菜生産額や畜産生産額の八〜九割が主業農家の生産ですが、 米生産額では主業農家ほほ三分の一を占めるにすぎません。 米作中心の主業農家も、もちろんありますが、大雑把に言って、 米はサラリーマンや高齢者が片手間で耕作する作物です。
一部の片手間農家の目的は、農業収入ではなく、農地を使った「錬金術」です。 いろいろな「錬金術」がありますが、 代表的なのは、「保護すべき農地」の指定制度を、地権者に有利なように操作することです。 普段は「保護すべき農地」の指定を受けて税金の減免とか農業補助金を享受する。 そして、ショッピング・センターなどの転用事案が持ち上がったら 「保護すべき農地」の指定を直ちに解除させて、莫大な農地売却益を得るというものです。 もっと露骨な方法は、「保護すべ農地」の指定のまま違法転用を強行して 行政には目を瞑ってもらうという手もあります。 最近は、産業廃棄物の投棄に農地を使うという「錬金術」もあります。
神門 …… アメリカでは、たとえば都市計画などに市民参加があります。 サラリーマンも出席できる夕方から夜にかけて市庁舎などに何度も何度も集まって、 多大な時間と労力をかけて土地利用計画の策定をします。 そして、計画通りに土地が利用されているかを相互監視し、 違反者には現況改善や課微金など、厳しく罰則を課します。 自分たちで苦労して作った土地利用計画ですから、遵守への意識が高まります。 自分に直接的に不利益がない場合でも違反行為を厳しく咎めるのです。 土地利用のように、公益性が高くて地元民の利害が直接対立する身近な問題には、 銘々の勝手気ままを許さず、市民自らが計画の策定と運用の義務を負うのです。
それとは対照的に、日本では、 「行政が案を出してくれ。我々はそれについて私権を振りかざして文句を言うから」 という姿勢が拭えません。 隣人の違法・脱法行為に対しても、自分に不利益がなければ無関心ですし、それどころか、 「あいつがやっていいなら俺もやろう」と、さらなる違法・脱法行為が始まります。
神門 …… 一九九〇年以降に農地の無秩序化が進んだという点は注目に値します。 欧米社会のやり方を模倣することで経済成長するというキャッチアップ型の経済成長は、 日本の場合、一九九〇年ごろにほぼ終了したという見方があり、私もその見方に賛成です。 たとえば経済指標でも教育水準でもそのころに米国の八五%くらいに到達していますから、 ほぼ追いついたと言えるでしょう。
本来は、キャッチアップが終わったこの時期にシステムを入れ替えるべきでした。 つまり、私権偏重の歪んだ民主主義ではなく、参加民主主義を導入して、 まっとうな民主主義を実現する方向へ舵を切らないといけない時期になっていたのです。 しかし、実際に何をやったかというと、従前にも増して私権の主張を強め、 参加民主主義の導入から逃避しました。 そうすると、当然諸々の矛盾が噴出するわけですが、それを誰でもいいから責任者、 つまり「悪い奴」を見つけて「悪い奴」のせいにしてしまおうということになったのです。
そして自分勝手な私権の主張の嵐が吹き荒れて、行政も収拾がつかなくなります。 そこで行政は、責任放棄に走り出します。 農水省の本音は、地権者が望むならば優良農地を耕作放棄しようが転用しようが、 なるべく認めてしまおうというものです。 真正直に優良農地の保護をしようとすれば、地権者に嫌がられますからね。 農水省は規制緩和や地方分権を巧みに曲解して、 どんどん優良農地の保護のための法規制を骨抜きにしています。 これからは、ますます非営農目的での農地保有が増えるでしょう。
神門 …… 僕の『日本の食と農』はサントリー学芸賞と日経BP・BizTech図書賞を受けており、 言論書としての望外の高評価を得ました。 その本の中で、農地利用の無秩序化も克明に告発しています。 しかし、この本が出てからの一年半の間、反論も肯定もされず、 関係者の間では僕の本は存在しなかったことになっているようです。 農水省からもJAからも新聞の政治経済記者からも学界からも、 僕へのアプローチはほとんどありません。
神門 …… 残念ですが、僕は子供のときも、そして研究者になってからも、 そういう意地汚い本性をたくさん垣間見てきました。 マスコミなどは農家が「土地への愛着」と言うと、それを鵜呑みにする傾向があります。 でも、人間が邪な動機を隠すために、美しい言葉で粉飾するのは、 よくあることではないですか。
水と土地とで何が違うのかというと、 たとえば農業に必要な河川の水は管理しないと流れていってしまう。 つまり、水は人間の努力がないと資源になりません。 努力をしないと利益を生まないものについては、あまり変なことは起きません。 イチローが野球で何億円もらっても、みんな妬まないし、 むしろイチローの自己鍛錬を賞賛します。
ところが、農地の転用収入は不労所得です。 ストックによる不労所得は人間の心を歪めます。 ある人が親の土地を相続したとか、農地転用で儲けたとかの話を聞ぐと、 「何であいつだけが」とか、 「あいつに嫁さんを紹介したのは俺なのだから、少しは分け前を回してほしい」 といった意地の汚い話になる。 土地がらみの不労所得は人を意地汚くさせる。 それが僕の仮説です。
神門 「未来の君たちのために、俺たちは一生懸命議論して土地利用で最善のものを 準備する。 この土地を使って、未来の君たちはしっかりと能力を発揮してくれ。 その分、お金は残さないよ。 俺たちが自分で稼いだ分はしっかり楽しんで死ぬからね」。 そう次の世代に告げることができれば、 将来世代にとっても今の世代にとっても幸せだと思います。
神門 先ほど述べたアメリカの市民参加は、実は差別意識の裏返しでもあって、…… なぜそういう規制ができたかといいますと、 六〇年代以前には、この地域は住民と不動産屋が申し合わせをして、 アジア人には土地を売らないとか、メキシコ人もだめだとか、そういう拘束がありました。 それが六〇年代の公民権運動で批判され、法的にも無効であることが確認された。 そこで住人たちが編み出したのが、土地利用計画です。 「この土地はこういうふうに利用しないといけません」と細かく規定しておいて、 そのルールを守っていれば誰でも土地を買っていいという形にしたわけです。 すると、実質的には白人のお金持ちしか土地を買えないわけですが、 公民権の問題は解決するわけです。 市民参加には、そういう薄汚いところがあって、 決して民度が高いとか低いといった問題だけではありません。
ですから、なぜ日本で土地利用計画が生まれなかったのか、その理由は二つ考えられます。 一つは、先ほど指摘した猿真似民主主義です。 つまり、真似しやすいほうだけ取り入れてしまったこと。 もうーつは、同質性が高かったがゆえに、 「メキシカンはお断り、日本人もお断り」といった他の連中を排除しようとする圧力が 働きにくかった点です。
日本近海で親湖や黒潮に流されてしまうと北太平洋の大海原へと漂流し、 行き場を失って死が待ち受けています。 僕はこれが意外に重要だと思うのです。 つまり、太古から日本人は、「日本を離れたら行くところがない」と認識していたと思う。 ですから、自分が好きな人間も嫌いな人間も ここに一緒にいつづけなければいけないということを、みんなが経験的に知っていた。 その結果、定住性が非常に高くなります。 米が入ってくるとさらにそうなります。 定住性が高くなって、同質性が高くなる。
神門 …… 移動の自由というのは、人間の自由の権利の中で一番大きいものではないでしょうか。 いま世界の人口の八十%は途上国です。 先進国にいる特権的な少数が一方的にルールを作って 途上国にいる多数の人たちの自由を拘束するというのは、 ベルリンの壁崩壊以前の共産囲に似た、歪なことです。 途上国の人たちにも、移動の自由を認めるべきです。
神門 おそらく僕は、ストックに由来する不労所得を嫌うということにかんして、 徹底しています。 僕は冷血な近代経済学者ですが、心情的にはマルクス主義者かもしれません。 僕は農地の「錬金術」を嫌いますが、人間が持っているストックに由来する歪みの 最たるものは国籍だと思います。 国籍は、自分の努力に依存しないで付与されたものです。 僕は電話もなく、雨漏りするようなオンボロな家に生まれたし郷土愛も強いけれど、 大学は京都へ、仕事は東京へと努力次第で自由に挑戦しました。 途上国に生まれたらそういう努力の機会もないというのはおかしい。 途上国の人たちがいまの国境を引いてくれと頼んだわけではない。 先進国が勝手に線を引いて、 「ここから先は入ってくるな」と言っているだけではないですか。
神門 …… JAでも農水省でも研究者でも、農業保護を声高に提唱している人は、 実は片手間農家の近視眼的利益に阿っているだけで、 具体的な農業問題からは逃避しています。 このような不正直な人たちが農業の利益の代弁者のような顔をしているのは不幸です。
同じことは、農業保護不要論の論者にも当てはまります。 農地保護を撤廃し転用も自由化すべしという意見もときどき聞かれますが、 それならなおさらに農地・非農地を包含した確固たる土地利用計画を準備しておかないと 無茶苦茶な状態に陥るはずです。 それなのに土地利用計画の樹立・運用には言及せずに、 単に保護不要というかけ声しか聞こえてきません。
神門 キャッチアップ途上なら、 いかに上手に真似をするかを考えていればよかったから、ある意味で単純だった。 しかし、キャッチアップが終わると いろいろなことを考えてなくてはいけなくなるわけです。 それなのに、我々の選択は、 「つらい現実を見るのはやめて、その代わりに悪者を作ろう」 ということになっています。 食の問題なら食肉業界を、教育問題なら学校をと、仕立てられた悪者を攻撃するだけで、 自分たちに瑕疵がなかったのかを省みない。
第七章 いま、もっとも必要なのは「博物学」
養老 僕は、近代というの「正しいやり方がある」と思い込んで、 そこに集中した時代だったと思います。 それが間違いだったのです。 いまは「正しい受け取り方しかない」という見方がなくなってきたような気がします。