読書中であった。
『 越境の古代史 ――倭と日本をめぐるアジアンネットワーク―― 田中史生 』
『 国際交流と、人の渡来、鉄・須恵器生産技術などの外来物品・知識が、 倭国の歴史的展開に大きな影響を与え、また越境的なつながりが、 倭王権を相対化の波にさらした。 その成果と矛盾のなかで生み出された日本律令国家においても、 外来品と外来知識は支配を支える実質的・象徴的な意味を持ち得た。 アジアのなかの交流の歴史が、列島に、ある一定の広域的な社会統合をもたらし、 またその運動を支えたのである。 』 というのが基本認識で、主にその視点からまとめられた日本列島と朝鮮半島、中国大陸との 交流史。
扱われる時代は弥生時代からだいたい十一〜十二世紀の平安時代くらいまで。
今昔物語(からの芥川龍之介)の芋粥と、大陸由来の滑石製石鍋との関連の話とか、 面白い話題も多い。
東国人としては、七世紀〜九世紀あたりの新羅と九州との関係の影響として、 東国に半島からの渡来人が移された経緯等が興味深い。
以下抜き書き。
第一章 アジア史のなかの倭国史
倭国を取り巻く国際環境は、単に東アジア諸社会の特産物と列島諸社会の特産物とが それぞれ交換されていたとか、ある国とある国が軍事的同盟関係にあったとかいう レヴェルにとどまらない。 列島外の諸社会から列島諾社会へもたらされたモノや生産技術が、 列島の生産・分業を刺激し、またそのなかで他のものと組み合わされながら 生み出されたモノが、東アジアへと環流していく。 要するに、国際政治の背後には、分断不可能なほど深くからみ合い分業を行う 国際的な経済関係があった。 倭国史も、おそらく百済史や加耶史も、そして国際関係史も、 この驚くほど国際的で越境的な生産と分業の連鎖の上に浮沈する歴史だったのである。
近年、奈良県御所市の南郷遺跡群の調査などから、この葛城地域に、五世紀代、 高度な技術を持つ渡来人が集住していたことも明らかとなってきた。 すなわち葛城の首長こそ、王権外交を積極的に支えながら、 独自に国際社会とのネットワークも築き、本拠地に渡来人らを招き入れた 五世紀屈指の大首長であった。 その彼らが新羅と結んで、大王のすすめる外交と衝突したのである。
その武王が宋朝滅亡後、唯一積極的に取り組んだ外交政策が百済支援であった。 この倭王の一途な百済支援は、義理堅いとさえ感じてしまうが、おそらくそこに ば「質」と呼ばれる人々の果たした役割が大きかったであろう。
「質」とは王の代理として相手国に滞在し、 滞在先の王や外交実務担当者に先進文物や技能者などを贈与しながら、 本国と相手国との修好・同盟関係をはかる、 かなり戦略的に動く外交官のような存在であった。 しかもこれには王の子弟が選ばれることが多く、 王と王をつなぐ重要なパイプ役として期待されていたのである。 そして対高句麗戦で戦死した百済の蓋歯王も、生前、王弟昆支(軍君)を「質」として 倭王のもとに送り込み、倭王の外交を百済側に引き留める楔をしっかりと打ち込んでいた。
ところでこの武王の時代は、列島古代の王権が中国王朝の冊封体制から自立し、 国家形成へとつながる政治組織・制度を準備した時代として、 古代史研究のなかでも特に重視されてきた。 しかしこの武王の時代を、国家形成の道を順調に歩む古代「日本」の成長物語として 捉えてしまうと、歴史実態からは大きくかけはなれてしまう。 右にみたように、武王の時代の倭はかなり混迷していた。 かつてのように中国王朝から冊封を受ける国際的条件は失われ、 幾重にも層をなし複雑に結びついた列島諸社会と国際諸社会のラインが、 相変わらず倭王権に挑戦し、変革を求め続けていた。 『書紀』が雄略大王を独断専行型で他人を信用せず、 殺戮を繰り返す「大悪天皇」と評したのも、右のような複雑な状況を切り抜けるため、 かなり強引な政権運営と政治改革を行った武王権の、残像・記憶なのだろう。 だから武王の時代にいくら政治改革がすすんだといっても、 その後の優王権に"安定成長"など約束されるはずもない。
磐井の乱の経緯からみて、継体王権の外交を支えてきた筑紫勢力の"裏切り"に、 『書紀』のいうように新羅の関与があった可能性は十分考えられる。 筑紫勢力が四七五年以降の百済復興に協力的であったことはすでにみたが、 この頃の百済と新羅の関係は友好的で、五世紀末には婚姻同盟まで成立していたから、 百済と親密な筑紫勢力が百済を介して新羅とも関係を持つことはありえることなのである。 しかも六世紀前半、百済も大加耶とは対立関係にあった。 こうした国際関係のなかでみるならば、新羅と大加耶の対立において、 磐井が新羅の側につくことは全く不自然ではない。
しかし磐井は、倭王と臣従関係を結んだ、れっきとした有力倭臣である。 『書紀』は、磐井が近江毛野臣とともに継体の宮に仕えていたようにも記している。 その磐井は、生前、巨大な前方後円墳を築造していた。 福岡県八女市の岩戸山古墳である。 にもかかわらず、磐井の国際社会を見る目は、五世紀の葛城や吉備の首長同様、 倭王の外交とは全く異なるとこるに置かれていた。 だから私たちは、前方後円墳で結ばれた一見"画一的"な社会を、 倭王による支配の論理によって倭国の境界に囲い込まれた、 統制された社会だと想像してはならない。 列島各地の首長層にとって、自らの共同体の存亡とかかわり選択すべき対外関係は、 列島を含む東アジア全域に広がっていた。 倭臣と呼びうる首長でさえ、 百済・新羅・加耶と倭王との関係をいつでも天秤にかけたのである。
第二章 渡来の身体と技能・文化
陶邑の須恵器窯といえば、五世紀の早い時期に加耶南部の工人を迎えて開窯された とされる著名な王権の工房だが、陶邑の須恵器窯が各地に影響力を強める直前、 窯の持つ国際ネットワークにも変化があったようだ。 陶邑の須恵器生産に、五世紀中葉前後からは百済と関係を持つ 朝鮮半島南西部栄山江流域の工人が加わったというのである。
第三章 血と知のアジアンネットワーク
また、加耶南部で生きる混血児たちは、倭人親族との関係を維持しながらも、 基本的には加耶南部社会の動向に規定された存在であった。 先の継体紀の記事は、加耶にあって吉備氏の父、加耶人の母を持つ 吉備韓子那多利・斯布利らが、倭王の派遣した将軍近江毛野臣と対立し、 毛野臣に殺害されたとも記している。 前述のように吉備氏といえば、古くから加耶南部と友好関係を持ち、 五世紀には加耶南部と新羅の関係にひぎずられて新羅へ接近し、 大王と対立したことがあった。 要するに六世紀に加耶南部で繰り広げられたこうした国際結婚は、 五世紀以前の列島諸地域と加耶南部諸地域との 交流を引き継いだ一面を持っていたのである。
『書記』欽明二年(五四一)七月条によると、安羅「諸倭臣」の新羅接近を警戒する百済は、 この問題を話し合うため、安羅国と倭国へ使者を派遣している。 そのー行に、「奈率」という百済上層位階を帯びる紀臣彌麻沙がいた。 しかも当条は彌麻沙について、父は紀氏、母は韓人で、朝鮮半島で生まれた後、 そこで百済国に任用され、奈率の地位に至った人物と注記する。 百済は、同盟関係のなかで長期滞在することになった倭人の首長と韓人の女性との間に できた子らを、百済官人として取り込み、その身体に刻まれた倭─韓ネットワークを、 加耶情勢をめぐる対倭交渉に活用していたのである。
しかし、この矛盾は決して加耶諸国だけの問題ではない。 倭でも首長層は独自の国際ネットワークを持っていたし、 倭王も同盟関係と引き替えに百済などと国際結婚を行っていた。 ところがその矛盾を加耶にみた倭王権は、世襲王権と群臣による合議体制を整える。 すなわち六世紀、倭王は国際結婚をやめた。 子に父母の両属の原理が働くなか、王の国際結婚が呼び込む複雑な国際関係から、 王と王子を遠ざけたのである。
しかしこの一見不可解な記事も、創建当時の飛鳥寺が果たした機能からとらえるならば、 その背景がみえてくる。 それは、渡来の僧侶・工人を集めて創建された馬子発願の飛鳥寺が、仏教のみならず、 仏教ともかかわる幅広い専門知識・技能を教育する場として機能したということである。 そこで採用された知識・技能伝習方式の歴史的画期性は後でみるとして、 とにかくその恩恵を受ける対象は、 蘇我氏の子弟や蘇我系の血を引く王子といった蘇我氏の範囲にとどまらず、 倭の支配層へと広く及んでいた。 渡来の僧・工人らを介して国際的な知的ネットワークにアクセスできる飛鳥寺は、 倭王権の国際教育・文化センターだったのである。 倭の支配層もそれを知り期待したからこそ、 飛鳥寺創建とかかわる儀礼での馬子の演出に対し「観る者悉く悦ぶ」となったであろう。
だから飛島寺では、上記の百済ネットワークを反映し、 百済の戦略的意図を背負う百済僧らが活躍した。 例えば飛鳥寺に住したと目された百済僧観は、暦や天文だけでなく、 遁甲や方術といった占いの技能を有していたが、 それらはいずれも軍事的に有用な技能であった。 彼の渡来と活躍には、倭に軍事的連携を促す百済側の強いメッセージが 込められていたのである。
十二世紀の高麗時代の史料『三国史記』は、百済仏教が、四世紀後半、 朝責した中国晋朝から西域の僧を迎えて始まったと伝える。 この年紀は疑う余地があるにしても、百済は中国を介して早くから西城仏教と関係を持ち、 それが六世紀末まで引き継がれて、倭へ流れ込んだ可能性がある。
しかも、飛鳥寺に組み込まれた政治的な国際関係にも、 倭─百済関係に限定されない国際性が見え隠れする。 この飛鳥寺に高句麗も強い関心を示していたのである。
『元興寺縁起』が引く「丈六光銘」によると、恵慈は百済僧恵聡、 蘇我馬子の息子善徳とともに、「領」として元興寺(飛鳥寺)を建てた。 この「丈六光銘」もどの程度信用できる史料かやや心許ないが、 飛鳥寺は木塔があれだけ百済の影響下にありながら、 その伽藍は、中心の塔を三金堂が取り囲む 高句麗の寺院に典型的な様式であることが知られている。 五八八年に百済の支援を受けて始まった飛鳥寺造営に、 途中から高句話の影響が加わった可能性は高い。 だから五九五年に渡来した恵慈が、直後から百済僧とともに飛鳥寺造営に関与し、 その落成後は飛島寺を住寺としながら、 残された伽藍の整備にかかわったことも推測されるのである。
そしてこの頃倭国でも、緊迫した東アジア情勢に刺激され、 蘇残蝦夷・入鹿父子が権力集中を試みる。 しかしそれは、倭の政界に衝撃を与えた高句麗の大臣によるクーデターを 連想させるものであった。 そして六四五年、この蝦夷らの動きを警戒した中臣鎌足・中大兄王子らが、 蝦夷・入鹿父子を殺害する。これが乙巳の変である。
当時は、前述のように倭王とマエツキミによる合議制が機能し、 支配層の意志統一がはかられていた。 しかし、合識に参加するマエツキミのもとには、朝鮮諸王権から様々な贈与攻勢があり、 いまだ外部王権と個別の関係は保たれていた。 倭の外交は、相変わらずその複線的なネットワークを必要としていたのである。 しかし、国際関係がますます複雑化するなかにあって、 王権にはそのネットワークを把握する必要も生じていた。 そこで王権は、朝鮮諸国から外交使節が来着した場合の手続きを 大きくあらためることにした。
すなわち、大阪湾に百済や高句麗から外交使節船が到着すると、 倭王はマエツキミたちを難波津に派遣し、皆で大王への贈与物、 マエツキミたちへの贈与物を確認させ、それを大王に報告させたのである。 支配層と他王権との贈与関係に関する情報を、 大王のもと支配層全体で確認しようという試みである。 これは、情報公開によってモラルハザードを防止しようという 最近の動きに似ているといえなくもない。 ・
ただし、これが倭─新羅間で機能した可能性は低い。 『書紀』推古三一年(六二三)十一月条は、 新羅の贈与物が大臣馬子に近い境部臣と安曇連に密かに渡ったことで、 倭国の対新羅政策の足並みがまたも乱れたことを伝えている。 緊迫した国際情勢を受け、当時の倭国内には、 新羅との修好を模索しようとする一派も発言カを増しつつあったが、 それでもなかなか新羅の側に付こうとしない倭王権との外交に、 新羅がこうした贈答形式を同意するはずがない。 外交上の贈答は両者同意の上で展開するのだから、対外関係の管理は、 一国の政治のなかで対応できる性格のものではないのである。
確かに新羅には、本国に唐との交流を進言する恵日らを支援したい理由があった。 対唐関係の強化を軸に高句麗・百済を牽制しようとする新羅にとって、 倭が唐へ接近することは歓迎すべきことだったからである。 そしてその思惑どおり、この数年後、倭は新羅に導かれながら、 恵日をその副使とした最初の遣唐使の往還を実現させた。 この時、倭の対中外交は、百済経由から新羅経由へ切り替わったのである。
すなわち、百済・高句鹿の仏教受容は、中国王朝が両王権に仏教を「下賜」するという、 いわば王権の対中外交の成果として始まったものである。 しかし新羅の場合、仏教は高句麗などを介し波状的に伝わり、 これを新羅有力層個々がそれぞれ受容するという状況から始まった。 これが、新羅支配層の間に崇仏をめぐる対立をも引き起こしている。 この新羅の混乱が収まるのは六世紀半ばであった。 この時、王権として仏教受容を決意した新羅王は、 興輸寺の造営と梁への学問僧派遣を行い、 その学問僧が梁使を連れ仏舎利をもたらし帰国するのを、 興輪寺前で支配層に出迎えさせている。 以後、新羅の仏教受容は遣中学問僧の派遣を基軸に展開することとなる。
以後、在唐学問僧の新羅経由での帰国は続き、 また六四八年には新羅への学問僧派遣も行われるように、 倭の仏教界は、彼ら遣隋学問僧らによって中国で切り開かれた 新羅仏教界とのつながりを維持し続けたことが知られる。 しかも、日本律令国家の形成につながる七世紀後半の倭(日本)の政治・文化に 新羅仏教文化の影響が随所に確認される事実をみるならば、 この時築かれた新羅ネットワークは、 以後の歴史にも大きな影響を与えたと理解せねばならないであろるう。
第四章 天皇制と中華思想
六五九年、唐・新羅と百済・高句麗両陣営の軍事衝突が激化するなか、 倭は生き残る道を探るべく遣唐使を派遣する。 この遣唐使はこれまでのように新羅の支援を得られなかったから、 色々と難しい航海を強いられた。 遺唐使船は新羅関係の悪化から航路の安定した朝鮮半島西側を航行できず、 百済南方の島から一気に中国大陸を目ざし、なんとか中国江南地域へ漂着した。 しかもその一行は唐側に、間もなく「海東の政」が行われるとの理由で抑留されてしまう。 それは唐・新羅連合軍による百済総攻撃を指していた。 唐も倭を明確に百済寄りとみなしていたのである。
この危機が一つの契機となって、王権は大きな構造変革の時代を迎えることとなる。 中国に由来する中華思想と律令法を柱に、 王を中心とした中華的・中央集権的な国家を樹立し、 国内講勢力に対する王権の優位性を回復させようとしたのである。 こうして王朝名「日本」、王号「天皇」を採用した新生"中華王朝"が誕生した。
その天皇中心の中央集権的な国家体制は、 律令法を用いて整備した官僚制的行政組織と公文書制度により支えられた。 また、国家の直接支配を受ける人々は、戸籍・計帳などの籍帳類に登録され、 日本天皇への恒久的・一元的帰属が求められた。 さらに、この天皇制国家は対外関係を独占し、公的な使節以外の海外渡航を許さず、 国家の把握しない国際交流は湊禁とした。 要するに、倭王権を絶えず相対化した国際的な地域間交流や、 人々の複数王権との結びつきを完全に否定し、 前代までの東アジアに広がる多元的な諸関係を、 日本天皇制の枠の中に押し込めようとしたのである。
ただ、この天皇制の国家は、 中国由来の中華思想・律令法の影響を強く受けたものであったにもかかわらず、 その国家体制を本格的に準備する七世紀後半、唐との間の交流ラインが極めて細い。 要するに、唐制の影響が濃厚な日本律令国家は、 唐の直接的な支援のないままその動きを開始したらしいのである。
そのなかで注目すべきは、 白村江以後日本(倭)へ逃れて「帰化人」となった亡命百済人たちの役割である。
まず、白村江後の軍事的脅威に対しては、 亡命百済官人らの持つ専門知識が存分に発揮された。 博多湾から筑紫平野へ侵攻する敵を巨大な堀と堤防で防ぐ水城の建設、 西日本の要衝に置かれ、堅牢な土塁・石塁で山谷を囲う朝鮮式山城などは、 いずれも百済の防衛施設を参考とした亡命百済人らの設計による。 加えて、軍事訓練も彼らの協力で行われた。
一方、その他一般の亡命百済人、 あるいは当時の朝鮮半島の混乱を選けて渡来する高句麗人、新羅人らの多くは、 白村江後、東国へ移配される例が目立っている。 その目的について、来開の地たる東国の開発のための措置と説明されることが多いが、 これを証明する明確な根拠があるわけではない。 東国に移配された人々のなかには、僧侶や瓦工人など、 東国の発展に寄与した人々があったことは事実である。 しかしそれらは開発に奇与したというより、官衙や寺院の創建、 すなわち天皇制国家の威容と思想の拡大に寄与したというべきだろう。
そして間もなく、この新生日本王権の支援者に、敵国だったはずの新羅も加わってくる。 というのは、新躍は高句麗減亡の前後から、 旧百済領の取り扱いや高句麗遺民反乱をめぐり唐との間に不和を生じさせ、 六七〇年代、その対立が決定的となっていたのである。 これにより、唐・新羅はいずれも倭を自派に引き込もうとし、 倭は偶然にも磨・新羅共通の敵としての位置を免れることができた。 そして日本律令国家の創建を目指す王権は、迷いながらも、 最終的に新羅をそのパートナーに選ぶのであった。 こうして日本王権は、律令的な諸制度を、 唐化政策を成功させた新羅からも学ぶことになったのである。
この日本律令が定める官司先買の原則は、主に外交使節の動きに留意し整備されていた。 それは、諸国王からの交易要求以外の交易を原則認めなかった唐制に似ている。 ただし律令制定時の日本には、もともと唐のような私的な国際商人の流入がまずない。 だから国際交易といえば外交使節によるものであって、 当時の日本で国際商人への対応はほとんど意識されていなかったはずである。 しかも、こうした官司先買に主軸を置く日本の管理交易体制は、 国内優品の国外流出防止を主眼とする唐制と、そのスタンスが異なる。 それは、自らの持つ高度な文明を広く国際社会に見せつけて 国際的権威を得てきた中国の王権と、外来文明を身にまとい、 渡来系文物を国内諸勢力に分配することで国内的権威を得てきた周縁の王権 との違いでもあった。 すなわち日本律令の国際交易管理体制は、 渡来文物の集約と分配が権力の源泉となりうる列島社会にあって、 王権がその流入を掌握できなかった倭国時代の反省をふまえて 新たに構築された体制だったのである。
これはどうかな?
第五章 国際商人の時代へ
前述のように倭において銀は、王権の管理・規制を受けず多様な契機で流入し、 国内で比較的自由に流通していたから、それが、銀の貨幣的流通、 さらには銀銭登場を導く一つの条件となったと思われる。 ただし、価値の相違を除けば、金銀両地金の流通に大きな差異がみえないように、 もともと素材として流通した銀は、 倭では貨幣的に流通しうるいくつかのモノの一つに過ぎない。 しかも朝鮮半島ではまだ銭貨が登場せず、中国でも銭貨の素材は銅が主流であった。 にもかかわらず倭国が銀で銭貨を作り始めるためには、 何か特別なインパクトがあったはずである。 そして私はそこに、タイ・インド地域からの渡来人の影響を疑っている。
右のことから、北部九州では銀が地域限定で貨幣的に流通していたようにみえるのだが、 そう解釈すると、いくつか説明できない問題が残ってしまう。 一般に銀地金の貨幣的機能は、高価な財を売買できる限られた階層を一定量含み込んだ、 比較的広い流通園で共有され維持されているものである。 しかも対馬銀の生産・流通は中央への貢納を目的に その生産・流通が官の強い影響下に置かれたから、 対馬銀が九州に限定的な銀流通をもたらすとも考えがたい。 いくら当地が対馬に近くとも、北部九州内の少数の支配者層だけが 銀を価値基準として用いる社会的条件は見あたらないのである。
こうした点から、北部九州では国家の管理を受ける「蕃客」との交易とは 別の国際交易があったことが疑われる。 そしてこの観点からは、『続紀』天平宝字三年(七五九)九月丁卯条が掲載する、 大宰府に対する天皇の勅が注目されることになろう。 その勅の内容は、近年、新羅本国の租税・労役から逃れるために日本に来航し 「帰化」を申請する新羅人が多いとしながら、大宰府は彼らに再三質問して、 帰国を願う者があれば食料を支給し帰国させせよというものである。 その結果、翌年四月だけでも、帰国を希望しなかったとみられる新羅人一三一人が 武蔵国に移配されている(『続紀』)。 帰国者も含めれば、相当数の新羅人が「帰化」を称して九州に留住していたことになろう。
そして実はこの天平宝字の時代、日本はいわゆる藤原仲麻呂政権下で、 新羅への侵攻を計画していた。 仲麻呂は七五八年(天平宝字ニ)二月、遣渤海使に任じられた小野田守を 私宅へ呼んで、送別の宴を開いている(『万葉集』)。 田守は、前述の新羅使金秦廉一行来日の翌年、遣新羅使として新羅を訪れ、 新羅から傲慢・無礼と追い返された人物であった。 仲麻呂は、その田守を渤海へ派遣し、 新羅をにらんだ日・渤同盟を結ほうとしていたのである。 その田守が渤海にある最中、七四人の新羅人が武蔵国に移され、新羅郡が建郡された。 さらに翌年六月、中央政府は新羅攻撃のための「行軍式」の作成を大宰府に命じ、 新羅「征討」計画は国家方針として正式に位置づけられる。 流入新羅人への勅が発せられたのはそのニヶ月半後であった。 さらにこの勅の一五日後、 中央政府は新羅「征討」用の船五百艘の造船を全国に命じている(『続紀』)。
では新羅人の交易活動に関与したとみられる信恵は、七七四年の法令にもかかわらず、 なぜ八年もの間筑前に滞在できたのであるうか。 それは、彼が日本を離れた理由を探ることで明らかとなる。 実は、信恵が離日した八二四年の八月、日本では 「帰化」と称して大宰府管内に居留し続ける新羅人を警戒し、 彼らを陸奥へ移配する措置が講じられた(『日本三代実録』貞観一二年二月二〇日条)。 どうやら信恵は、この措置をきらって離日を決意したようなのである。 つまり彼は、渡来の理由を「帰化」とすることで、 「流来」に区分され放還されることから逃れ、九州での長期滞在を実現させていたのである。
しかも信恵が渡来時に「帰化」を主張すれば、もう一つのメリットがあった。 信恵が円仁に筑前国司の特別な保護を受けたと語っているように、 官の保護を受けられたのである。 前述のように日本律令は、移配され戸籍に編入される前の来着「帰化人」に対し、 所在の国郡が責任をもって保護するよう定めている。 その規定を建前に、「帰化」を称する新羅交易民と北部九州官人との 個別的な接近がはかられていた可能性が高い。
そして実際、六国史などによれば、信恵来日期の新羅人「帰化」は頻繁であった。 ところが八二四年、「帰化」の新羅人を陸奥へ移配する方針が打ち出されると、 新羅人の「帰化」は途絶え、信恵も離日する。 陸興に移配される彼らには、中華天皇の威徳を示すため、 律令にしたがい様々な優遇措置が準備されていた。 にもかかわらずこれを避けようとした新羅の「帰化人」は、 本国での生活に困窮し日本での生活を決意した亡命者などではありえない。 そこには、北部九州の拠点化を目論む交易関係者が多数含まれていたはずなのである。
ところが、八二〇年代末、この交易世界に新たな局面が加わった。 赤山法華院を創建した張保皐が、ハ二〇年代末、新羅王権よりその実力を認められ、 清海鎮大使に任命されたのである。 清海鎮は、かつて前方後円墳が営まれた栄山江流域にも近い、 朝鮮半島西南端の莞島に置かれた。 それはまさしく、山東半島から新羅西側を通り博多湾へ至る海路の中間に位置し、 日唐羅交易圏の地理的中心にあたる場所である。 彼とその勢力は、新羅王権から公式に当海域の秩序維持活動を委任され、 黄海海域での影響力をますます強めることとなった。 この清海鎮大使張保皐の登場によって、 国際交易者たちの活動に一定の組織化と秩序がもたらされることになったのである。
そしてこのことが、国際商人の対応に頭を悩ませてきた日本王権への追い風となった。 個別分散的で把握し難かった新羅の交易者たちも、 張保皐を介せば管理が可能な段階まで組織化されていたし、 何よりも新羅王権が保皐とその組織を公的に位置づけたことで、 彼らの存在を認める国際的条件も整いつつあったからである。 こうして保皐が清海鎮大使に任じられた直後の八三一年、 日本も「蕃客」との間で想定されてきた官司先買を軸とする交易管理体制を 国際商人にも適用するという大きな決断を下し、 この張保皐勢力を取り込むことにしたのである。
そしてここは、新羅人たちの国際色豊かな活動とは裏腹に、 "新羅"を強く意識させる仕掛けも備えていた。 一一月から翌一月まで続く法華経の講話は、新羅風の色彩が強く、 そこに集う僧俗・老若男女はいずれも新羅人であった。 また夏は、八月一五日から昼夜の三日間、新羅の対渤海(高句麗)戦への勝利と中秋節とを 結びつけた新羅独特の祝いの行事が、飲食・歌舞を交えて行われた。 寺の老僧は、円仁に対しその歴史的背景を説明した後、 「この山院も郷国を追暮し、祝いの行事を催すのだ」と語ったという。 ここに集う新羅人の多くは、新羅の混乱を逃れた人々であったにもかかわらず、 この寺院を介し、"故国新羅"が絶えず意識されていたのである。 彼らがいくら唐人や日本人をも含み込む国際色豊かなネットワークを築いたとしても、 彼らの結束に"故国新羅"が重要なキーワードとなっていたことは間違いあるまい。
第六章 国際交易の拡大と社会変動
右の問題と関連し、糸島半島を挟み博多湾の西側に位置する唐津湾沿岸に、 九世紀中頃から一〇世紀中頃に属する興味深い遺跡がある。 唐津市の鏡山南麓に位置する鶏ノ尾遺跡である。 この遺跡からは、製炭・鍛冶行為とかかわり一括破棄されたとみられる遣物とともに、 江南越州産の質の良い青磁など、多くの貿易陶磁が出土した。 また、九州では希なものに属し、中央の王・貴族層とのかかわりも示唆される、 国産緑釉陶器なども完形に近いかたちで数点出土している。
『報告書』はこれらについて、製鉄行為に付随した祭祀行為の痕跡とする理解と、 饗宴用の土器が多く出土することから、饗宴の際に使用した器の一括あるいは数回に渡る 破棄の痕跡とする理解の二つの解釈を示しつつ、後者の可能性が高いと指摘する。
第七章 列島の南から
そして最近、この琉球列島と大宰府との交流を考古学的に裏付ける遺跡群が確認された。 城久遺跡群である。 その遺跡群は、奄美大島東方に浮かぶ喜界島にある。 この隆起サンゴ礁の島の遺跡からは、多くの大宰府系土器だけでなく、 大量の貿易陶磁なども出土し、 ここが大宰府とかかわりを持ち国際交易の渦中にあったことを教えてくれる。
遺跡群は、おおまかにいって、二時期に分けられそうである。 Ⅰ期は大宰府の圧倒的な影響下に遺跡が展開した九〜一〇世紀、 Ⅱ期は外来遣物が増加し遺跡が発展期を迎える一一世紀後半〜一二世紀前半である。
ただ、この南九州を介した大宰府と奄美諸島の緊密な結びつきは、 一〇世紀末になって一旦破綻する。 一〇世紀末から十一世紀前半、九州は中央政府が「南蛮賊」と呼ぶ奄美嶋人らの 組織的な乱入を受けるようになったからである。 特に九九七年の奄美嶋人乱入事件はすさまじく、彼らは南九州を襲うと、 そのまま九州西海岸沿いでも略奪を繰り返し、ついには玄界灘へと回り込んで、 壱岐・対馬をも標的としたほどであった。 奄美から対馬までの海域を自在に動き、大宰府側の反撃を跳ねる返しつつ、 数百人を略奪した彼らの交通知識・軍事力・組織力には驚かされる。 そこには、この海域を熟知する奄美諸島外の交易者たちが、 これに協力・関与していた節がある。 このため、その賊徒の内実を知る九州では、同様の海賊たちに悩まされていた高麗が、 その討減に動くだろうと噂した。
その素材と形状からどうしても石焼きビビンバの器を連想してしまう滑石製石鍋は、 後世、壺焼き料理や山芋の芋粥などを作る、 主に饗宴用の調理具として用いられていたことが知られる。 ただ、城久遣跡群から出土する石鍋は、 北部九州の特に博多・大宰府地域で集中的に出土する初期のタイプで、 博多に居留した宋商人との関連が指摘されるものである。 また、平安期の苦行藤原実資の日記『小右記』には、 一〇七二年、肥前国守が唐物とともに「温石鍋」を進上してきたと記されていて、 これが滑石製石鍋を指すと考えられることから、 滑石製石鍋は対外交易品などとともに移動するモノであったとみられている。
そこで中国での用例を文仙に探すと、元代の山東の地方志『斉乗』巻一に、 莱州の福禄山に「温石」が取れ、これを「器」とすることが記されている。 また中国の医方書によれば、「石鍋」「銀石鍋」などを用い、 山芋などを素材とした薬膳粥があったことが知られ、中国の正史『宋史』巻二八ニには、 一一世紀の初め、宋皇帝自ら、山芋粥を病床の寵臣に与えたこともみえている。 そういえば、平安末期の『今昔物語』の著名な「芋粥」では、 芋弱が摂関家や地方有力者の館における重更な饗宴の場で登場するが、 肥前から摂関家に「温石鍋」が贈られている事実も考え合わせると、 これも当時としては珍しい石鍋を用い、 中国伝来のレシピで作られるものであったのかもしれない。 また、石鍋の材が長崎の西彼杵半島産から採取された点についても、 九世紀後半、唐商が肥前の値嘉島(長崎県五島列島)に停泊し、 「香薬」「奇石」を採取していたことが参考となろ(『日本三代実録』)。 宋商が長崎で「温石」採取にかかわることは、ありえる話である。
ここで、一三世紀の『漂到流球国記』を参照すると、 琉球列島には、外来者に対し芋粥をふるまう風習があったらしい。 だから琉球列島の人々にとっては、宋商が異文化交流の場で用いる石鍋を、 自らの社会と結びつけて解釈することはそれほど難しいことではなかったはずなのである。 ただしそのことは、まず彼らが宋商らの石鍋料理を実際に見なければ起こらない。 だから宋商と彼らの間には、石鍋を挟んで饗宴の交流があったとみなければならない。 城久遺跡群は、そうした場所とするに最もふさわしい要素をそなえている。
右のことから私は、交易拠点たる喜界島に、宋や高麗、日本、琉球列島の人々が集い、 饗宴を介した異文化交流があったと考えている。 琉球列島の人々が、石鍋の破片、もしくはそれを混ぜ込んだ模倣土器で連想したのは、 宴で結びつく交易世界だったのだろう。
そしてその目で他の考古遣物もみるならば、 石鍋の分布と重なり奄美諸島を中心に琉球列島全域で出土し、 高麗の技術的影響も受けたとされるカムィヤキにも、石鍋と似た側面が指摘できそうである。
徳之島で生産されたカムィヤキは、黒っぽい青灰色をした、 まさに須恵器に似た無釉の焼き締め土器である。 その器種や大きさにはバリエーションがあり、 貯蔵具・運搬具・食器など多様な用いられ方があったとみられている。 また、カムィヤキ壺は墳墓に訓葬されるなど、 当地独特の葬送とのかかわりも持っている。 ただ、これが質易陶磁の出土と重なることなどから、 背後に有力層が存在していたことは間違いなさそうである。
それは、列島中央部の歴史的展開とよく似ている。 国際交流と、人の渡来、鉄・須恵器生産技術などの外来物品・知識が、 倭国の歴史的展開に大きな影響を与え、また越境的なつながりが、 倭王権を相対化の波にさらした。 その成果と矛盾のなかで生み出された日本律令国家においても、 外来品と外来知識は支配を支える実質的・象徴的な意味を持ち得た。 アジアのなかの交流の歴史が、列島に、ある一定の広域的な社会統合をもたらし、 またその運動を支えたのである。 それは奄美・沖縄諸島においても同様であったといえそうだし、 逆に奄美・沖縄諸島史から、そのことの歴史的な意味の重さをあらためて痛感させられる。
もう一つの示唆は、列島北方史と比較することによって与えられる。 実は北の青森県でも九世紀後半、五所川原に在地産の須恵器窯が出現し、 続く一〇世紀後半から一二世紀は、だいたい秋田市と盛岡市をつなぐ北緯四〇度以北で、 環壕などをそなえた防御性集落が出現する。 こうした遺跡はいずれも北方交易の拠点とみられる地にあって、鉄器などのほかに、 木簡など、中央国家との結びつきを示す遣物も出土している。 ここに、列島中央部と結びついた北方交易の活発化と、 それらが北方社会にもたらした変革と軋轢の歴史をみる研究者は多い。 しかしそれは、北方社会の問題だけにとどまるまい。 その変革が、須恵器や鉄器をともないながら、 先にみた南の変革とほぼ同時期に起こったことは、 決して偶然ではないと思われるからである。
一一世紀成立の『新猿楽記』には、国際交易に提供された日本の様々な特産品が登場するが、 そこには糸・綿などの馴染みの品に加え、 奄美諸島や沖縄諾島で産出するヤコウガイやトカラ列島産とみられる硫黄、 さらには北方でとれる金・琥珀・鷲羽などが名を連ねる。 ヤコウガイ・硫黄、金・琥珀・鷲羽も他の交易品同様、 おそらくは中央の王・貴族層などの手も借りながら大宰府まで到達し、 国際交易に資されたものであろるう。 南と北の同時的な歴史的変華は、近畿に中心を置く平安「日本」の国際社会につらなる 広域的な交易活動を契機とした可能性が高いのである。 広域的なットワークが、列島周緑部に同時連鎖的に、 似通った地域運動を引き起こした可能性である。
奄美・沖縄諸島が、中国大陸と直接つながる地理的条件を持ち、沖縄本島を中心に、 この地理的条件に対応したダイナミックな歴史を持つことはよく知られている。 首里城に代表されるグスクと呼ばれた首長の拠点は、 少なくとも一三世紀には琉球列島各所に登場し、一四世紀になると、 沖縄本島の三山と呼ばれる三つの政治勢力が、 成立したばかりの中国明王朝と朝貢関係を結ぶにいたる。 さらに一五世紀になると、三山分立をまとめた琉球国が、中国の冊封を受け、 その船が中国・東南アジアで目覚ましい活躍をみせるようになる。
しかし、この構造をその前史となる一二世紀以前に遡らせることはできない。 前述の銀銭文化を伝えたとみられる七世紀のタイ・インドの渡来人は、 中国南部から琉球列島を経由し九州にたどりついたし、 著名な鑑真も、これと重なるルートで日本へ渡ろうと試みたことがある。 琉球列島を伝えば中国大陸と日本列島を行き来できることは、早くから知られていた。 にもかかわらず、このルートは、少なくとも一二世紀まで、 積極的に利用されることがなかった。 日中を往来する船にとって、琉球列島は長く、恐怖と危険がつきまとう地であった。 そこに漂着しても、身の安全は保証されなかったのである。 実際『漂到流球国記』によれば、一三世紀半ばでさえ、琉球列島に漂着した中国商船は、 地元の人々から散発的な攻撃を受け、船員たちはパニックに陥った。 それは、島嶼や浦を単位に複数の世界が混在する琉球列島に、 突然の来訪者たちの安全を保証する明確なシステムが欠乏していたからである。 こうしたシステムは、一般に、政治が提供するものなのだが、 その社会的条件が、琉球列島の社会内部にしばらく整わなかったのである。
ところがそこにおいて、奄美諸島以北だけは状況が違っている。 喜界島に代表されるように、国際的な"交易港"が存在しえたのである。 それは、「日本」から持ち込まれたものであった。 列島中央部の古代王権は、 七世紀・八世紀、大宰府を介してこの地域との間に朝貢関係を築こうとした。 さらに朝貢関係が途絶した後も、奄美諸島、なかでも喜界島を政治的影響下に置き、 交易関係の安定化をはかろうとした。 一方、こうした政治的なアプローチが「中国」側からなされた形跡はほとんどない。 『隋書』に隋が「流求」を攻めたとあるのも、おそらくは台湾のことだるう。 一二世紀までの琉球列島において、国際的な"交易港"の条件は、 北方の「日本」から政治的にもたらされたのである。 その意味でも、近年の考古学が、 沖縄本島を中心に国際社会を股にかけた"琉球国の歴史"のイメージを覆し、 「日本」と地理的に近い、 北の奄美諸島を軸に活発に動く一二世紀以前の奄美・沖縄諸島史をとらえたのは、 大変興味深いことである。 琉球列島の歴史においても、異文化間の円滑な交流・交易に、 政治的な管理が極めて重要な意味・役割を持ったことは、もはや疑いようがない。