読書中であった。
YouTube動画の 【國分功一郎が語る】意志というフィクション を見て興味を惹かれて読んだ。
動画からわかるのは、 文法の能動態、受動態というのができる前は中動態というのしかなくて、 そこから能動態、受動態が存在する世界になったときに意志とか責任とかが、 いわば創造されたという話であり、 著者自身が意識しているかどうかよくわからないが、 これは、かつて柄谷行人が『マクベス論』や『日本近代文学の起源』、 あるいはその漱石論等で取り上げた意思の問題に繋がりそうだということだった。
ただ、動画での語りからは、嘗ては「重い」問題として取り上げられていたのが、なんか軽いというか、 うーん、うまく言えないのだが、少し扱われ方が変わってるようにも感じて、戸惑いを覚えたが、 それも読んでみればまた考えることもあるかというところ。
「責任」という概念が「意思」の存在を必然的に要請するような捉えられ方をしており、 しかし、実はこのような把握は責任の概念をむしろ捩じまげているのではないか、 というのが、著者の問題意識とみた。
意思。
どうしてあんなことをしでかしてしまったんだろう?という問いを いつまでも身体の内から取り除けないような頭脳は、 最終的には「意思」の問題に辿り着く。
その意思は、はっきりしない影の薄い「意思」だが、一方で、 そうしたいからそうしたのだ、とはっきり述べて揺らがない「意思」もある。
だが実はその「意思」の影は忘却によって綺麗に拭いさられている。 後悔しない意思は意思が先にあるのではなく、後悔しないというふるまいが先で、 その結果が「意思」としてあらわれる。
國分はそれについてハイデッガーをひきつつこのように書く。
人は意志するとき、ただ未来だけを眺め、過去を忘れようとし、回想を放棄する。 繰り返すが、意志は絶対的始まりであろうとするからである。 そして、回想を放棄することは、思考を放棄することに他ならない。 なぜならば、人はそれまでに自分が受け取ってきたさまざまな情報にアクセスすることなしに ものを考えることはできないからである。
つまりハイデッガーはこう言っているのだ、意志することは考えまいとすることである、と。
…………
それだけではない。 『思惟とは何の謂いか』はさらに次のようにすら述べる。
意志することはただ未来のみを志向する。 だが、一切の「在った〔es war〕」こと、すなわち過ぎ去った過去をどうにもできない。 したがって、「「在った」はすべての意欲にとって躓きの石となる。 それは、意志がもはや転がしえない当の石である。 こうして「在った」は、あらゆる意欲の悲哀の種となり、歯軋りの種となる」。
一言で言えば、意志は過ぎ去ったこと、あるいは歴史に対して「敵意Widerwille」を抱くことになる。 しかし敵意を抱くことは不快なことであって、結局「意志は自己自身に苦悩する」ことになる。
ハイデッガーはこのような意志そのものに巣くう「敵意」こそ、 ニーチェの言う「復讐Rache」の本質であるとすら述べる。 ハイデッガーは意志することは憎むことであり、復讐心を抱くことだとまで述べるのである。
「意思」とは過去を遮断して振り返らない切断の概念であるが、過去を振り返るということは、 実は「責任」という概念には必須の行為である、と。
しかし、意思とはそういう風にしか産まれないものだろうか?
過去を振り返ることによって明確になる責任を抑圧しないような意思のあり方をこそ、 考えるべきではないか。
ところで、本書での「中動態」の把握が誤っているとして、フランス在住の言語学者、 小島剛一氏が 自身のブログ に批判を掲載している。
國分の論を読んで一番気になったのが、 印欧語を中心にした中動態の概念を日本語にそのまま適用できるのか? という点だったのだが、 小島はそれについて、そもそも日本語では受動態は少数の動詞にのみ 備わっているものであり、 日本語の「─れる/─られる」はヨーロッパ諸語の受動態とは本質的に別物で情動相である、という。
これは興味深いことになってきた、と。
著書として『 再構築した日本語文法 』 があるので、これは読んでみなければ。
それはさておき、國分のこの本ではバンヴェニストをはじめとする何人かの言語学者をひいてきているが、 骨格をなすのはアレント、アリストテレス、ハイデッガー、ドゥルーズ、デリダ、スピノザなど、 ある世代には馴染があろう哲学者達の論である。
特にスピノザは、その書にある独特の魅力がどういうものかを理解する助けになるような記述があるように感じた。
それはそれとして、そういう本だ、と思えば文法生齧りと読めかねないのも宜なるかなではあるが、 一方で言語の意味論だけで精神の状態を考察できるのか、できないとしたらどういう道があるのかという、 懐しい疑問が甦るのも感じた。