← ↑ → 2026-09-14 23:25:00+09:00
読 . 史 . 菊地正隆 . アルゼンチン

『教科書に載らないアルゼンチン史:観光名所の裏に眠る、500年の物語』 菊地正隆

読書中であった。アルゼンチンの歴史に入門する

読書中であった。

1913年、ロケ・サエンス・ペーニャ大統領の時代、 統計によればこの年のアルゼンチンの一人あたりGDPは、ドイツ、フランス、イタリア、スペインを上回っており、 世界第4位の水準に達していた。(※ 「Maddison ProjectDatabase」 2020年版に基づく。)

1935年に発表された映画主題歌「El dia que mequieras(君が愛してくれる日)」は、その到達点である。 失われた愛を切々と歌い上げるこの曲は、今もタンゴ・スタンダードとして世界中で歌われ続けている。

急進党の若手が結成した「アルゼンチン青年急進連盟(FORJA)」は、 イギリス資本によるアルゼンチン経済支配の構造を分析し、その批判を言語化した。 この思想は、後の時代への伏線となっていく。

ペロンへの評価が今も極端に分かれるのはこのためだ。 労働者の生活を劇的に改善した指導者と見る人もいれば、 アルゼンチン経済の慢性的な病を作った元凶と見る人もいる。

第二次世界大戦の敗戦後、日本は深刻な食糧不足に苦しんでいた。 そのような状況の中、1949年3月、エバ・ペロン財団は44トンの食料と 700トンの衣料品を日本に送付した。 輸送船が横浜港に入港した際、艦長は日章旗を掲揚し、当時の連合軍占領下にあった日本の港にあえて日本の旗を掲げた。 この艦長は帰国後、ペロンの歓迎を受けた。

そして 1951年9月のサンフランシスコ平和条約調印を経て両国の外交関係が再開されると、 アルゼンチン政府は「リオ・イグアス号」を食料・支援物資とともに日本に派遣した。 焼け野原から立ち上がろうとしていた日本に援助の手を差し伸べた国の一つが、地球の裏側のアルゼンチンだった。

2次リーグでアルゼンチンは、決勝進出のために 4点差以上での勝利が必要という状況に追い込まれた。 最終節のペルー戦に6対Oで大勝して決勝進出を決めたが、この試合には八百長疑惑がつきまとっている。 試合開始直前にビデラ大統領が米元国務長官キッシンジャーとペルー代表のロッカールームを訪問したことが判明している。