読書中であった。
- 『 歴史のミカタ 』 井上章一, 磯田道史
井上 西郷隆盛は一八七一年、会合の席で、 のちに大蔵大臣ほか、多くの閣僚も歴任した井上馨を「三井の番頭さん」と呼びました。 豪商(のちに財閥)の三井家と関係が深かったことを皮肉ったのです。
しかし、豪商の番頭めいた人が政権に加わったのは、それがブルジョワ政権だったからです。 明治維新は、立派なブルジョワ革命だったのです。 しかも、井上だけでなく、他の番頭的な人物も政権に入っています。 西郷は、そのことに耐えられなかった。 そんな西郷に、多くの日本人はシンパシーを寄せているわけです。 私は、商売がすばらしいと言いたいのではありません。 でも、軍事力で覇を唱えるよりも、商売で稼ぐほうがマシではないかという思いが拭えないのです。
磯田 後ろ盾権威ともうひとつ、日本の権力が頼ろうとするものがあります。 それは中世史家が指摘しているように、中世の寺院・村落で「衆議」「多分の儀」と言われた多数決原理です。 近世後期になると、「公議だ」「興編だ」「公論だ」と言う構成員による多数意見の尊重となります。 多数意思への同調圧力です。
ペリー来航の一〇年ほど前から、「言路洞開」が、流行り言葉になっていました。 福岡藩の儒学者・亀井南冥の著書『肥後物語』などに出てくる言葉です。 亀井は、これからの政治は広く意見を集めて合意形成すべしと主張しました。 内憂外患の時代で、政権担当者は自信がないものだから、 建白書を出させる形でアンケート調査をして、その結果にもとづいて決めようとした。
しかし、みんなに相談して合意を得ようとすると、意見が違えば、まとめられなくなります。 意見がまとまらなくなると、前述の後ろ盾権威が黄門様(水戸藩第二代藩主・徳川光圀)の印籠のように使われます。
磯田 四国連合艦隊は長州藩の下関砲台を艦砲射撃で沈黙させると、 陸戦隊を上陸させ、砲台を占領・破壊して記念写真を撮りました。 ところが、その陸戦隊は早々に引き揚げています。 長州藩側によるゲリラ戦への懸念でしょう。 当時、日本の軍人(武士)は足軽も含めれば、人口の七パーセント近くもいました。 なかには、佐賀藩の武雄鍋島家のように、 アメリカ海兵隊と互角に戦えるスペンサー銃などの装備を備えた部隊もありました。 また、イギリスの経済学者アンガス・マディソンなどの研究で、 GDP(国内総生産)を見ると、日本を一とするとアメリカは一・五〜一・七程度でした。 その程度の国力差では、日本を占領して長期支配するのは現実的ではありません。
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下関戦争時の欧米諸国側の思惑については、 最近、保谷徹さん(東京大学史料編纂所教授)が 『幕末日本と対外戦争の危機』(吉川弘文館)で研究されています。
井上 信徒たちの懺記録やね。 スペイン人宣教師ディエゴ・コリャードの『懺悔録』ですが、あれはすごい本やね。 あれを読むと、近代資本主議が人間の性欲を歪めたという説はまちがいであると言わざるを得ない。 強姦・不倫・虐待・暴力……その生々しい記述に「こういう人間は昔からおったんや」と思う。 その半面、 「懺悔の言葉を活字にして出版するのは、カトリックのありかたとしてどうなんや」との思いも抱きます。