読書中であった。
- 『 日本の醜さについて 都市とエゴイズム 』 井上章一
だが、鉄鋼工作物築造許可規則以後は、不燃化にさからう勢がわきおこる。 すべては軍事。 都市の防火対策などにはかまっていられないという方向へ、国家は舵をきる。
たとえば、東京でも、皇居前の大手町あたりには、木造バラック庁舎が林立した。 あるいは、日比谷通りから内堀へとむかうあたりにも。 そんな東京の中枢とも言うべきエリアに、応急的な施設はむらがった。 大蔵省や企画院、そして興亜院(のちの大東亜省)などの臨時庁舎が、である。
中央官庁の新施設を、みすぼらしい構えでたてていく。 当局者は、そのいとなみじたいに、啓発の効果を期待した。 国家をになう官僚たちも、貧相な建築でたえている。 国民も見ならってほしい。宏壮な建築はあきらめてくれ。 そんな啓蒙の媒体に、建築体そのものがなりうると、考えていたのである。
イタリアの都市には、きびしい建築制限がある。 地権者の自由は、たとえば自社ビルのたてかえにさいしても、まずみとめられない。 すべてに公共性が、歴史的な景観の維持が優先される。 地上げによる再開発も、よほどのことがないかぎりありえない。
イタリアでは、よく地震がおこる。 地震国のひとつである。 石やレンガをつみあげた彼地の建物は、地震の横揺れに弱い。 大きな震動があれば、わりあいたやすくくずれてしまう。 じじつ、そのような災害は、しばしばくりかえされてきた。
にもかかわらず、と言っていいだろう。 イタリアの人びとは、被災後、彼らの家屋などを、もとどおりにたてなおす。 ふたたび石やレンガを高くかさね、震災前の姿をとりもどそうとする。
このさい、耐震性にすぐれた鉄筋コンクリート造の新建築をたてようとは、あまりしない。 筋交いの斜材をおぎない、地震にたいする抵抗力を強めようとも、してこなかった。 あいかわらず、石やレンガで非力な組積造の建物を、えいえいとつくりつづけている。