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『日本の古代とは何か~最新研究でわかった奈良時代と平安時代の実像~』 磐下徹, 十川陽一, 黒須友里江, 手嶋大侑

読書中であった

読書中であった。

部司層の「発見」

ところが、須原により郡司の頻繁な交替が実証された。 これは制度と実態の飛離を意味すると同時に、 郡司輩出勢力が一郡内に複数存在し、彼らが通く郡司に就任できるよう、 郡司職が持ち回り的に継承されていたことを示している。 郡は特定少数の在地首長的勢力ではなく、拮抗する複数の勢力からなる那司層によって運営され、 彼らの妥協と合意にもとづき、那司職の交替が実現していたのである[山口二〇〇四]。 郡司層の存在を「発見」し、彼らの合意を前提に郡司が選出されるという須原の見通しは、 在地首長制にもとづく郡司や地方支配のイメージの再検討を強く促すものとなった。

……

つまり、須原が見いだした郡司層のように、 郡内の秩序は地縁的・並列的な首長間結合と理解すべきで、 郡司の政治的地位や権限は、あくまで国家権力と結びつくことで付与されたものなのである。 この意味において在地首長制論は、 「社会組織の原理と公共性の原理を統一的に説明するために編み出された曖昧な概念」といえ、 「在地首長の姿を実証レベルで検証しようとして成功していないのは、 こうした曖昧な概念により描かれた対象を追い求めていたことによる」と結論したのである。

八世紀の地方支配論

以上、部司層を念頭に、彼らの実態と制度との相関を具体的に考えてみた。 この両者は必ずしも一致するものではない。 在地首長制論が想定したように、郡司の支配関係がそのまま制度化されたわけでもなく、 古代国家の設定した地方支配制度がそのまま現実の地方社会で実現していたわけでもないのである。

部司層を念頭に、彼らに関わる制度とその実態を丁寧に見ていくと、 この両者が手離しつつも何らかの折り合いをつけて現実の社会を成り立たせていた様子がうかがえ、 それを前提に古代国家の地方支配は実現していたのである。

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九世紀の変化

九世紀に入ると地方社会の様相が変化する。 八世紀には郡司層の多くが郡司職を競望し、争いすら起こる状況だったのが、 九世紀に入ると反対に郡司職の忌避現象が広がる。 これは、都の周辺である畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉国)から始まり、九世紀後半には全国化する。 その背景には、 郡司が負うべき徴税をはじめとした地方行政上の責任が増大したことなどを想定できる[平野一九五七][坂上一九八五]。

九世紀になると、従来の徴税システムが徐々に機能不全に陥る。 そうした中で、郡司は自身の責任で納入すべき税物に不足があると、 自らの私財で補填することが求められるなど、微税講負人的性格を強めていく。 このように郡司職は、郡司層にとって過重な負担と責任をともなう忌避すべき対象へと変化したのである。

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九世紀の郡司

また、九世紀は国司制の転換期でもあった。 一〇世紀にかけて、国司の長官である守=受領に強大な権限が与えられると同時に、 任国統治の責任(実質的には都への税物の納入責任)が受領個人に負わされるようになる[北條一九七五]。 権限と責任を受領個人に集中させることで、都への確実な税物納入がはかられたのである。 これを国司の受領化と呼ぶが、こうした傾向の中で郡司の位置づけも大きく変化する。

受領のもとには、令に規定された正員郡司に限らず、広く地域の有力者たちが集められ、 非令制職名郡司などとして把握されるようになる。 彼らは「雑色人郡司」と規定され、国府職員である雑色人とともに受領の手足として活動することで、 国と郡の行政が一体化していくと考えられている[山口一九九一]。 雑色人郡司には旧来の郡司も含まれ、彼らが一定の役割を果たしていたことは確かだが、地域社会における位置づけが相対的に低下していることは否めない。

②新たな受領像

大津透は、一〇世紀後半に国家の収取制度が再編されるが、 それを可能にしたのは受領による強力な任国支配・徴税体制であったとし、 そうした受領を、中央政府は受領功過定を通して統制したとする。 その上で、一〇世紀後半以降、 「貴族官僚である受領国司を通じて中央政府がようやく五畿七道全国を均一に支配することが可能になった」として、 摂関期の国家を後期律令国家(「再編成された古代国家」「律令国家の第二段階」)と評価したのである。

佐藤泰弘は、一〇世紀末に、受領を中心に国機構や徴税制度・輪納制度(税品間交通)が再編されたことによって、 中央・地方を通じて受領の存在が重要になり、「受領の時代」というべき状況が生まれたとする。 また同時期には、社会構造の多元化など、中世的な諸要素が見え始めることから、 一〇世紀末を古代から中世への転換が決定的になった時期と評価し、 一〇世紀末から一一世紀末まで(=受領の時代)を中世初期と位置づけたのである。

以上のように、大津と佐藤は、摂関期を古代の延長と見るか、中世の始まりと見るかの点で評価を異にするものの、 両者はともに、受領を高く評価して、 一〇世紀後半ないし末期における国家財政・収取(徴税)体制の再編や、摂関期の国家(摂関期という時代)を論じている。

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任用国司の排除

一九七〇年代以前における平安時代の地方支配研究では、受領や在庁官人ばかりに注目が集まり、 任用国司は考察の対象から外れていた。 泉谷は、こうした「片手落ちが、平安時代の地方行政に関する考察を今なお極めて不充分なものにしている」 と問題視して任用国司に関する研究を進め、受領の成立と任用国司の関係を次のように理解した。

本来、国司四等官は共同で国務にあたるのが原則であったが、 九世紀になり、郡司百姓による国務への抵抗が顕著になると、 それに対応するため、受領の権限や責任が強化されていき、国衙雑色人の任命権も受領が掌握するようになった。 その結果、国務に対する責任もなくなり、地位も低下した任用国司は、 選任(赴任せず、国司としての給料のみ受け取ること)の増加も相俟って、 国務から疎外されて形骸化していった。 そして、それまで任用国司が担っていた国務は、 受領によって国衙雑色人に任じられた現地有力者が遂行するようになった。

泉谷は、"受領の成立”と"任用国司の国務からの排除”を表裏の現象として理解し、 任用国司に代わる新たな国務の担い手として判官代などの国衙雑色人を位置づけたのである。 こうした泉谷の理解は一定の支持を得ることになり、 以降、泉谷が示した【受領の権限・責任の強化(国司受領化)→任用国司の国務からの排除(任用国司の形骸化)】 という図式によって平安時代における国司の変貌は理解されるようになった。

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②積極的に評価する研究

その際、手嶋が注目したのが年徴である。 年官とは、上級の皇族・貴族(天皇、院宮、親王・内親王、摂政・関白、公卿など)に与えられた官職推薦権であり、 給主(年官の権利を与えられた者)は、この権利を行使することで、 任意の者を諸国の任用国司に推薦・任命することができた。 この点に着目した手嶋は年官と受領の関係を分析し、 受領は、 ①中央の給主に現地有力者を紹介して(現地有力者を年官で推薦してもらうよう依頼して)、 ②年官で現地有力者を本国の任用国司に推薦・任命してもらい、 ③彼らに居住国の任用国司の地位を与えることで、現地有力者との間に良好な関係を構築し、 安定した任国支配を実現しようとしていたと論じたのである[手嶋二〇一九]。

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国司の変貌

本節では、二〇〇〇年代に発表された任用国司をめぐる研究を整理し、その議論を概観してきた。 それを踏まえて、筆者の立場から、奈良時代と平安時代の国司の違い(平安時代における国司の変貌)をまとめると、 次のようになろう。

(1) 奈良時代の国司(守・介・操・目)は共同・連帯責任で国務にあたる存在であり、 国務遂行上における守・介・操・目の関係は、階級によって職務・責任の差はあれど、「同僚」といえるものであった。 それに対し、平安時代になって受領が誕生すると、 任用国司は、名誉職である場名国司と、受領の下で国務を遂行する任用国司に分かれていき、 後者の場合、受領と任用国司の関係は「上司と部下」というべきものになった。

(2) 奈良時代の国司は中央官人が任命されたが、 平安時代において受領の下で国務に携わる任用国司は現地の有力者が任命された。 つまり、任用国司として国務に携わる者が中央官人から地方有力者に変わったのであり、 任用国司は中央派遣官という性格を失うのである。

受け継がれる政策

学術の振興も重要だ。 じつは奈良時代中頃まで、日本では教育制度が充分に整備されていなかった。 先進的な知識は、大部分を大陸からの渡来人とその子孫に頼っていたのである。

この状況が変わり始めるのが、天平年間前後である。 まずは、公的な教育機関である大学療の繋備が進み、 渡来系氏族に限らず才能のある者が入学するようになっていく[丸山二〇一四]。 変わっていくのは人だけではない。 教科書にも変化が現れる。 当時の日本では中国の書籍を教科書としていたが、 仲麻呂の政策によって、それまで使われていた中国南北朝の古い教科書から、 隋・唐の新しい教科書に切り替わったとされる[榎本淳一二〇一ニ]。

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中国化する天皇

ところで桓武は、どうして中国思想に造詣が深かったのだろうか。 近年注目されているのが、桓武が若い頃、称徳朝に大学寮の長官を務めていた事実だ。 大学寮で中国文化に触れた経験が、のちの桓武をつくったのではないかという[大隅二〇一五]。 ここまで述べてきた奈良時代末期からの連続性という意味でも、興味深い指摘である。

桓武の唐風を好む路線は、子の平城・嵯峨・淳和、孫の仁明の各天皇にも引き継がれた。

特に嵯峨の時代には、さまざまな面で唐風化が進む。 弘仁年間(八一〇〜八二四)には、宮廷儀式での立ち振舞いが唐風に改められ、 その内容は「内裏式』という儀式事にまとめられた[西本一九八七]。 このほか宮城の門の名称や衣服、人名にいたるまで、この時期に中国風に改められたものは数多い。

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和漢が並び立つ宇多の時代

加えて、日本の学術レベルが向上して、ある程度中国に肩を並べたという意識が生まれてきたことも重要だろう。 たとえば昌泰三年(九〇〇)に道真が菅原家三代の漢詩集を醍醐天皇に献上したが、 このとき醍醐は、 「白居易の詩風にも勝るところがある」 「菅原家の漢詩を得たからには、白居易の詩集はもう開かなくなるだろう」と賞賛している。 割り引いて考える必要はあろうが、 のちに道真らの漢詩集や小野道殿の書跡を中国に広めることが計画されたことなども考えると、 この頃には日本の漢詩文や書跡は中国にも認められうるレベルだという自信、もしくは願望が育ってきていたようだ。

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中国文化の実態① 最新の文化

奝然は永観元年(九八三)に宋に渡り、日本の皇族や上流貴族の援助も受けながら仏教の聖地をめぐり、 ときの皇帝・宋の太宗にも影見した。 七宝合成塔、版本大蔵経、釈迦如来立像など、 太宗の文化事業を象徴する文物[環本二〇一六a]を携えて帰国した彼は、当初多くの人々に歓迎された。

問題はこの後である。 当時の日本は、宋を含む新しい東アジア諸国のいずれとも正式な国交は持たない、 という立場をとっていた[渡邊二〇二三など]。 このような事情もあり、僧侶を通じて接触を図ろうとする宋側の政治的な思惑を感じ取ったのか、 日本の朝廷は次第に奝然に対して慎重な態度を取り始めるのである。 奝然が目指したのは宋仏教の導入だったようだが、 国内の既存の仏教との摩擦もあり、その希望は部分的に認められたものの、 全体としては挫折に終わったと考えられている[上川二〇〇二][横内二〇〇六][手島二〇一四]。

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それでは当時の文化に影響を与えなかったのかというと、そうともいえない。 奝然が持ち帰った釈迦如来立像の異国風の造形は、貴族たちに強烈な印象を与えたようだ。 近年の研究によれば、その強いインパクトの反動として、 白鳳時代の国内の古仏の見直しや研究が進んだという[奥二〇〇九]。 こうした日本の古い要素を再構成し、部分的には新しい中国の造形も取り交えながら、 有名な宇治の平等院鳳凰堂の造形が出来上がっていく[皿井二〇ニー]。 選択的かつ屈折したかたちではあるが、奝然がもたらした文物は国風文化にも影響を与えているのである。

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中国文化の実態2 唐以前の文化

ここで注意したいのは、清少納言らの教養は、基本的には漢学の入門書(幼学書)の範囲を超えていないことである。 しばしば清少納言が特別高い知識を持っていたかのように語られがちであるが、 そうでないことは文学研究ではほぼ定説となっている[中島二〇二〇]。

それでは彼女たちは、どのようにして知識を得ていたのだろうか。

この時期、中国知識は広い層に浸透していくが、皆が難解な漢籍の原典を読みこなせたわけではない。 男性の場合、まずは幼学書(『千字文』『蒙求』など)を通して、いわばダイジェストのかたちで漢籍を学習した。 もう少し大人になれば、専門的な学習も行なわれた。 女性の場合、どこまで本格的な漢籍学習を行なったかは不明だが、 少なくとも女房として娘を出仕させるような階層の家であれば、 『千載佳句』『和漢朗詠集』といった名句集に収められた漢詩の知識をはじめ、 ある程度の専門的な知識を身につけることは可能であったはずだ[野田二〇二〇]。 紫式部が弟よりも先に漢文の内容を覚えてしまったのは、有名な話である。 加えて、貴族の日常会話には漢籍の知識が含まれていたし、 中国を題材にした絵画や物語も存在したから、ある程度は自然に中国知識を得ることができた。

もっとも、原典ではない孫引きによる学習自体は、古くから行なわれていたことである。 中国には類書と呼ばれる百科事典的な書物があり、項目ごとに多様な漢籍の一部が引用されていた。 奈良時代以来の知識人は、こうした類書から適切な表現を学んで作文していたのである。 九世紀になると日本でも類書が作られるが、これらが専門的で巻数も多いのに比べ、 国風文化の時代の貴族の一般教養となった書物は、より手軽で実用的なものであった。

一〇世紀になると、それまで日本で蓄積されてきた膨大な量の知識が、収集・整理されるようになる。 これにより、唐以前の中国文化は、当時の日本の価値観に沿って再整理され、ある種固定化された[木村一九九七]。 先に挙げた『千載佳句』はその一例で、中国や新羅の漢詩文から優れた句を撰んだものである。 漢詩と和歌の秀作を撰んだ藤原公住撰の『和漢朗訳集』は、のちには幼学書としても読み継がれる。 『古今和歌集』や『源氏物語』をもしのぐ数の平安時代の古写本が現存する、 まさに国風文化を代表する古典である[三木二〇一三]。 平安中期の仮名文学で引用される漢詩の多くは、これらの範囲に含まれる。 平安貴族の教養とは、基本的にはこうした一〇世紀から一一世紀初め頃の整理によって再構築された中国知識であり、 国風文化もこの上に成り立つものであった。