読書中であった.
- 『 私の幕末維新史 』 渡辺京二
この庄屋豪農層は単なる百姓ではありません。 実は、豊臣秀吉の太閤検地の後、幕藩体制が成立したとき、 土地の豪族であった地侍が侍身分に入れずに、郷士つまり庄屋豪農層になった場合が多いのです。 肥後の荒尾にある宮崎滔天の実家はまさにそうで、 現地では殿様のような威勢を誇り、その土豪のような立場からは土地の百姓たちは家の子、郎党なのです。 そのような庄屋層は武士に対して劣等感はありません。 「俺たちは戦国時代からの武士の家だぞ」という誇りを胸に秘めているのです。
天保年間の一八四一年、土佐藩で「庄屋同盟」という組織が作られて、藩に様々な要求をした事件がありました。 その時の庄屋層の主張が面白いのですが、彼らは「この世は貴族と人民にわかれている」と言っているのです。 ここで「貴族」というのは領主つまり殿様のことです。 殿様と人民にわかれていて、 「侍は貴族の足である。 一方、我々庄屋層は人民の頭である」というのです。 武士は領主の足に過ぎない。 では、誰が自分たちを人民の頭と決めたかというと、 それは今、土佐を治めている山内の殿さんがここにやってくるよりずっと昔に、 天皇様が我々を民衆の頭にしたと主張しているのです。
とどのつまり、庄屋という職は天皇から命じられたもので、 百姓を代表し百姓を慈しみ百姓の声を代表して聞くことは、天子様が我々に与えた使命である。 したがって、「武士より俺達の方が偉いんだ」という主張には、武士層とは異なる豪農の自己意識が読み取れます。
草莽思想の屈折した国民意識
注目すべきは、その主張が「古に戻れ」という復古論に分類されることです。 復古主義を後ろ向きの考え方だと馬鹿にすることはできません。 ヨーロッパのルネサンスを例にとれば、何か新しいものを生み出すとき、 一種の偽装形態として復古主義が出てくる場合があります。 当事者は意識していないのですが、新しい価値観が過去の形式をカモフラージュして生まれてくることがあるのです。 このとき、「過去」は現実を否定する手段として機能します。
この段階で、草莽の思想が封建的な村や藩の意識を超えるひとつの契機となります。 たとえば、郷士や神主たちは藩の恩恵をそれほど感じていませんでした。 武士と農民の中間に属する郷土は百姓をして自活しており、藩から十分な俸禄を受けているわけではありません。 同様に、神社の神主や勤王僧と呼ばれる人たちも、ふつうの人々からの謝礼などを自分たちの生活基盤にしていました。 こうした背景から、 「自分は藩に属する者ではなく、天皇の直臣である」という意識が彼らに芽生え、 彼らの観念的な独立性が封建制度の否定につながったのです。 この点で、草莽的尊王論は国民意識の形成における屈折した形とも言えます。
平和と専制の桃源郷
徳川幕府は調和し完成したシステムであり部分的に手を加えるところはない、 という彼の観察は的を射ていますが、もうひとつ彼が発見したことがありました。 平和で幸せそうな農村生活の背後に封建的な専制主義の影があるのです。 たとえば、農村の高台になにか建物が聳えています。 「あれはなんですか」と聞くと牢屋だったということがわかったので、 後で見に行くと実に待遇が良くないことがわかりました。 見学した後、「われわれは、外へ出て、もっと澄んだ新鮮な空気を吸ってうれしくなった」と感想を述べています。 平和な農村から少し横に目を逸らすと、実に不快で恐ろしい専制主義がのしかかっているのです。
この「アジア的専制」は支配者が生殺与奪の権を握り、人民の命を好きなように扱える体制です。 まさに、人民を殺したいときは殺し、生かしたいときは生かすという絶対的な権力の保持者です。 コインの表側は陶淵明が『桃花源記』で描いたような理想郷ですが、裏側は恐ろしい専制というように、 「アジア的専制」は平和と専制という、相反する二面性を持っているのです。 民衆の立場からは、かような恐怖すべき権力に睨まれたら一大事なので、 聡明な者はお上に近づかず、役人となるべく離れて穏やかな日々を保とうとしたのです。
三条実美の「攘夷決行」要求
そうした攘夷要求への「その場しのぎ」的態度がまずかったと反省する幕臣もいました。 薩長に対する主戦論者でもあった小栗忠順は「一言もって国を滅ぼすべきものありや」、 つまり「たった一言で国を滅ぼすというそういう魔術の様な言葉があるだろうか」と問い、 「"どうかなろう"という一言がこれなり」と答えます。 当時の老中たちは、京都や外国に対して「どうかなろう」と言いながら問題を先送りしていました。 この言葉が後に幕府を滅ぼしたのだと小栗は述べているのです。
米領事ハリスらと外交交渉で渡り合った岩瀬忠震も「可成丈」の三字を幕府内で禁語にせよと述べています。 「なるべくだけ」とは「なるだけできるようにいたします」という意味で、 現代で言えば、「できる範囲でやります」と曖昧に返す政府の国会答弁と同じです。 「なるだけ努力したができなかった」という言い訳にもなるわけですが、 この三字から災いが起こったと岩瀬は言っています。 小栗、岩瀬といった優秀な幕僚の指摘は、三条や大原を迎えた際の幕府首脳の対応のまずさをぴたりと言い当てています。
鉱山は子孫に残すという美徳
貿易についても考え方の食い違いがありました。 当時の日本は農業が基本の社会ですから、 「貿易はしないでもいい」「あなた方外国人から高いものは買わなくてもいい」という見方が一般的で、 むしろ外国から、もともと必要もなかった高価な物品を買わされることで、 物価が上がってしまうことを心配していました。 当時の日本人は、経済が人間の手から離れてオートマティックな機械のように発展するものとは考えていませんでした。 効率や合理性は最大限に追求されるべきものではなく、社会に経済が組み入れられていました。 経済成長率などという発想は皆無で、人々は発展などしなくても良いと考えていたのでしょう。
当時の日本には至る所に鉱山がありましたが、 蒸気船で来日する外国人が「石炭がほしい。有望な鉱山があるから銅も掘ったほうがいい」とアドバイスしても、 日本人はあまり乗り気ではありませんでした。 その理由をオールコックが尋ねると、幕府の役人は 「国の資源を少しずつ掘れば、自分の孫、曾孫、玄孫までずっと使えるのに、 自分たち一代で取り尽くしてしまうのは贅沢である。 これは子孫の財産である。 だから末永く使わなければならぬ」と答えたというのです。
……
貧しくても勤勉な東北人
ところで、オールコックやハリスが日本の農民を豊かだと感じたのは、彼らが天領を見ていたからかもしれません。 天領は年貢を三、四割しか取らないのが普通で、二割のところもあったようです。 それだけ手持ちが残ると、農民はまあまあ楽な暮らしができました。 一方、オールコックが九州を旅行した際には、 土地は豊かであるにもかかわらず、農民は貧しく、どの家もボロボロだったと記録しています。 これは、九州の大名による農民に対する収奪が酷いのだろうと彼は書いています。 つまり、前述の、外国人が見た日本の農民は豊かだったという話は、 あくまで局部的な観察ですから、全国に当てはまるわけではありません。
消えた「古き良き日本」
日本人は、今はまだ封建的な繁文縟礼の社会の中で、愚鈍な表情をしているように見えるが、 目の奥にキラキラ輝くものがある。この燃え上がろうとする目は、今の社会に満足するものではない。 見てごらん、我々外国人の文化を見て、彼らの目はすでに燃え上がりつつあるではないか、 と極めて的確な感想を述べています。 これが長閑な牧歌的な社会から、日本人が引きずり出されねばならなかった原因であります。 それは、どういうことでありましょうか。
ゴンチャロフは、一般的な日本人には 「潑測たる眼光、大胆な表情、旺盛な好奇心、敏捷さ」という ヨーロッパ人を特徴づける性質が見られないとも言っています。 しかしそういったものは眠ったままでいるはずはない。 いかに牧歌的であろうと維新以前の日本というものに日本人が満足できずに、 今日のようなある意味で「つらい」社会に進み出ねばならなかった原因であります。 人間というものは、やはり追求心を持っているということですね。 常に新しいものを作り出していこうとすることこそが、 外国人の目であれほど牧歌的に描かれた社会を崩壊させざるをえなかった根本的な問題であり、 そこをゴンチャロフは捉えているのです。
またオールコックは、いかにも英国のインテリゲンチャらしく反省するわけであります。 はたして日本が開国するのはいいことなのかと自問するほどでした。 一つには腹立ちもありました。 来日した当時、イギリス公使館は浪人たちにしばしば襲撃されました。 また外国人に対する殺傷事件も江戸では頻発していました。 だからオールコックはあとでは腹が立ってくるわけです。 「こいつらが鎖国したままがいいのなら、そうさせればいい。 なぜわざわざ自分たちが手を貸して、国を開いてやらないといけないのか。 わからず屋はほっとけ」という気持ちになるのですが、 そこは反省もありまして 「日本がこのままでいたいというならそれでいいじゃないか。 無理に引きずり出してやる必要はないのじゃないか」とも考えます。