図書カード
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中井正一。戦前の京都で雑誌『世界文化』『土曜日』等の創刊・編集に関わった美学者、評論家、社会運動家。左翼活動により治安維持法で検挙され、戦後は国立国会図書館福館長として、図書館を通じた文化復興に尽力。
近づいておかなければならないが、近づくのが難しい人だと感じる。
戦後に生まれたわれわれは、敗戦・占領を経て多大な物的・人的損害に耐えつつ復興に邁進しなければならない国の文化というものがいかに貧困になるか、ということに往々にして気がつかない。その時代しか知らないからだ。第二次世界大戦は世界戦争であったから、その貧困さは戦勝国においてさえ一部に影を落とす。したがって、時代の文化の貧困を腑に落とすには、戦前に遡ることが必要だった。
中井の主な活動は戦前昭和初年代までになされている。基本的にはアカデミズム、ハイ・カルチャーの人だと思うが、その実、映画、音楽、スポーツなど、今でいうサブ・カルチャーの領域での経験がその思想の骨格に大きく関与しており、戦後の素朴な議論をはるかに超えて、現代に通じる質の思想を産み出している。
この点については多分少し注釈が必要か。
「戦前」というと、文化的にはまったく現代とかけ離れた時代と思われそうだが、決してそんなことはない。戦争による中断こそあれ、少なくとも80年代半ば位までは戦後も継続した文化的状況は昭和になるかならないかあたりからずっと継続しているのだ。そこには、モダンがあり、ポストモダンがあり、マスメディアがあり、大衆文化があり、複製芸術があり、プロパガンダも商業主義もあった。音楽でいえばエリック・サティもJAZZもあった。フェミニズムははっきりした形をとっていなかったけれど、たとえば谷崎の『痴人の愛』を読めば(大正13年、女性の社会進出と性の解放の陰画である『モガ』を描く、アメリカのジャズ・エイジに登場したフラッパー等全世界的な傾向だが)、社会状況としては現代とあまり変わらなかったであろうことは容易に想像できる。フェミニズムに関しては、現代でさえ充分浸透しているとは言えないのだから、やはり五十歩百歩だろう。
戦前と戦後の思想の大きな違いは、要するに戦前派はモダンなハイ・カルチャーの世界で培われた圧倒的な教養を、にもかかわらず自らも浸っている大衆文化状況に対処する武器として使い得た、というところにあろう(もちろん、彼らにしても教養という点では先行世代に負けるわけだが)。
さらにいえば、いわゆる現代思想の基礎となる様々な思想は実質的にはほとんど出揃っており、中井のような一部の人は、海外のそうした状況にも同時代的に敏感に反応できているということもある。
近づいておかなければならないと感じさせるのはそれゆえだが、まさにその彼らの教養と立脚点が、われわれとはかけ離れていることが近づき難さを生んでいるともいえよう。あり余る教養とセンスだけでは、大衆文化状況に埋もれて自由に生きることはできない、というわれわれには自明の予測を共有し得ないという感覚である。
とはいうものの、近づくことは必要だ。
彼の論文や批評の対象は多岐に亘るから、その中で読む側が関心を共有する対象についての文章から入れば、親しみやすいのではなかろうか。となれば、音楽である。
『リズムの構造』は音楽のリズムについての考察である。中井は西田学派の流れを汲む、と言われるが、こういう分析記述は西田というよりむしろ九鬼周造を思わせる(実際、先生である)。『「いき」の構造』だw
中井はこの中で、音楽のリズムについての解釈(はつまりリズムをどう構築するかに直結する)を二つに分類する、数学的解釈とは、メトロノームに合わせるような、時間を客観的法則性とみた反復であり、これに対して、時間を現存在的把握性とみて、物理的には伸び縮みしていっこうに差し支えない存在論的解釈がある、とする。さらに、三番目、時間を弁証法的構造とした歴史的解釈の可能性を提出して終わる。
数学的解釈、存在論的解釈についての記述を読めば、現在に至るまでのリズムに関する問題意識がほとんどすべて簡潔にまとめられて提出されているのがわかるだろう。これが1932年に既に書かれているのだ。
弁証法とスポーツの経験からの考察をベースに使い、彼の一貫した問題意識である、個人を如何にして集団に向かって開くか、その解決の一つとして、可能性として提出されるのが、三番目の歴史的解釈である。彼の時代には知られていなかったろうが、黒人音楽やワールド・ミュージックの集団的なポリリズムと彼がいう歴史的解釈とを対比させてみたくなるのは当然だろう。
彼はそこで「かかる喘ぎにおける呼吸が、人間なる無限なるアンチノミー的構造を見透す重き歩みでもある。それを人々は弁証法とよんでいる。歴史性とよんでいる。私たちの未来のリズムの内面にはかかる集団的問いへの喘ぎが潜んでいるといわなければならない」と書く。
今僕らが耳にできる音楽の中に、その喘ぎを共有する音楽はないだろうか?それを耳にできたときに、この位そうと知る助けになる考察が戦後どれほどあったろうか、と思う。
同時に、彼の文章には個人を集団に向かって開く、という場合に陥りがちな危険性をも常に内包していると言わざるを得ない。西田哲学が陥った陥穽である。しかし、同時代だったこともあるのだろうが、西田の流れを汲むから、というよりも近代以降の思想が共通して持っている問題であり、いまだに解決されていない、と僕は思いたい。
中井正一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E6%AD%A3%E4%B8%80