2008-10-28 10:31:00+09:00
日記 . mixi

[補遺] 『時間と自己』 / 木村敏

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時間と自己

レビュー

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時間と自己

4.34点 ( 29人中)

1982中央公論新社木村 敏

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自分でそれを読みながらまさに補遺的に。

鬱、癲癇、統合失調症(嘗て精神分裂病と呼ばれていた)が精神疾患の代表的な病と認識される、というのは1980年代くらいまでで、それ以降は、治療法が進んだことと、特に統合失調症等は症例自体が減っていることもあり、そうでもなくなっているらしい。「患者でなくとも精神医学の書から多くを学べた時代」とはその時代をさしている。このころは、病気をいわば心の成り立ちそのものの不安定性の現われと見て、薬物治療や外因追求とは別に、精神分析的な治療を行おうとする医学者が、医学以外の分野と交流しながら、直接治療目的ではない論考をものす、ということがあった。中井久夫や、この木村敏などはそういう著者の代表だろう。

この手の書き手は現在でも、斉藤環から香山リカにいたるまでいるが、どうしても社会学、統計学的なアプローチになってしまいがちである。それに対して前者はより自己意識の様態そのものを考察するのが特徴。結果、論考は哲学や現象学、文学などとの接点が目立つものになる。

どちらのほうがより助けになるかは人によるだろうが、僕自身に関していえば、意識と自意識のせめぎあいから生まれる生きにくい感じに対抗するには、例えば、小林秀雄の「様々なる意匠」や「Xへの手紙」なんかよりもよっぽど役に立ったw

レビューであまり指摘されていないように思ったのだが、哲学ではベルグソンやハイデッガーが良く引用されていて、本人も本書だったかどこだったかで、自分の考えはハイデッガーの『存在と時間』に大きく影響されている、というようなことを書いていたように思う。が、「もの」に対して「こと」をたてるというのは、むしろ西田哲学の直接的な影響が大きいのではなかろうか。西洋の哲学しか知らない人には、たとえばニーチェが特異に見えるように、木村の考えも特異に思えるかも知れないが、むしろ京都の伝統だとしてしまったほうがわかりやすい。中井正一のリズム論で、物理的時間と存在論的時間の分類があるのに共通する。

ついでにいうと、木村のいう「自己の自己性は二つの異なった私のあいだの同一」であるという言い方、「私と私を認知する私が関係する『こと』が私である」と置いてみれば、それはつまり弁証法のことなのだろうと僕は思う。認識と分かちがたい運動というのは「こと」であり、木村に言わせれば、それは「比喩としてしか言い表せない」のだが、「こと」を表すことが日本語のようにできないインド・ヨーロッパ語による哲学や思想において、なんとか「こと」を比喩しようとしたのが「弁証法(diarectic)」という言い方であると僕は理解している。

弁証法というと「テーゼとアンチテーゼを総合する(正反合)」とよく言われるのだが、実は、論考としても、現実のシステムとしても、総合してしまったら終わりなのだ。テーゼとアンチテーゼが対立(というか「区別」かな?)しあいながら恒常性を獲得している状態が弁証法的総合なのであって、具体的に総合しようとするのは致命的である。

総合して一つのものになってしまったら、関係も交通も運動もなくなり、豊かなものは何もなくなってしまうのだから。

そこを踏み間違えないようにしておけば、池に嵌るのはかろうじて避けられるのではないか、と常々思っているのだが、それはともかく。

そういう意味で、本書にわずかにひっかかるところがあるとすれば、そんな内容について書いているにも関わらず、どこか総合を目指そうとしているような気配が感じられるところだろうか?

彼の言い方を使えば、「こと」を「もの」にしているというか。

タイトルは「時間と自己」なのだが、それが実はどうも「時間と自己『とは何か』」というタイトルに見えてきてしまいがちだといえばいいか。

しかし、それは読むほうが注意すればいいことなのかもしれない。

P.S. そういえば「われわれ」という主語、普通は非人称代名詞として論述に使われる「われわれ」を読んで、「このわれとわれっていうのは誰と誰のことだ?」という疑問を持つようになったのは、この本を読んだ辺りかもしれない。

当時は、というかつい最近まではいろいろ考えはしたもののあまりはっきりしたことは思い浮かばなかったが、あらためて読み返してみると、自己が二つの異なった私のあいだの同一であるとするなら、特に「われわれ」を、一般的な意見を持つ人を代表させるとか無理に考えなくてもいいのかも知れない。

こういう文章を、エッセイといってもよいのだろうが、ノースロップ・フライにならって「告白」と見て、神なき時代に告白を可能にするために、告白者の「私」と聴聞者である「私」のあいだの同一であることを意識した「われわれ」を使う、ということ。

告白("confession")だから、そのもとは懺悔なわけだが、神なきわれわれ(この場合の「われわれ」は二つの異なった私の間の同一なる「私」の複数形)に告白を可能にする主語として「われわれ」(この場合は私を形成する二つの異なった私を集合した代名詞)が使われるとしたらどうだろう。書かれた言葉を審判するのは私を意識する私、ということになるが。

もちろん神に懺悔する場合に聴聞者を一緒くたにして「われわれ」というわけには行くまい。そのときは「私は…」というべきだろう。

さらにP.S.

必ずしも「われわれ」と始めるのが告白者でなくてもよかろう、聴聞者の告白に対する返答である場合もあろう。