過去に読書中であった。
『 創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 輪島裕介 』
以下転載。
「演歌は日本の心だ」とか「日本人はやっぱり演歌だ」とか云われるようになったのが、 いや、そもそも今のようなフォーマットでの「演歌」ができたのがごく最近、 具体的には60年代後期から70年代初期であることを歴史をひもといて解説した本。 そういうことは漠然とは思っていたものの 史料で裏付けしながら具体的な流れを追ってくれているので助かる。
ある意味では演歌も、日本版68年の思想をバックにしているのかも知れないと思う。
演歌の歴史性を明らかにすることによって、 覆い隠されていたロカビリーブーム以前の日本のポピュラー音楽の豊かさも よりよく浮き出てくるだろう。
《真っ赤な太陽》や《スナッキーで踊ろう》に現代のわれわれが覚えるであろう違和感は、 先の時代区分で言えば、第二期に属するサイケデリック・ロック的な音楽要素を、 第一期の専属制度期の表面的かつ無節操な和洋折衷スタイルで 取り入れたことによって生み出されているといえます。
それらの「エレキ歌謡」がエキセントリックなものに聴こえるのは、 昭和初期から三〇年代にかけての日本のレコード歌謡が ジャズやハワイアン、ラテン、シャンソン、カンツォーネ、ロカビリーを 無節操に取り込んできたようなやり方で、 一九六〇年代後半以降のロックの要素を扱ってはいけないという、 一九七〇年代以降前景化する「本場志向」の「洋楽至上主義」的規範を、 われわれが内面化してしまっているからかもしれません。
専属制度期のスタイルが単純な「和洋折衷」だったのか、それが「表面的」だったのか。 「無節操」はある程度あたっているとしても。 ここでいう「第一期と第二期の違い」、はたして「違う」とはどういうことなのか。
昭和三七年には、田端義夫が「発掘」したという《島育ち》が大ヒットします。 バタヤン自身のほか、仲宗根美樹や朝丘雪路といったポピュラー系の歌手も吹き込んでいます。
これは昭和二四年に波平暁夫という歌手が録音した曲が、 歌詞の舞台となった奄美諸島で一種の新民謡として土着化していたものでした。 バタヤンが新橋の居酒屋で偶然耳にし、気に入ったものの、会社の反対のため予算がおりず、 彼自身のギターと三味線と太鼓による極めてシンプルな伴奏で録音されたといいます。
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畠山みどりが、パロディないしコミックとしてレコード歌謡に取り込んだ浪曲的な意匠を、 「唸り」という歌唱技法においてさらに極端に推し進めたのが都はるみです。
彼女は高校在学中に、畠山みどりの歌を歌ってコロムビア主催オーディションに合格しました。 都はるみの「唸り節」に関して興味深いのは、 その歌唱技法が直接的に浪曲に由来するものではないということです。 彼女は幼少時からの母親の期待を背負って歌を習っていたのですが、 ある時浪曲師上がりの漫才師、タイヘイ夢路の舞台を見た母が、 娘の歌に個性を与えるために唸りを強調するように命じたのが発端です。
本人の回想によれば、練習しても母のイメージするところを理解できず、 当時ポピュラー歌手として人気絶頂であった弘田三枝子の歌い方を模倣することで、 あの唸りを身につけたといいます。 例えば《子供ぢゃないの》での「今でもガムを買ってくれるから嫌い」の 「嫌い」の部分での押しつぶしたような発声を想起してください。
現在の意味での「演歌」の歌唱法の一つの頂点ともいえる都はるみの極端な「唸り節」が、 戦後のアメリカ音楽受容のひとつの到達点として、 小林信彦をして「戦後17年は無駄ではなかった」と言わしめた 弘田三枝子の歌唱技法に由来していることは、きわめて驚くべき事実です。
そうなんです、都はるみは『「演歌」の歌唱法の一つの頂点』ではあるが、 技法的には他のいわゆる演歌の歌唱技法とは違う、というのが重要。
それはデビューしてからも変わらず、(といっても大概演歌が入ってはいるんだけど)演歌以外の人の ライブに参加したりして衣裳は和服なのに全然それっぽくないパフォーマンスをやったり、 確か、当時ようやく注目されるようになったいわゆるワールドミュージックを集めたフェスに、 ほとんど日本代表みたいな扱いで出演したりしていたところからも窺えるように、 いわゆる演歌に留まらない幅広いものとして音楽と唄を捉えていたのだろうと思う。
ステージアクションとかからは、矢沢永吉とかも意識してたんだろうなあとも思えるし。