2011-02-18 03:00:00+09:00

『芭蕉二つの顔 俗人と俳聖と』 田中善信

『memorandum of items』より転載 公開済 2011/02/18

過去に読書中であった。

芭蕉二つの顔 俗人と俳聖と 田中善信

2024-07-24T23:05:00+09:00

以下転載。


芭蕉が旅をしたのは隠密だったから…、てな説もあったようだが、 そういわれる程謎の多い一生を送った芭蕉。 本書はそんな芭蕉の生涯を伝記的事実を推理を交えて汲み上げた本。 芭蕉が生来明るく社交的で処世力を持ち、 江戸に出た直後は起業家的成功を収めたとか、 やむを得ぬ家族的事情により談林俳諧師としての成功を捨て、 深川芭蕉庵に引きこもったとか、 実に興味深いストーリーが語られる。

元禄四年の正月ごろ、 義仲寺に芭蕉の住む庵を立てる計画が膳所の水田正秀によって進められていた。 これは以前からあった草庵を取り壊して、 その場所に新たに庵を建てる計画であったらしい。 この計画に対して芭蕉は「拙者浮雲無住の境涯大望故、 かくのごとく漂白いたし候」(正秀宛書簡)と述べて、 新築の庵はこの気持ちにかなうようなものにしてほしいと正秀に頼んでいる。 つまりあまり立派なものをつくってくれるな、というのである。 定住の場を持たない「浮雲無住の境涯」が芭蕉の理想であったことがわかる。

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『野ざらし紀行』の旅において蕉風俳諧を確立した芭蕉は、 その後、骨身を削る思いで俳諧の新風を求めつづけた。 『おくのほそ道』の旅によって芭蕉の俳諧は一新したと去来が述べているように、 旅は芭蕉にとって、俳諧の道をきわめ、新風を模索する場となった。 芭蕉自身、門人の許六に「東海道の一筋もしらぬ人、風雅におぼつかなし」 (『韻塞』所収「風狂人が旅の賦」)と語っている。 東海道を旅したことのないような人は、俳諧の上達はおぼつかない、という意味である。 このように、芭蕉の俳諧に旅が重要な意味をもっていたから、 新風を求めて旅に生きる俳諧の求道者という芭蕉のイメージがつくられた。

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貧しい生活に耐えながら黙々と俳諧に精進していた、 というのが従来描かれてきた延宝期の芭蕉像であった。 しかし芭蕉の実像はこれと大きく異なっている。 芭蕉は決して貧しくはなかった。 むしろ羽振りがよかったといってよい。 実生活に置いては神田上水の浚渫作業を請け負うような生活力があり、 俳諧においては万句興行を成功に導くような実行力があった。 また延宝六年には自分の配合を署名に冠した『桃青三百韻 附両吟二百韻』を刊行し、 延宝七年春には自分の俳号を詠みこんだ「発句也松尾桃青宿の春」という句を詠んだ。 さらに延宝八年には、これまた桃青の俳号を冠した『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行している。 これらの事実は、芭蕉が積極的に自分の名を売りこもうとしていたことを示している。 われわれは、従来の延宝期の芭蕉像を根本的にあらためなければならない。