== 2011-03-22 ==
三連休明け。いつ揺れても不思議はない、というような気配の連続はなくなったものの、依然として日に数回の余震を感じる。しかしこの程度ならまた来たかというくらいのもの。
地震からこの方、tenki.jpの地震情報を見ていたが、各地の震度が分かりやすいのはいいが、それ以外に物足りなさがあるため、以前watchしていた防災科学研究所の高感度地震観測網のページをモニタしている。
ここでは各地震の深度とマグニチュードを一定期間日本地図上にプロットしてくれるので活動域の推移が分かりやすい、…はずなのだが、いかんせん期間が固定なのでもどかしさも募る。せっかくここまで表示できるなら、期間を変えて推移を見るとかのintaractivityが欲しいと思う。
不特定多数に提供するサービスとしたらDBアクセスのキャパシティが問題だろうから、各地震のデータをいただいてDBに入れておき、好きにいじるしかないのかと思う。1レコードは震源時、緯度、軽度、深さ、マグニチュードと震源地のコメントくらいだから大したことはない。
そうすると、たとえば表示も期間、深度、地域、マグニチュードでフィルタリングできるから見てておもしろそう。プレート境界とプレート内部で震源をグループ化することもできるかもしれない。地震ではエネルギーが放出されるが、グループ化したデータについて各地域のエネルギー放出の度合いを時系列で見られるようになるとさらにおもしろいかも、くらいはまあ思いつくのは簡単だがつくるのはメンドクサイかな。データは定期的にwebに取りに行って溜めとけばよいが、図化するのはIBMが公開してるサービスがなんかあったなあ…、忘れた。
東海村近辺のテレメータ、二日ほど前から一部数値の上昇が目立つが、それでも1000nGy/hを若干超える程度なので問題とするにはあたるまい。放水・注水を派手にやって、水蒸気が出たりしている影響があるのか。外部電源の引き込みが進捗してきて、世論の焦点は福島および近県の農産物や飲料水への影響に移行しているようだ。茨城、栃木、群馬のほうれん草(群馬はかき菜も)、福島県の原乳、から食品衛生法の暫定規制値を超える放射性物質が検出され、出荷停止措置が取られた。予測された事態、予測された対応。
今回の震災に関連して一つ気になったこと。漠然とだがメモ。
これは、被災者および救援にあたっている以外の人々の物言いによく出てくるのが「経済を回す」という言葉。つまり災害当事者でない立場をどう過ごすか、といったステートメント的な文章に「災害当事者(直接救援にあたる人々を含む)でない我々は自分のことをやって経済を回そう、それが(なぜよいのかの理屈がついて)よい」というようなものが増えているということ。
まあ、人それぞれであるし、そういうのはたとえば綱引きでは「オーエス」とか(今は言わないのかな…)、ライブでのお客さんの「イェーーイ」の叫び声とか、戦争のときの「****万歳!」とか、デモのときの「***団結せよ」とか、そういう意味には関係なく声を上げるために要請される音素の連なりの用心深いかたちの一つなんだろうなあというくらいにしておけばいいのかも知れないが。
疑問および違和感のとば口として、阪神大震災のときはこういう言葉遣いはあまりなかったように思う、ということはある。
十数年前には、こういうときに「経済を回す」ことが第一義としていわれることはなく、何か他の価値観に基づいて「銃後の訓示」がなされたのではなかろうか。 それがどんなものだったか忘れてしまったが。
あえて意地悪に考えれば、「我々は経済を回そう」な言い方には、経済活動は善であり、経済活動とみなされるものならば、どういった行動であっても正当化される(正当化しよう)、というニュアンスが感じられなくもない。これは、自分だけの行動には価値観の出る幕はないが、人にもすすめるとなると、それなりな価値観に基づいた言説でないと受け入れられる見込みはなく、逆にいえば、今では「経済を回す」ことが、それなりな価値観のベースになる行動と捉えられている(あるいは、経済を回すことをベースにおいた価値観を浸透させようとする意図が存在する)、ということを意味するのではなかろうか。
もっとも経済活動が善か否かといった問題の建て方は観念論であって、僕自身は経済活動は経済活動であって善いも悪いもないと思うし、自分が日々やってることは単に思いと必要からやっているだけであって、そこで考えていることがあるとすれば、必要ゆえの行動を減らして思いゆえの行動を増やし、行動が減らせなければ必要を減らし、行動の余地があれば思いをさらに増やしたいというだけのこと。経済を回そうとしてるわけではさらさらない。それがイデオロギーから見て経済活動とされようが非経済活動とされようが、関係ないことだし、経済活動であろうと単に必要のみでやってることならやりたくないし、非経済活動であろうと思いがあればやろうと努力する、ということ。
とはいえ(というか、だからこそ、か)、こういう事態を継続して観察評価することは必要だと思うし、別にサンデル教授みたいにディベートに勝つ技術を磨いて得しようとは思わないが、せめて自分の頭の中はなるべくクリアにしておきたい。
三月もはや残り一週間ちょいとなって、気持ちは四月以降に飛びがち。 いかに必要ゆえの行動を減らし、思いゆえの行動を増やすか。