2024-01-01 00:00:00+09:00
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『日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く 関裕二』

読書中であった

読書中であった。

日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く

昨年の一時期この人の著書を立て続けに読むことになった。

例えば嘗ての坂口安吾や黒岩重吾の歴史、古代史もののような位置付けの論かと思う。

文明を拒否した日本人、という考えかたはなかなか魅力的というか使えそうな措定では あるが、 それを確信にするにはもう少し実証的裏づけが必要かと思う。 最後に角田忠信が出てくるとかいう感じだとちょっとね、と。

藤原氏の出自については、 『 蘇我氏の研究(客野宮治) 』 の説よりはこちらの方がありそうかなと感じた。

記述の裏づけとなる資料へのリファレンスが不十分なところ は、読んでいて苦労するところである。 一応巻末参考文献はあるが、あちこちに「最新の考古学では…」などと書かれていても、 直接参照できるようになっていない。 いきおい、仮説の妥当性の判断も保留しがちな読み方になってしまうが、 まあ、学者の書きぶりではないので仕方なしというところか。

以下抜き書き。

序章 アジアは一つか?

横山宏章は、辛族革命によって誕生した中華民国と中華人民共和国で、 皇帝による独裁体制は終焉したが、 「絶対的権威が華夷秩序としての天下を統率するとい伝統的な天下概念の枠内にとどまり、 漢民族が領域内のさまざまな民族を支配、統合」していて、 中華帝国の構造そのものだと言っている(『中国の異民族支配』業英社新書)。 冊封体制とは意味が違う。

第一章 中国文明の本質

しかし、一九一九年五月四日に「抗日、反帝国主義、反封建主義」の 五・四運動が勃発し、歴史見直しの気運が高まり、 儒教や孔子の封建的な発想に異が唱えられ、新たな歴史観が求められるようになり、 西欧近代思想を採り入れ始めた。 そして一九二〇年代に入り、大きな変化があった。 中国史の起源として理想視されてきた「夏」や「殷」の存在を否定する 「疑古派」が出現して、波紋を広げたのである。


そして「夏」「殷」の治政は、 多神教的でゆるやかな支配体制が継続していたらしいこともわかってきた。 自然神や祖先神を尊重し、穏やかな信仰形態を維持していた。 孔子の憧れの国は、たしかにあったようなのだ。

ただし、「周」の時代から、大きな変化が訪れていた。 富を蓄え、中華思想が芽生え、次第に文明の国(悪い意味で)に変貌していったのだった。


司馬遷の『史記』が「中国」という世界観を定義したのに、 『資治通鑑』は「種族観念」を植え付けてしまったと岡田英弘は考えた(前掲者)。 中華思想と正統主義がつながったことで、 漢民族の誇大妄想が昂進されてしまったようなのだ。


漢民族が文明を発展させ、森を失ったことで、騎馬民族が自由自在に、 そして嘲笑うように、中原を走り回ることができるようになってしまった。 騎馬軍団は攻めては退き、退いては攻めかけてきて、厄分だっただろうし、 森を失った漢民族には、脳ち目はなかつたのだ。 その恐怖心から、無駄な万里の長城を、常勤を逸した形で造っていったのだろう。


中国学者の福永光司は中国の南北の文化の差を「思想信仰」という視点から、 一〇の項目に分類して、説明している(『「馬』の文化と「船」の文化』人文害院)。 これを要約しておく。 ちなみに、「馬」の文化園の思想や信仰は、信教の古典から、「船」の文化園のそれは、 道教の古典から主に考察されている。


西側の法治国家における司法裁判の公正さを象徴するのは、 目隠しをして剣と天秤を持つ「正義の女神」である。 司法の世界では公正こそ正義なのだが、中国の古典を見渡す限り、 「正義」の二文字はほとんど出てこない。 ただし「義」の一文字なら、『論語』その他に無数に登場する。 ただし、「義」は「正義」を指しているのではないようなのだ。 中国の「義」は、「justice」と同一ではない。


ならば、「義」とは何か、ということになる。 冨谷至の言葉を借りて結論を言ってしまうと、「中国の正義とは、公平、平等ではなく、 信義、節義、忠義、孝義への合致である」(前提書)と述べ、 われわれの共通認識である「客観性をもった配分正義」には結びつかないと言う (以下、説明する)。

法に基づく政治「法治」も、中国では「徳治」であり、 道徳による政治が法律による政治よりも上位に立っていると指摘する。 『論語』にも、「法を用いて刑罰で罰するよりも、徳(道徳)で人を導き、 礼の規範を広めれば、民は恥を知り、よい世の中がやってくる」とある。 これが「徳治主義」で、「礼」を重んじる。


自然(nature)としての天と人間の性(human nature)の相関関係を否定し、 情欲を制御し、人間を理性的で善なる存在に導いて教化しなければならないと言う。 もちろん、この発想は、信教的な「礼の思想」「礼の規範」を大前提にしていて、 西洋的な法律や、日本的な太古から続く道徳観とも、異なるものなのである。

どうやらここで大きな結論が出たようだ。 中国文明の本質を知る上で、 「礼」が「人間の欲望を抑えるためのシステム」』と理解することで、 大きなヒントを得たのだ。

中国文明の本質は「欲望」であり、それをいかにコントロールするか、 どうやって民の欲を満たせるか、あるいは欲に箍をはめるかが、 中国歴代王朝の最大の課題だったのである。

また、中国の「礼」は、物欲、征服欲を満たすための処世術であろう。 為政者はとどまることのない民衆の欲望をいかに抑え込み、服従させ、秩序を構築し、 優位性を築き、為政者の安定と富を保証しようとした。 つまり「礼」は統治のための手管であり、 それは皇帝の権力欲を叶えるための方法論でもある。

中国を突き動かす原動力は、「欲」である。

第二章 日本の神話時代と古代外交

ヤマト建国は不思議なできごとで、富も権力も持たぬヤマトと周辺の人びとが、 「文明に抗う」ために、奈良盆地の東南の隅に集結したと考えられるようになった。 「貧者の書生論的なはかない夢」だったはずなのに、 一瞬で本当にヤマト建国を成し遂げてしまった事件なのである。

これは、邊像で述べているのではない。 考古学者が物証をかさき集めて構築した新説なのだ。 安っぽい空論でも机上論でもないし、飛躍した妄想でもない。 考古学の成果を積み重ねた結果「そう考えなければ逆に不自然」だから生まれた仮説である。


朝鮮半島最南端の交易の拠点になった金海地域には、 今のような平野がなかった(海岸線は奥まっていた)。 一帯は鉄の交易によって栄えていたが、 大平野を持つ北部九州から穀物が輸入されていた可能性が指摘されている (田中史生『国際交易の古代列島』角川選書)。 運搬したのは、対馬の海人だと言う。


筆者は、卑弥呼の邪馬台国は北部九州の山門県(福岡県みやま市)だが、 奈良盆地には「本物のヤマト(邪馬台国)があったと考える。 江戸時代の国学者・本居宣長が唱えた「邪馬台国偽僭説」を支持しているからだ。 九州の卑弥呼は、「われわれがヤマト」と偽って魏に報告し、 親魏倭王の称号を獲得してしまったのだと推理する。 そう思う根拠を、少し説明しておきたい。


奈良盆地は縄文時代から東と強く結ばれた地域で、稲作が九州から東漸してきた時も、 ここで呪術を用いてくい止めようとした痕跡が残っている。 奈良盆地は西に突き出た"東"であり、"西"からの侵入者をくい止める地形を有している。


ついでに言っておくと、北部九州はヤマトやその東側には鉄を流さないと 方針を固めていたようで、出雲、吉備、漆路島を囲い込む戦略を立てていたと思われる。 ところが、出雲とタニハ(但馬、丹波(八世紀以降は丹波と丹後) 、若狭)が反目して、 タニハが銅鐸文化圏(近畿地方南部と近江、東海)と手を結び、反撃に出た。 出雲を圧迫し、明石海峡争奪戦に勝利したようなのだ(拙著『海洋の古代日本史』PHP新書)。 このため、吉備と出雲は北部九州と手を切り、ヤマト建国に参画した。 こうしてヤマト政権は、北部九州沿岸部になだれ込んで奴国に拠点を構えた。 ヤマト建国と言えば、北部九州の強い王家が東に移ったと信じられてきたが、 実際はその逆で、 ヤマトが北部九州の富と流通ルートを奪いにいったことがわかってきたのだ。 大量の東の土器が北部九州に集まっていた。 人びとが土器を背負って移動し、九州に押し寄せていたわけだ。 こうして、日本列島の大部分を占める連合体が出現した。 いわゆるヤマト建国である。


『三国志』韓伝に、次の記事がある。

「辰韓の老人たちは、代々次のように伝えてきた。 昔の亡人(逃亡した民)は、中国の秦の役(労役、使役)に耐えかねて韓国に逃げ、 馬韓(百済)はその東側の土地を割いて、与えたのだと」

だから、辰韓(以下「新羅」)の人たちの言語は馬韓(以下「百済」と異なり、 話し言葉に秦人のものに似ているところがあるという。

この辰韓の「けっして恵まれていなかった立場」が、ヤマトにも影響してくる。


新羅は閉じ込められた土地であり、長い間、貧しい生活を強いられることになった。 だからこそ、亡人に、この土地があてがわれたわけだが……。 しかし、新羅は「同じ悩みを抱える人たち」の存在に気づいたのだ。 それは、加耶と北部九州をつなぐ貿易の道からはじき飛ばされた 日本海側のタニハや銅鐸文化圏の存在である。

銅鐸文化圏の人びとは縄文文化の香りを残し、事実、 縄文時代から続く流通ネットワークを維持していた。 鉄器の保有量も少なく、弥生時代後期の「出遅れ組」だった。 ところが、タニハが出雲の圧力に対抗するために、銅鐸文化圏と手を組み、 先進の文物を流し、同地域の発展を促したようだ。


しかし考古学は、次第に縄文文化が日本人の三つ子の魂を形成していることを 明らかにしつつある。 稲作も、縄文人が選択していたこと、炭素14年代法によって、稲作を始めた年代も、 紀元前十世紀後半までさかのぼる可能性が高くなり、 「あっという間に稲作が日本列島中に広がった」わけではなかったこともわかってきた。 東への伝播はゆるやかで、多くの壁を乗りこえなければならなかったこと、 何度も揺り戻しを起こしていて、縄文的な文様が施された弥生土器も、出土していた。

また、「明確な形の弥生文化は、北部九州と朝鮮半島南部に成立したにすぎない」 と考えられるようになってきたのだ。 日本語も、すでに縄文時代に基礎が固まっていたと考えられるようになってきた。 渡来人が日本列島を圧倒していたら、言語も変わっていただるう。

強い渡来系の王が北部九州からヤマトに移動して征服したという仮説も、 もはや受け入れることはできない。 だから、スサノヲが朝鮮半島に舞い下りていたという神話だけで、 この神を新羅系とみなすことはできないのである。


ところが、タニハは独自の墳丘基を造り続け、 四隅突出型墳丘墓はタニハを飛び越えて越に伝播した。 タニハは挟み撃ちにされたが、出雲の圧力をはね返し、逆に西(鳥取県)に向かって 押し進んでいた様子が、考古学的に明らかになっている。 そして最終的に、出雲はヤマト建国に参画したのだから、タニハの圧力が効いたことになる。


これには証拠があって、ヤマトの勢力が流入して一度は発展した奴国が、 一気に没落していること。 山陰地方でも、同時期に、謎の衰退が起きていたことだ。 出雲の四隅突出型境丘墓の墳墓群を造ってきた中心勢力が、没落している。 このあと、日本海沿岸部で巨大な前方後円墳を造る地域は、 丹後半島の一部の地域に限定されてしまう。 逆に吉備では、天皇家と同等の巨大墳基を造営するようになっていく。 用意周到で老獪な吉備の、作戦勝ちであった。

ちなみに、古代最大の豪族物部氏こそ、吉備出身だろう。 そう思う根拠はある。

物部氏の祖・ニギハヤヒ(饒速日命)は、 神武天皇東征以前にヤマト政権の中心に立っていたが、 どこから舞い下りたのかわかっていない(『日本書紀』)。 物部氏は河内を本拠地にしていて、 瀬戸内海から関門海峡、北部九州まで勢力圏を拡大している。 考古学は、河内を根城にしたのは吉備と言っていて、物部氏と重なって見える。

弥生時代後期の吉備の埋葬文化から発展した前方後円墳は全国に広まり、 六世紀末から七世紀初頭まで造営され続ける。 ちょうど、物部守屋が激亡した頃まで、前方後円墳体制(古墳時代)は続く。 物部氏の盛衰と前方後円墳の命運が重なっていることは、偶然ではあるまい。 ヤマト建国直後の主導権争いを制したのが、吉備の盟主・物部氏だった。

第三章 中国の影響力と朝鮮・日本の連動

ヤマト建国は、タニハ(但馬、丹波、丹後、若狭)が新羅と手を組み、 出雲や北部九州に対抗したことによって成し遂げられた。 またタニハ(のスサノヲ)は、富と権力の発生を媒う銅鐸文化圏を 奈良盆地に引きずり込むことによって、騒乱状態だった日本列島に、 大きな連合体を作り上げることに成功したのだ。


ここからヤマト政権は、瀬戸内海勢力が主導していくが、瀬戸内海→北部九州→中国へと 続く安全な航海を成立させるためには、加耶(朝鮮半島最南端)と百済(魚半島丁海岸)との 友好関係が必要不可欠で、実際こののち、ヤマト政権は百済を重視していく。 百済と新羅は国境を接して小競り合いを続けていたから、 ヤマト政権が百済を重視したことによって、新羅は困窮したわけである。


三九一年に倭の軍勢が百済に加勢していたが、 三九六年の高句麗と百済の戦闘の場面では、倭国軍は参戦していない。 ここに誰がある。 『日本書紀』や『三国史記』の話を総合すると、 一時的に倭国と百済の間に軋轢が生まれていたようだ。 百済がはじめ高飛車に出ていた可能性がある。 高句麗に一度敗れて、しぶしぶ倭国に頭を下げたということだろうか (拙著『なぜ日本と朝鮮半島は仲が悪いのか』PHP研究所)。


継体天皇の出現でもっと大切なことは、 ヤマト建国後の主導権争いの中で没落した日本海勢力が、五世紀末に復活し、 六世紀にヤマト政権の主導権を握るチャンスが到来したことなのだ。

これは、新羅にとっても好機だった、縄文時代から珍重されてきた越の秘宝・ヒスイが、 新羅に大量に輸出され、無数のヒスイが王冠を飾っていることからも、 この時代の日本海勢力と新羅の関係は類推できる。


古墳時代を通じてヤマト政権の中心に立っていたのは 瀬戸内海の吉備出身の物部氏だったが、日本海勢力に属する継体天呈の出現以降、 彼らは次第に力を削がれていく。 ここで蘇我氏が台頭した意味も大きい。 継体天皇が育った越は、蘇我系豪族の密集地帯でもあった。 継体を支えたのは蘇我氏である。 つまり蘇我氏は日本海勢力の領袖だったのだ。

そしてこのあと、朝鮮半島情勢はめまぐるしく変化していくが、 そこにはさまざまな要因が隠されていた。 そもそも、朝鮮半島のどの国々も、色々な人種が入り交じり、また、出入りが激しかった。 また、朝鮮半島の西海岸を誰が支配するかという地政学的な重要性も、 この時代の駆け引きの大きな要因になっていたと思う。 『隋書』東夷伝の百済条には、六〜七世紀にかけての百済には、 「新羅人、高麗(高句麗)人、倭人を交え、中国人もいる」と記されている。 東アジアの往来が頻繁に行われていたことを示しているし、 航路の中の百済の港の重要性が、これでよくわかる。


こののち、親新羅派の蘇我氏が台頭し、親百済派の雄族・物部氏の影が薄くなっていった。 ヤマト政権の外交政策は、「百済一辺倒」ではなくなり、 全方位外交を展開していくようになったのだ。


たとえば鈴木靖民は、 『古代対外関係の研究』(吉川弘文館)の中で、蘇我蝦夷・入鹿親子が 反蘇我氏勢力が推戴する有力な皇位継承候補を抹殺してしまったと言ラ。 それが山背大兄王のことで(上宮王家)、「外交事情に通じ、 かつ敏感に対処してきた蘇我氏なら当然の行動」と言う。 また逆に、反体制側の中大兄皇子や中臣(藤原)鎌足たちにとって、 高句麗で勃発した「権力中枢の殺戮というテロリズム」は、 強い刺激になったと指摘している。 乙巳の変(六四五)ののち、中大兄皇子が、叔父の孝徳天皇を担き上げたのも、 高句麗の様相が投影されていると言うのだ。

しかしこの推理は、間違っている。


ならばなぜ、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿暗殺を決行したかと言えば、 それは改革事業を押し進めるためではなかった。 中大兄皇子は蘇我氏が中大兄皇子の弟の大海人皇子を推していたことを憎み、 さらに中臣鎌足は極端な親百済派で、 蘇我氏が衰退著しい百済救援に消極的だったことを恨んでいた。 なぜ中臣鎌足が百済に傾倒していたかというと、 人質として来日していた百済王子・豊璋がその正体だからだ (拙著『ヤマト王権と古代史十大事件』PHP文庫)。


『日本書紀』は、乙巳の変と大化改新(六四六)によって、 律令は一気に整備されたと主張し、中大兄皇子や中臣鎌足を顕彰したが、 実際に律令が整ったのは大宝元年(七〇一)のことで、約半世紀の年月を要している。 それにもかかわらず『日本書記』が「この時律令は整った」と強調するのは、 「蘇我氏が改革事業の邪魔をしていたから」 「蘇我氏がいなくなるだけで、改革は進んだ」と、印象操作し、 中大兄皇子と中臣鎌足の正義を証明しようとしたからだ。

しかし、嘘はすでに露顎している。

長い間、みなだまされていたのだ。 政変は成功し、中大兄皇子は主導権を握ったに違いないと、思い込んでいたにすぎない。 中大兄皇子が実権を握ったのは、孝徳政権に対する嫌がらせや妨害工作が功を奏し、 考徳天皇を追い詰めたあとだ。

この中大兄皇子と中臣鎌足の行動に東アジア情勢はからんでいたが、 通説が考えるような図式ではない。


隋に遣わされた恵日(医学生。古代日本の医療制度を確立する)は、 十五年後に新羅使の船で帰国していたが、「新羅ネットワーク」を持ち帰り、 唐・新羅のラインを重視する一派の動きが活発化していたのではないかとする 田中史生の推理がある(『越境の古代史』ちくま新書)。 孝徳政権は親蘇我政権だから、高向玄理を新羅に派遣して、さらに絆を強めたのだろう。

孝徳天皇崩御ののち、中大兄皇子は母(斉明天皇)を擁立してようやく実権を握り、 百済救援を強行する。 これが白村江の戦い(六六三)なのだが、ヤマト政権と百済の連合軍は、 唐と新羅の前に、完虜なきまで叩きのめされた。 そして、日本は滅亡の危機に瀬する。

第四章 日本は中国と対等に渡り合おうとしたのか

これら対隋外交劇における『日本書紀』の聖徳太子の記述には、 なぜか「隠匿」の匂いがつきまとう。

その理由は、『日本書紀』が蘇我氏全盛期の外交戦の手柄を 礼賛することはできなかったからだろう。 さらに付け足しておくと、「改革派の蘇我氏」を、 「改革を邪魔立てした蘇我氏」にひっくり返すための 「偶像(本来存在しなかった聖者)」が厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)であり (拙著『聖徳太子の秘密』PHP文庫)、 『隋書』に記録されてしまった外交戦の一部始終を語るわけにはいかなかったからだ と筆者は考えている。 ただし無視するわけにもいかないので記事にしたが、重要な場面で、 政権の中枢に立つ人びとを登場させなかっただけのことだろう。


「日本」は、古代の東西日本の東側を指していたと思う。 『旧唐書』倭国伝に、「倭国は古の倭奴国なり」とある。 「奴国」は、福岡市周辺のことで、中国の言う「倭国」は、 もともと弥生時代後期の北部九州やその周辺だった可能性が高い。 そして『旧唐書』日本伝は、次の記事も載せる。

『 日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。 あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 あるいはいう、日本は旧くは小国なれども、倭国の地を併せたりと。 』

この一節は重要な意味を持っている。 すでに触れたように、ヤマト建国は奈良盆地を中心とする「東(銅鐸文化圏)」が、 「西の北部九州」を飲み込んだ事件だった。 「西の北部九州は大国=富み栄えた」国で、 倭国(北部九州)の別種で小国(鉄をほとんど持っていなかった貧しい地域)の日本国が 倭国を併合したという伝承は、正しかったわけで、 さらに、北部九州を飲み込んだ国が東方の日の出る方角にあったから 「倭国(奴国・九州)から見て東は日本」なのであって、 「日本」は中国大陸を基軸にして生まれた国号ではない。 だから、日本国号自体が、中国に対する対等な意識の表れとは考えられない。


河上麻由子も、程度の低かった日本が、中国と対等に渡り合うはずがなかったという これまでの常識を踏襲しているように思えてならない。 しかし、何か違和感を覚えるのだ。

はたして古代日本人は、中国を尊敬し、仰ぎみて、拝むようにして文明を欲しただろうか。 倭の五王のあと、なぜ長い間、日本は中国の冊封体制に組み込まれなかったのだろう。

色々な要因はあっただろう。 冊封を受ける意味は消えかかっていたのかもしれない。 しかし、最大の原因は、「文明に対する懐疑の念」が、 日本人の心の奥底に沈殿し続けたからではあるまいか。

第五章 中国の正体と日本の宿命

これまで「日本人は稲作民」と、信じ込まれてきたが、むしるベースにあるのは、 狩猟採集民の縄文文化であり、海人の文化なのである。


スサノヲが神話の中で、大切なことを語っている。 一度新羅に舞い下りたあと、「ここには住みたくない」と言い日本に戻り、 「韓郷の島(朝鮮半島)には金(鉄)の宝があるが、日本には浮く宝が必要だ」と言うのだ。 「浮く宝」とは船を造り家を建てる木材を言っている。 その上でスサノヲは、子供たちに指示して、植林事業を手がけていくのである。


ヤマト政権は、けっして中国王朝と対等になろうとしたのではないと思う。 中国文明の狂気に、気づいていたからこそ、弥生時代後期に、 「文明に抗っていた地域の人びとが 奈良盆地に集まってゆるやかなネットワークを形成した」のであり、 この伝統は(大袈裟に言ってしまえば)現代にまで通じているのではないかと思えてくるのだ。


これからも、日本人は多神教徒であり続けると思う。 その理由を、一つの仮説が説明してくれているように思う。 それが、角田忠信の「日本語人の脳」という仮説だ(『日本語人の脳』言葉社)。