読書中であった。
『 帳簿の世界史 ジェイコブ・ソール 』
以下抜き書き。
ルイ一六世はなぜ断頭台へ送られたのか
金のかかる戦争やヴェルサイユを始めとする宮殿建設で赤字続きだったルイ一四世は、 コルベールが一六八三年に死去すると、会計報告の習慣を打ち切ってしまう。 国王からすれば、帳簿は国家運営の道具ではなく、 統治者としての自分の失敗をあからさまに示す不快な代物になっていたのだろう。 せっかく会計と責任のシステムを発足させたルイ一四世だが、ついに会計の中央管理をやめてしまった。 これではもう、コルベールがやったように各省庁の会計を一つの元帳にまとめることはできない。 そして大臣たちは、王の財政運営を把握することも的確に批判することもできなくなった。 よい会計は悪いことが起きたときに真実を教えてくれるが、 ルイ一四世は都合の悪いことは見て見ぬ振りをしたくなったらしい。 あの有名な「朕は国家なり」という言葉は、本心だったのだろう。 こうなると、政府といえども王の個人的意志に逆らえない。 一七一五年、太陽王は死の床で、自分はフランスを破綻させたと告白した。
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イタリアのジェノヴァ共和国では、はやくも一三四〇年には市政庁の執務室で大型の帳簿 がつけられており、複式簿記で財政を記録していた。 会計は、他国とはまったく異なる政治観をジェノヴァにもたらした。 厳正な会計はよき事業のみならず、よき統治に欠かせない、ということである。
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これらの共和国はたしかに栄えたけれども、会計責任の維持がむずかしいことも立証するこ とになった。 一六世紀になると、イタリアの共和国全般の衰退と絶対君主制の台頭が相俟って、 会計への関心は薄れていく。 商人たちは複式簿記に慣れて熟達していったが、政治の場からは 会計は姿を消していった。 例外は、君主制の潮流に逆らって共和制を維持し続けたスイスとオランダだけである。 なるほどルネサンスが最盛期を退え、それに付須して科学革命が起きる頃、 すなわち一四八〇年から一七〇〇年にかけては、君主が会計に興味を示したこともあった。 イングランドのエドワード七世、エリザベス一世、スペインのフェリペニ世、 オーストリア帝国の皇帝たち、ルイ一四世、そしてドイツ、スウェーデン、ポルトガルの王たちは、 収支を調べ、国庫を管理し、帳簿を維持した。 だが、ジェノヴァを始めとするイタリアの共和国が一四世紀に実践したような、 複式簿記による政府の会計システムを安定的に確立した君主は一人もいない。 いや実のところる、それを望みもしなかった。 臣下が国家財政を厳正に記録しようものなら、君主に報復されかねない。
マルクスやウェーバーは会計をどう見ていたか
複式簿記なしには近代的な資本主義は成り立たないし、近代国家も存続できない。 複式簿記は、損益を計算し、財政を管理する基本的なツールである。 その発祥の地はトスカーナと北イタリア各地で、一三〇〇年頃だったとされる。 言い換えれば古代と中世の社会には存在しなかったのであり、 複式簿記の誕生は、資本主義と近代政治の幕開けを意味した。 では、「複式」とはいったい何を意味するのだろうか。 家計簿や銀行通帳のような単式簿記では、単一の勘定における現金の出入りを記録するだけである。 これに対して複式簿記では、現金の増減だけでなく、それに伴う資産の価値も表すことができる。
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複式簿記は、会計の基本的な等式を表す。 それは、ある組織が管理する資産は、債権者の権利および所有者の持ち分と必ず等しくなる、 というものだ。 この等式のおかげで、企業や政府は資産と負債の状況をいつでも追跡でき、 したがって横領を防止しやすい。 資産、収入、そしてもちろん利益といった実績を表す数字を明確に示してくれる複式簿記は、 財務計画を立て、実行し、責任を果たすための有効なツールとなる
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独立初期のアメリカに資本主義文化が定着するにいたった要因はプロテスタントの職業倫理にあるという ウェーバーの主張において、会計は職業倫理の基本要素の一つと位置づけられていた。
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ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトはもっと過激で、 「複式簿記のない資本主義は想像もできない。両者は形式的にも実体的にも密接に関連付けられている」 と述べた。
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「創造的破壊」で名高い政治学者のヨーゼフ・シュンペーターは、会計を資本主義の支柱と位置付け、 経済学者が会計にあまり注意を払わないことを嘆いている。 そして、会計慣行の歴史的理解なくして有効な経済理論を打ち立てることはできない、と書いた。
1. 第1章 帳簿はいかにして生まれたのか
ハンムラビ法典に定められていた会計原則
古代世界は数千年にわたって会計を実行してはいたが、新しい工夫が付け加えられることはなかったし、 アウグストゥスがしたように政権運営の手段として活用されることもなかった。 古代メソボポタミア、イスラエル、エジプト、中国、ギリシャ、ローマで単式簿記が 実践されていたことはわかっている。 ギリシャ人やプトレマイオス朝のエジプト人やアラブ人は高度な文明を開花させ、 幾何学や天文学にも長けていたにもかかわらず、 利益や損失の計算に欠かせない複式簿記を発明するにはいたらなかった。
イタリアの商業都市国家における数学の発展
一ニ〇二年には、ピサの商人レオナルド・フィボナッチ(一一七〇〜一二五〇年)が 算術に関する歴史的な著作『算盤の書』(Liber abaci)を書く。 フィボナッチは、地中海の港湾都市ブージ(現在のアルジェリアのベジャイア)との貿易を通じて 算盤とアラビア数字を学んだ。 この本は、筆算のやり方から始まって、加減乗除から分数、平方根、連立方程式にいたる 数学問題の解法を教える実用的な教科書とも言えるものだった。
フィボナッチ数列も『算盤の書』で紹介された。
フィボナッチ数列は「それ以前にもインドの学者であるヘーマチャンドラ (Hemachandra) が韻律の研究により発見し、書物に記したことが判明している」 ( Wikipedia )という。 ヘーマチャンドラはジャイナ教の僧侶であった。
なぜ中世イタリアで複式簿記が発明されたのか
中世イタリアの商人は、古代ギリシャ人も、ペルシャ人も、ローマ人も、アジアの皇帝も、 そして封建時代の領主もできなかったことを、はなばなしく宣伝することもなく、 世問の注目を集めることもなしに、ひっそりとやってのけた。 複式簿記を発明したのである。 これは、利益と損失の明確な把握につながる革命的な第一歩だった。 なぜ彼らにできたのか──イタリアの商人は、仲間で資金を出し合って貿易を行う 共同出資方式を採用しており、そのために各人の持ち分や利益を計算する必要があった。 そこで、「必要は発明の母」という言葉通りの結果を出したわけである。 誰が最初だったかははっきりしないが、 トスカーナの商人たちが複式簿記を発展させたことはまちがいない。 資料を巡っていくらか議論はあるものの、最も早い複式簿記の例は、 リニエリ・フィニー兄弟商会の帳簿(一ニ九六年)か、 ファロルフィ商会の帳簿(一二九九〜一三〇〇年)だとされている。
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ただ、一三〇〇年順のイタリアでなぜ複式簿記が誕生したかについては、 次のような説明が定説になっている。 まず、アラビア数字が使われていた。 さらに、貿易が発展し、多くの資本が必要になって、共同出資方式が考案された。 そこで帳簿は、単に所有しているものの記録ではなく、 出資者への利益配分を計算するための記録となっていった。 会計は、収入と支出を集計するだけでなく、 投資家に還元すべき利益剰余金の累計を計算するために活用されたのである。 複式簿記なら、投資家の取り分を長期にわたって分割して払い出す場合にも、正確に計算できる。 出資金の払い出しは債務の返済と同様の扱いになり、 数年にわたる分割払いでも、ある時点の未済残高を示すことができる。
2. 第2章 イタリア商人の「富と罰」
教会法で金貸業が禁じられていた一四世紀のイタリアでは、商人と銀行家は常に罪の意識に苛まれていた。 だが、最後の審判を恐れるその信仰心こそが、会計を発展させたのだ。 彼らの秘密帳簿は、それを示している。
教皇庁との金融取引
ダティーニが活躍した時代には、複式簿記には経験と数学的理解力だけでなく、 物理的に何冊もの帳簿に分かれていたため、帳簿から帳簿へ情報を転記する緻密さや、 帳簿と帳簿の関係性を理解し分析する能力も必要だった。 現代人の目には、ダティーニの会計システムは革と羊皮紙と紙と木の塊としか見えないだろるう。 この会計システムの仕組みが解明されたのは、じつに彼の死後一世紀経ってからのことだった。
快楽の追求と鉄の職業倫理
資本主義はプロテスタントの職業倫理から発展したというマックス・ウェーバーの有名な主張は、 自制心、満足の先送り、快楽の抑制といったものを根拠にしている。 われらがダティーニは、女奴隷を愛し、狩猟を好み、贅沢な衣裳を身に着けていた。 それでも彼の帳簿は、西欧の初期の資本主義的職業倫理が、国際的な貿易を展開し、 キリスト教を信仰し聖人を愛し、コンスタンティノープルとオスマントルコの影響を受けた イタリアの商業世界で育ったことを教えてくれる。 イタリア人は共同出資方式や銀行や複式簿記といった複雑な仕組みを発明したが、 これらはどれも鉄の職業倫理を必要とする。
銀行家と商人を悩ませた罪の意識
ダティーニは、自分の商売や会計が世間に快く受けとめられていないことを、けっして忘れなかった。 なにしろ当時は、金を扱う職業や会計慣行の大半は教会法に反していたからである。 教会法は厳格に施行されはしなかったものの、ともかくも金貸業を禁じていた。 よきトスカーナ人であるダティーニは、信心深いが富の追求にも熱心だった。 「神と利益の名において」というモットーは、相容れない二つの概念を結びつけようとする 彼なりの試みだったと言えよう。
今日では想像しがたいことだが、中世の銀行家や商人には罪の意識がまとわりついていた。 聖アンブロジウス(三三七〜九七年)は、高利はおろか利子をとって金を貸すこと自体を非難し、 もらった以上にとることは罪だとした。
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富と信心の両方を追求する中世の商人にとって、利益は悩ましい問題だった。 中世イタリアの商人は帳簿をつけてはいたものの、 「最後の清算」を行うのが人間ではないことを片時も忘れたことはない。 それをするのは神である。 とはいえ人間には善行をすることができたし、 生前に善行をしておけば神の審判を受けるときに備えて大いに意味があると考えられた。 罪は善行で埋め合わせられる、というわけだ。 教会も積極的にそれを後押しした。 罪は会計と結びつけられ、むしろ罪なしには会計の発展はなかったと言えるほどである。
ダティーニは自分が神のために金儲けをしているわけではないことをわきまえており、 そのことは繰り返し手紙にも書いている。 彼は自分の富と罪を数え上げ、神に対する負い目(dept)を計算した。 ただし勘定を締めるのは、人生の最後を迎えたときだけである。 この「心の借り」を返すことが悔悛だとすれば、これもまた会計的概念の一種と言ってよかろう。 このように金銭の会計は心の会計と対をなしており、精神生活の重要な部分でもあった。
最後の審判に見る『心の会計』
おそらく使徒ヨハネは、マタイの会計にまつわる逸話や比険に刺激を受けて「黙示録」を書いたのだろう。 黙示録では、神の「命の書」のことがくわしく説明される。 神は言わば帳簿をつけていて、天国へ行く者と地獄へ堕ちる者との最後の審判を下す。
免罪符という発想
大方のキリスト教徒にとって、善行と悔悛に加えてキリストの血の代償によって罪を帳消しにでき、 死後に煉獄であまり苦しまずに済むという教えは、 会計の概念と接した初めての経験だったと言えるだるう。 心の会計の借方と貸方と差引残高は、救済を得るために欠かせない。 一二〇六年から〇九年にかけてパリ大学総長を務めたクレモナのプレポスティネスは、 さらに踏み込んで、金を払った者は赦免を受けられると述べている。 蓄積された罪の負い目は、いまや金貨や銀貨で返せるというのである。 プロテスタントは、中世の伝統が異質な商業的要素をキリスト教に持ち込んだと非難したが、 実際には旧約聖書にも、マタイによる福音書にも、アウグスティヌスにも、 そうした要素はつねに存在した。 信心とキリストの血で罪が贖えるというキリスト教の中心的な教義にすら、 商取引のニュアンスが認められる。
地獄を恐れたダティーニ
ダティーニの帳簿の収支尻がつねに黒字であることは、 神に対する負い目は増える一方であることを意味した。 つまり帳簿は、利益を示すと同時に、罪の償いとして神に払うべきものも示していたと言える。 ダティーニはとりたてて信心深いわけではなかったが、 神への負い目をどうやって払うべきかはつねに考えていた。 一三九五年に四旬節の説教を間いたダティーニは、 「私は、およそ人間が犯しうる限りの罪という罪を犯してきた。 自制ができず、欲望を抑える術を知らなかった……だから、この償いは喜んでするつもりだ」。 彼は当時の人々がみなそうだったように、最後の審判を恐れていた。 ペストの惨禍を見れば、地獄の恐ろしさはおおよそ想像がつく。 しかも、第二波の流行がフィレンツェや東ヨーロッパに近づいていた。 記録によれば、ダティーニはビアンキの聖地巡礼に加わり、 白装束に身を包んで裸足で一〇日間歩く悔い改めの行をしたという。
3. 第3章 新プラトン主義に敗れたメディチ家
一世代ですべてを失ったメディチ家
メディチ銀行の実力者たちは会計を活用して銀行業を発展させ、 文化の面でも政治の場でも圧倒的な存在感を発揮する。 どんな名家といえどもこれほどの権勢を誇ったことはなかった。 だが一世代のちには、彼らはほとんどすべてを失ってしまう。 単に会計が杜撰だったからではない。 後継者にとって会計が必須の知識であることを忘れてしまったのだ。 その結果、メディチ家の権力には、銀行業の裏付けがなくなった。 この変化は必ずしも自ら選択したわけではないが、 メディチ家自身が銀行を破綻させたことは事実である。
4. 銀行経営に必須だった複式簿記
富はコジモの力の源泉である。 彼は金儲けがうまかったが、その多くは金の管理がうまかったことに起因する。 コジモは当時としては最高水準の人文主義的教育を受けただけでなく、 メディチ銀行のローマ支店で金融と会計の実務も経験していた。 ロローマ支店は教皇の勘定を扱っており、そこで彼はビジネスのあらゆる面に精通したのである。 すでに当時は複式簿記は必須であり、たとえば多くのギルドも複式簿記を義務づけていた。 金銭を巡る紛争が発生した場合には、複式簿記による元帳は法的文書として法廷に提出される。
5. 第4章 「太陽の沈まぬ国」が沈むとき
なぜ世界初の複式簿記の教科書は無視されたのか
複式簿記についての世界最初の教科書というべき『算術、幾何、比及び比例全書』 (全書を意味する『スムマ』と略称される)が印刷された一四九四年という年は、 皮肉にも、ヨーロッパにおけるイタリアの力が衰退し始めた時期だった。 この年はイタリア戦争の発端となった年であり、 イタリアは歴史上初めてフランス、続いてスペインの侵攻を受けている。 『スムマ』を書いたのはフランチェスコ会修道士にして人文主義者、 数学者のルカ・パチョーリ(一四四五〜一五一七年)で、 同書の第一部第九編「記録および計算について」で簿記が取り上げられている。 複式簿記はこれより二〇〇年前からすでに存在していたが、その実際的な方法論が、 印刷技術の普及と相俟って比較的入手しやすい形で世に出たのは、初めてのことである。 しかしこの世界初の会計の入門書は、その後一〇〇年にわたって商人からも思想家からも無視された。
レオナルド・ダ・ヴィンチとも親交があったパチョーリ
特筆すべきは、パチョーリがレオナルド・ダ・ヴィンチと親交があったことである。 パチョーリは「人間の中の王」だとダ・ヴィンチを評している。 ダ・ヴィンチは、比例や幾何学の勉強のために、 一二面体(左頁のバルバリによる肖像画にも描かれている)やプラトンの五種類の正多面体を よくスケッチしていた。 そして三次元の表現についてパチョーリと何度も話し合っており、 『最後の晩餐』(一四九五〜九六年)を描く際には、 透視図法と比例についてパチョーリの助言を受けたと言われる。
イタリアは共和制から騎士道の時代へ
だが残念ながら、パチョーリの望みは叶わなかった。 ルネサンス期の基準から見て、『スムマ』がとりわけよく売れたとは言いがたい。 初版の一四九四年版はきわめて少部数だったため、二版が一五二四年に印刷されたが、 これもごくわずかだった。 当時の貴族や上流階級はまだ商人文化はなやかなりし頃をよく知っていたが、 わざわざ会計の本を買う必要は感じなかったのだろう。 メディチ家の銀行家たちの孫は、もはや銀行家ではなくなり、教皇になった者もいた。 ローマのキージ家などの名家はまだ商人だったが、同時に人文主義者でもあり、聖職者も輩出していた。 彼らにとっては、算術も幾何学も富や芸術や教養の追求に役立つはずだから、 パチョーリの本は価値があったはずである。 だがイタリアの商人や富裕な地主の間では、会計は現場で実地に身につけるか、 あるいは会計専門の学校で教わるものとされていた。
とはいえ、イタリアで、いわば国産の会計入門書が容易に入手可能になったことは事実である。 さまざまな資料から、『スムマ』の会計に関する部分だけが抜き出され、 ヴェネツィア式複式簿記の指南書として出回ったらしいことがわかっている。 これが、『スムマ』がイタリアであまり売れなかった理由かもしれない。
イエズス会でもタブーとされた会計
一五三四年に設立されたイエズス会は、数学教育を重視したが、これも商売のためではない。 とはいえイエズス会士自身は、ちゃんと帳簿をつけていた。 彼らはイエズス会を規律正しく運営するために会計を学び、膨大な事業を切り回す術を学んだ。 彼らはまた、「心の会計」システムも整え、心の帳簿に罪や善行を刻みつけた。 イエズス会は応用幾何学、航海術、天文学から軍事工学まで教えたことで有名だが、 それでも会計は教えなかった。 イエズス会はのちに王族の教育にも携わるようになるけれども、 これでは王様が王国の決算をできなかったのも無理はない。 当時、商業会計はまるでタブーのように避けられていた。
6. 第5章 オランダ黄金時代を作った複式簿記
オランダ東インド会社が築いた一大貿易帝国
オランダ社会のすみずみにまで商取引が浸透するにつれ、 複式簿記は当然身に付けるべき知識だという認識が広く行き渡る。 貴族、大商人から行商人、娼婦にいたるまで、オランダ人は自分たちの小さな商いを切り回し、 誤りを防ぐために、複式簿記をマスターしよとした。 複雑な株取引が行われるようになった背景もあり、オランダの商人の金融知識は、 先輩格のイタリア商人や隣国ドイツの商人を上回るようになる。
一六世紀に急増した会計学校
会計の手引書も続々と刊行されている。 ヤン・インピン・クリストッフェル(一四八五〜一五四〇年)は、パチョーリの『スムマ』をもとに、 初めてオランダ語の簿記書を書いた。
パチョーリの『スムマ』と決定的に異なるのは、「帳簿締め切り手続き」の章で 売れ残り商品を明確に認識している点である。 これは、一定期間を区切って損益を計算する「期間損益計算」の先駆けであり、 のちの年次決算につながる画期的な考え方だった。 『新しい手引き』はフランス語、続いて英語に翻訳され、 オランダのほか、イギリス、フランス、ドイツでも広く読まれた。
マウリッツが成し遂げた史上初の改革
「皇子のための会計」は、タイトルにふさわしく、 国家の財政管理に複式簿記を推奨した点が特徴的だ。 ステヴィンは、商人だけでなく統治者にも会計知識が必要だと説き、 そんなものは不要だと主張する輩を一蹴した。 政府が負債を抱え財政が混乱するー方で、役人が裕福になっていくのはどうしたわけか、 とステヴィンは手厳しく問いかけている。 そして、無責任な財政運営が国を破綻させるのだ、と断じた。
オランダ総督となっていたオラニエ公マウリッツは、ステヴィンの指摘に衝撃を受ける。 そして、簿記を理解するのはむずかしいが、自分はもっと勉強する、と誓った。 マウリッツは自分の財産を管理する私設秘害に複式簿記で帳簿をつけさせただけでなく、 オランダの国家財政にも複式簿記を活用した。 かくしてオランダは、スペインが最後までできなかったことをやり遂げる。 共和国とはいえ、統治者が複式簿記を学び、それを政権運営に導入したのは歴史上初めてのことだった。
オランダ東インド会社を支えた治水の伝統
オランダ東インド会社を動かすのは、一七人会と呼ばれる重役会と、 役員に相当する大口出資者六〇名である。 株はアムステルダム取引所で取引され、 VOCは史上初の株式会社として資本主義の歴史に永久に名を残すことになった。
7. 第6章 ブルボン朝最盛期を築いた冷酷な会計顧問
アダム・スミスも賞賛した能力
コルベールは、重商主義の理論で知られる。 これはフランスの立場から言うと、世界には限られた富しかない、したがってフランスは産業を興し、 富がオランダとイギリスに向かわずフランスに流れ込むようにしなければならない、というものである。 そのためにコルベールは国が出資する独占企業を発足させ、 新世界にフランスの小帝国を築こうとした (その帝国はルイジアナ州の河口地帯にあり、当時ミシシッピ川はコルベール川と呼ばれていた)。
会計の技術は「会社」から「国家」へ
よき監査責任者になるためには、国王は簿記の基礎を学ぶ必要があるとコルベールは進言し、 パチョーリの『スムマ』に基づく教科書を用意した。 コルベールの教科書がパチョーリと異なる点は、「会社」が「国家」に置き換えられていることである。 つまり複式簿記を国王のための技術に作り直すという画期的な試みをもしたわけだった。 さらに帳簿の分類・組織化も教えた。
ルイ一四世が持ち歩いていた帳簿
人文主義者ならギリシャ古典か箴言集などを持ち歩くところだが、ルイ一四世は元帳を持ち歩いた。 会計がこれほど王政の中枢に近づいたのは、初めてのことである。 ルイ一四世は伝統的な人文主義的教育と、 コルベールや学者たちから教えられた実務知識や法律知識の両方を身につけた。 古典の教養が大切であることは言を俟たないが、 一国を効率的に運営するとなれば、教養だけでは足りない。 国王ルイ一四世と財務総監ジャン=バティスト・コルベールによって 会計と伝統的教育はみごとに融合され、巨大国家の統治に力を発揮したのだった。
8. 第7章 英国首相ウォルポールの裏金工作
南海バブルの崩壊にどう対応したのか
だがイギリスは、南海泡沫事件から立ち直った。 それができたのは、当時他の国が持ち合わせていないものがイギリスにはあったからである。 それは、オランダ以上に会計が発展していたこと、 そして会計を重視する文化が政治にも浸透していたことである。 こうした文化があったからこそ、政権に復帰したウォルポールは南海会社を救済し、 イギリスの信用市場を立て直すプランを設計できたのだった。 南海泡沫事件の後日澤は、財務会計の重要性と困難さを浮き彫りにするとともに、 どれほど有能な人間でも投機の甘い誘悪に打ち克つのがいかにむずかしいかを雄弁に物語っている。
ニュートンさえも欲に目がくらんだ
ウォルポールが南海会社の計画の支持に傾き、まさに自己資金を投じようとする頃に、 金融にくわしい下院議員のアーチバルド・ハッチソンが、南海会社の適正株価の試算結果を発表した。 イギリス議会は慢性的に汚職と党利の巣窟であったが、 その中でハッチソンは高潔と見なされていた人物である。
そのハッチソンは 一七二〇年に「南海会社とイングランド銀行の提案に関するいくつかの計算結果」を発表する。 これは会計の領域を超えて財務分析という新たな領域に踏み込むものだった。 南海会社の株価には、当然ながら仮想の利益が織り込まれていた。 南海計画では、ともかくも株価が高いほど国債との交換に必要な株数が減り、 利益が多くなる仕組みになっている。 ハッチソンは割引キャッシュフロー法と年金表を使って、 現在の株価が適正であるために必要な利益を計算した。 ハッチソンの見立てによると、新株発行により政府に債務が返済されれば、政府は儲かる。 ブームの初期段階で安く株を買った投資家も、利益を得る。 だが新たな投資家は大損を被る羽目に陥る。 後発の投資家が侍けを手にするためには、 現実にあり得ないような巨額の利益を会社が上げなければならない。
イギリス史上最長の政権を支えた裏金工作
こうした財政操作のおかげもあって、ウォルポールの地位は安素だった。 一七三二年には、ジョージ二世からダウニング街一〇番地の邸宅を賜っている。 ウォルポールはありがたくそこに住むことに同意したものの、賢明にも公共心を発揮し、 首相官邸として政府に寄贈することを決めている。 しかしイギリスの事実上の初代首相として長期政権を築いたウォルポールも、 ついにその座を去るときが来た。
9. 第8章 名門ウェッジウッドを生んだ帳簿分析
なぜイギリスで産業革命が起きたのか
イギリスの産業を支えた要素の一つは会計であり、 同国ではすでにオランダ以上に会計の文化と教育が温透していた。 中世以降、グラマースクール(伝統的な中等学校)では少年たちに会計を教えていた。 かつてのイタリアとオランダの教育モデルに倣って、大学進学と就職の両方の準備をさせたのである。 産業が拡大するにつれて会計専門家の需要が強まるという好循環が続き、 やがて会計は、商業を重んじるエリート層にも必須の知識とみなされるようになる。
女性にも必要とされた簿記
スコットランドでは、古典教育と商業教育が同時に行われた。 たとえば一七二七年にはスコットランド南西部のエア・グラマースクールで、 ジョン・メイヤーが算術と簿記などを教えている。 メイヤーはのちに 『組織的簿記』(一七三六年)を出版するが、同書は一七七二年までに九版を重ね、 英語で書かれた簿記書としては今日にいたるまで最も影響力のあるものとされる。 会計はグラマースクールで教えられただけでなく、会計の専門学校も全国に設置された。 会計士は明晰な文章を書く必要があることから文書の書き方も教えていたため、 「ライティング・アカデミー」と呼ばれ、 ケンブリッジやオックスフォードをめざす生徒も通っていたという。 将来海軍や政府で働くことになれば、すぐにでも会計が必要になるからだった。
科学の力を信じていた非国教徒たち
多くのアカデミーを経営していたのは、ディセンターと呼ばれる非国教会信徒である。 彼らは英国国教会の信仰箇条を受け入れない限り、清教徒と同じく教会から締め出され、 公職に就けず、大学にも入学できなかった。 非国教徒は幸福、自律、科学の進歩、救済を信奉し、 マックス・ウェーバーが職業倫理の理想としたあの 啓蒙時代のプロテスタンティズムを独自の流儀で体現していた。 彼らが会計を重んじたのも、こうした信仰に由来する。 非国教徒は、科学的合理主義や自然科学をキリスト教と結びつけるイギリスの伝統に従い、 数学によって解き明かされた秩序、調和、進歩を信じた ──これらはまさに、アイザック・ニュートンが理想としたものである。 信心深く規律正しいこの人たちにとって、会計は勤勉さを表現し、 神から与えられた繁栄を忠実に維持するために欠かせないツールだった。
会計技術は産業の発展に追いついていなかった
だがイギリスの商人たちの自信ありげな様子とは裏腹に、 会計技術の進歩は『スムマ』以降停滞し、産業の発展に追いついていなかった。
ウェッジウッドも例外ではなかった。 こうして、より正確な原価計算の取り組みが始まる。 ごく原始的な原価計算は中世の頃から存在したが、人件費や原材料費、機械設備費を評価する方法は まだ確立されていなかった。 原価がわからない限り、また新しい機械がちゃんと働いていつ元をとれるのかがはっきりしない限り、 投下した資本がどれだけ利益を生むのか、把握することはできない。
確率の概念を取り込んだ原価計算
のべつ酔っぱらっている「無価値な職工」についてたびたび愚痴をこぼしていたウェッジウッドは、 労務管理の効率化にも熱心に取り組んだ。 児童労働者と成年労働者の費用対効果を比較したほか、工程ごとに専門の職人を雇い、 賃金は歩合制にしている。 さらに革新的なのは、過去の販売実績に基づいて将来予想を立て、 それに基づいて生産計画を準備したことである。 また消費者の購買行動を観察し、消費者心理を分析した点も新しい。 ウェッジウッドの見るところる、富裕層は多少値段が高くなっても気にしない。 しかしほんのわずか値段を上げただけでも、中流層は買わなくなってしまう。 したがって、富裕層向けと中流層向けの製品は別々に開発する必要がある、と結論づけている。
会計委員会を復活させた小ピット
小ピットの秘書官を務めていたジョージ・ローズは、 国家財政がこれだけ公明正大になったのはイギリス史上初めてのことだったと一八〇六年に回想している。 ローズによれば、国家の歳入・歳出に複式簿記を導入し、さらにこれを公表することによって、 市民の不安を鎮めることができたという。 戦争、経済危機、債務の膨張、社会不安が重なった末に、ようやく財務会計の改革が実現したのである。 もっとも口ーズの主張とは裏腹に、多くの監査官は、 国家財政の全貌をあきらかにすることは困難だと感じていた。 会計委員会がほんとうの意味で改革を完了するのは、 じつに五〇年後の一八三ニ年、 第一回選挙法改正が行われて腐敗選挙区が一掃されるのを待たねばならない。
10. 第9章 フランス絶対王政を丸裸にした財務長官
徴税請負人の制度は腐敗しきっていた
フランスで経済に関して発言力を持っていたのは、重農主義者である。 重農主義者は経済危機に瀕したフランスでは農業のみが生産的であるとし、 国家の富の源泉を農業生産に求めた。 彼らはグランドテザインを描き、データも活用してはいるものの、 パーリ兄弟がやったような予算や債務の分析とは無縁だった。 フランソワ・ケネー、ヴァンサン・ド・グルネー、ジャック・テュルゴーを始めとする フランスの経済思想家が後世に残したものの中で最も有名なのは、「自由放任」である。 この概念は、自然法の自由に基づいている。 彼らはアダム・スミスよりも前に、 政府の補助金や価格統制やギルドによる独占を廃止すれば「見えぎる手」が農業生産を活性化し、 国富を増やすと考えた。
『会計報告』で芽生えた新たな政治観
一七八一年、ネッケルは『国王への会計報告(Compte Rendu au Roi)』を公表する。 その年の王家の財政をくわしく説明した報告書という体裁である。 フランス絶対王政の歴史において初めて、財務担当大臣が自ら財政運営の報告責任を果たし、 計算結果を国民に公表するのだとネッケルは誇らしげに述べている。 それによると、国家財政は一〇ニ〇万リーヴルの黒字ということになっていた。
会計改革の道筋を作ったフランス革命
結局フランス革命は、責任ある代議政治の確立にはいたらなかった。 それでも、財務リテラシーと会計責任の文化を政治に持ち込み、 未来の会計改革への道筋を作ったことはまちがいない。 ネッケルの『国王への会計報告』は、 国家のバランスシートによって政治を判断するという考え方を示し、近代的な公会計の第一歩を記した。 ヨーロッパの多くの国が、さらにはアメリカも、これに倣うようになる。 たとえば、のちに神聖ローマ皇帝となるトスカーナ大公ピエトロ・レオポルドは、 一七九〇年に国家の財務報告を行っている。 立憲政体が確立したイギリスから揺籃期のアメリカにいたるさままな国が 『会計報告』とフランスの会計改革に注目した。 長らく国家財政の責任とは縁遠い国だったフランスは、 こうして近代的な責任ある国家の基準を輸出するにいたったのだった。
11. 第10章 会計の力を駆使したアメリカ建国の父たち
ベンジャミン・フランクリンの会計簿
フランクリンの帳簿を見ると、生活のあらゆる面を会計の原則に従って管理していたことがわかる。 別の言い方をすれば、分散する興味を結びつけるものが会計だったと言えよう。 フランクリンの会計に対する姿勢は、一七世紀フランスの財務総監コルベールに通じるものがある。
郵便の複式簿記を編み出す
フランクリンは、郵便の記録方法を考案し、そのための書式を用意することによって、 郵便の複式簿記を編み出したと言えよう。 この意味でフランクリンの指図書は、複雑な郵便システム用に特化した まことに画期的な会計マニュアルと見ることができる。 支出と料金未納郵便物は「借方」に、収入と配達不能郵便物は「貸方」に記帳される。 指図書には「B・フランクリン」と署名があった。
12. 第12章 『クリスマス・キャロル』に描かれた会計の二面性
ダーウィンの進化論にも複式簿記の発想が
ジェレミー・ベンサムが複式簿記形式で幸福計算を試みたのに対し、 トーマス・マルサスは『人口論』(一七九八年)の中に平衡という概念を導入している。 人間の生存資料(端的に言えば食糧)と人口を平衡させなければならないと考えたのである。 そして「悲観的なベンサム」とも言うべきマルサスは、 「(生存資料の増加率よりも)優勢な人口の増加率は、罪悪と窮乏を生ぜずしては妨げ得ない」という 結論に達する。 マルサスは、自然の法則や人口統計といった新しい言葉と、 均衡や決算といった中世以来の古めかしい言葉を混ぜて使っている。 人口の会計士として、彼はダンテから魂の問題を取り除き、バルザックやディケンズよりも先に、 人間の存続は「罪悪や窮乏」によって帳尻が合うという発想をしたのだった。
13. 日本版特別付録 帳簿の日本史 (編集部)
江戸時代には独自の複式簿記が存在していた
日本の帳簿に革命が起きるのは、江戸時代になってからだ。 江戸時代には、日本三大商人と呼ばれる伊勢商人、近江商人、大阪(大坂)商人の間で、 独自の複式簿記が使われるようになった。
もちろん、それは西洋の正式な複式簿記とは異なり、筆による縦書きで、 ゼロがなかった(十進法ではあるものの、算盤での計算においてゼロは「飛んで」と読み上げられるため、 帳簿にも記載されなかった)が、損益計算書や貸借対照表にあたるものが存在してあり、 また一部には減価償却の概念も取り入れられるなど、 西洋式のものと比べても機能的に遜色のない帳簿であった。 江戸時代の商人たちは、この「日本流複式簿記」と算盤を手に、 世界の中でも非常に高水準の帳簿をつけていたのである。
この時代、彼らが複式簿記を生み出すことができたのは、 急速な経済発展という背景があってこそだった。 その中心になったのは大阪である。 当時の大阪には、各藩が年貫米や特産物を販売するために設置した蔵屋致が置かれており、 全国からあらゆる物資が集まっていた。 また、堂島の米市場では世界初の先物取引 (未来の売買について、前もって価格や数量を約束する取引)も行われており、 大阪は「天下の台所」として、日本経済・商業の拠点となっていたのである。
一方で、この時代の経済発展は、江戸の大量の消費者によっても支えられていた。 一八世紀の初めには、江戸の人口は一〇〇万人を超えていたと考えられており、 これは当時のパリやロンドンをも上回る、世界最大級の大都市だったのだ。 また、当時は江戸を中心とした東日本では金貨が、 そして大阪を中心とした西日本では銀貨が主に使われていたため、その両替を行う両替屋も誕生した。 このように、流通や金融が高度に発展していく中で、日本においても複式簿記が生まれたのである。