2025-01-03 00:31:00+09:00

岩井克人からピーター・ティール、エドマンド・バーク、石橋湛山、分国法、等々

断章──朦朧とした頭でよき社会秩序を妄想する

【経済学者・岩井克人氏に聞く】トランプ政権誕生と生成AIの衝撃――2025年、日本の針路は? (フォーサイト) 』 を読んで。

久しぶりにみたなあこの人と半分懐かしさで読み始めたが、 今考えていることの欠落を埋めるようなことが述べられていた。

1. アメリカも強権主義サークルに?

トランプによってアメリカが強権主義サークルに入る可能性。

第二期トランプ政権= ピーター・ティール (とイーロン・マスクか)、という見方が大分広まってきたが、 ピーター・ティールの思想に強権主義を見る、というのは一見ピンとこないかもしれない。

強権主義というよりはエリート主義か?

強権主義とされるロシアや中国も、それを手段と考えれば、目的はエリート主義の実現であるともいえる。

エリート支配の正統性の確保のために使うのが強権だったりポピュリズムだったり、その他なんたらイズムだったりして時と場所によりその配分が変わってくる、とでもいえばいいか。

その結果現われる社会は、支配者からみればユートピア、被支配者からみればディストピアだが、 使うなんたらイズムによっては、被支配者は進んでディストピアを選択するかもしれない。 プーチンや習近平の強権による支配も、実は多くの国内の支持層を担保することで可能になっているはず ともいえなくもないし、なんだかんだいってもこれでまあよいか、という層が政権を維持できるだけ いるはず、ということ。

ただ、被支配者からすれば、進んでにせよ強制されるにせよ、 自由と希望を諦める世界、ということにはかわりない。

進んでなら自由と希望を諦めてもよいのか?というのが、つまり目下こちら側で持ちあがってる問題、 ともいえようか。

2. ディストピアから逃がれるには

この事態自体はしかし、もう数十年前から予測されていたことでもあり、 それに対して取るべき道も昔と変わらず(結局事態は進んでも可能性の在処は変わらんのだ)、 「アメリカのように自由放任主義にも陥らず、逆に中国のような監視社会にもならない。 その二つのディストピアの間で、いかにバランスをとっていくか。 それがこれからの日本の生き方でもあると思うのです。(岩井)」 ということ。

問題は、そのための羅針盤が失われて久しいということ、冷戦終結後顕著になった事態。

姿勢という意味でいえばそれこそ儒教でいう「中庸」といったようなものが必要だが、 それはあくまで姿勢の話であって個別具体の行動においてどうすべきか、 という方法論はそれだけではできない。

3. エドマンド・バーク、石橋湛山、J・S・ミル、シュンペーター、フリードマン

これもトランプとの関連で最近注目されているアメリカの保守主義、 その源流とされる バークの保守主義 、 元々保守主義を検証して新たに定義しなおせれば役に立つのでは、 とバークを読み始めてみたのだがこれがなかなか大変で(端的にいえば面白くない…)まだ途中なのだが、 とにかく読んでしまって、それを踏まえた上で オーウェルやバーナム 、 さらには ドラッカー 等を 検討する必要があろう。

一方で国内ではこれも以前に増して 石橋湛山 の小日本主義が注目されるようになったが、 それで知ったのは湛山思想のベースは、J・S・ミルだということ。

さらに経済の面では、これも最近知った シュンペーターについての新しい見方 とか、 引用記事にもあるフリードマンに対するあらためての批判などを通して考えてみること。

4. その地における伝統について

バークの保守主義は実際に読んでみると、保守主義だから伝統重視なのはもちろんとして、 その「伝統」とはイギリスのバークにしてみれば、要するに名誉革命のことだったりする。

似たような視点で本邦の保守主義を考えるとすれば、 当然本邦の歴史に残るよき伝統を見つけ出す、ということになるが、 これについては、よくいわれるのだが、五箇条の御誓文や十七条憲法でいいじゃないか、と。

しかしそれにはどうしても違和感があった。 そのの正体は「統治権の正当・正統性」を持ち込むことによって明確にできる。

簡単にいえば、五箇条の御誓文や十七条憲法は統治権者からのメッセージであるのだが、 その中に自らの正当・正統性が拠ってきたるものへの意識がないということなのだ。

何によって自らの権力行使が可能になっているのか、それをメッセージの前提として盛り込み、 負う責任を明確にしてこそ、様々な権力は可能になり、その責任が全うできないとされたときには、 権力行使は不可能になる。

バークにおいてもそれは明確に述べられている。 ただし、その正統性が名誉革命を経た歴史によっても大きく担保されているところが保守たる 由縁だろうか。

一方、 最近の歴史学において、貞永式目や、あるいは一部の戦国時代の分国法を 「日本のマグナ・カルタ」として注目するような動きがある が、 これらと、十七条憲法や五カ条の御誓文を比較してみる必要がある。

もっともそうしたとしても、本邦においてはなぜか統治権の正当・正統性が厳しく評価されることがない、 それはなぜか、という疑問の答えが与えられるわけではないのだが。