五箇条の御誓文の成立過程 ( 参考 )。
五箇条の御誓文の原案は「会盟案」と呼ばれ、起草の中心となったのは、由利公正と福岡孝弟。 もともとは横井小楠の民主主義思想や土佐藩の公議政体論に影響された内容だった。
五箇条の御誓文との異同をみると、会盟案にあった、
- (1) 列侯会議を興し、万機公論に決すべし。
が、
- (1) 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
と変更され、
- (5) 徴士、期限をもって賢才に譲るべし。
が削除されて、かわりに、
- (4) 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
が挿入された。
「徴士、期限をもって賢才に譲るべし。」はここではおくとして。
「列侯会議を」が「広く会議を」にぼかされたについては公卿たちから出た異論に岩倉、三条も 同調したゆえ、とあり、その理由は、 「これ異国の体に倣えるものであり、神武天皇の古えに復る神国の体ではない」(『維新史』)とのこと。 「広く会議を興し」といってもその実がどうなるかは具体的でなく、結果としては、 最終的には帝国議会に結実するとはいえ、それまでは公卿も含め、維新の功臣達が 仲間内的に政権中枢を占めるいわゆる薩長藩閥政治が続いたことは周知の事実。
そこには列侯会議で想定されていたであろう、旧藩主を中心とした合議制の影もない。 もちろん、その後の戊辰戦争を通じて彼らの(特に有意とされた面々は)賊軍の範疇に入れられたから、 王政復古から戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県を通じて首尾よく退場させられた、ということなのだが。
従来のイメージからすると、列侯が薩長土肥の主に下級武士がとってかわったからといって、 何が違うのか?と感じるのも無理はないが、 近年の徳川幕藩体制における幕府中枢および各藩主の事績研究を鑑みるに、 もし実現していたら相当に違う明治維新となっていたのではないか、 という想いはつのる。
二十年早く立憲君主制が実現していた、というのは勿論として、 その内実も、徳川二百六十年の間につちかわれた統治権のあり方についての思想が活かされたならば、 その質も相当に高いものになっていたのではないか。
主に儒教の影響だろうが、特に元禄から幕末に至る中で、徳川政権とその周囲には、 統治権の正統性について合理的な考察がなされ、 その結果、あくまで封建制を逸脱しない範囲ではあるが、 相当に民主的な政治思想が育まれていたとみえるからだ。
公卿たちや薩長土肥の下級武士たちというのは、程度の差はあれ統治の経験という点では 怪しいところが多いわけだし、だからこそ、「錦の御旗」を押し立てて、 ことさらに天皇の権威や日本の神国性を強調する必要があった。
そのことが、明治という時代にもたらした歪みは無視できないのではないか。
列侯会議が実現し、その中で、彼らが身につけていた統治権の正統性の思想が、 たとえば、イギリスの権利章典のようなかたちで明文化されていたら…。