読書中であった。
『 新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権 NHKスペシャル取材班 』
井上章一の「日本には古代はなく中世から始まっている」という説に多大な共感を覚える身として、 このタイトルは若干二の足を踏む気持ちにさせるものではあるが、一方でその時代が非常に気になっている ところでもあり、2025年初頭の刊行ということで、見落している最新情報があるかとの目論見で 読んだ。
日本古代史といえば三世紀の邪馬台国、 五世紀の倭の五王から継体朝に至る時代が様々に論議されているが、 本書でも謳われる通り二つの時期を繋ぐ四世紀は、大陸の資料にも残らず、その姿が明らかになって いるとはいえない。
邪馬台国は九州か近畿か、倭の五王の時代と継体以後との関係は、といった問題は 個人的には大体考えることは考えて、興味は俄然本書でいうその間の「空白の四世紀」に 向かっているところではあった。
本書では『「空白の四世紀」に何が起きたのか』という章立ての部分がそれにあたるが、 読んでみると、既知の富雄丸山古墳とそこから出土した国内最大の「蛇行剣」と今まで出土例がない 「鼉龍文盾形銅鏡」についての記事のみと云ってよく、新たな情報が得られたとは言い難かった。
それよりも衝撃的だったのは、酸素同位体比年輪年代法による纏向出土の木材の年代測定結果である。
それは、二三一年。 卑弥呼が親魏倭王の称号を得る八年前、この測定が正しければ、纏向遺跡はまさに卑弥呼と 同時代に存在していたことになる。
邪馬台国が九州にあったのか、近畿にあったのかについては、これまでの近畿説が根拠としていた 説明が余りに恣意的であること、魏史倭人伝にある邪馬台国の描写が日本であればまさに九州地方 が相応わしいような南方的なものであること等から、九州で間違いなかろうと考えてはいた。
纏向や箸墓古墳の年代が近畿説の学説では三世紀前半に比定されているが、実際には四世紀の 可能性があるとのことから、邪馬台国の時代に近畿にもそれなりの勢力があったのかもしれないが、 それが邪馬台国とは考えにくい。 卑弥呼の死とその後の内乱に続く壱与の擁立の時代を経る中で力を得て、最終的には大和朝廷 となる勢力が纏向を作ったというのはあり得るとは考えていたが、それが二三〇年頃から既に 存在していたとすると、俄然纏向を邪馬台国の都として様々な事柄を再編成することが 可能になる。
纏向には列島各地の土器が出土し、ということは、同じく列島各地から人が集住していた ことになるわけで、出土する土器の形式分類により、ある程度纏向が、ひいては大和朝廷が 当初どのように成り立っていったのかの想定も容易にできてしまう。
思いつくままに書き留めると、
- 卑弥呼はおそらく伊都国から出ている。纏向が都だったとすれば女王になって移動したかもしれない
- 伊都国が邪馬台国連合の主要国の一つであったが、少なくとも九州北部の奴国があった博多あたりから 関門海峡あたりまでの勢力は一線を画していたのではないか
- 纏向=邪馬台国だとすると、投馬国は出雲、狗奴国は東国の中でも後の毛野となる地方としたくなる。 前方後方墳文化圏とされる東国はどこかで邪馬台国連合とそれに敵対する勢力に分裂したのではないか
- 五世紀には毛野も大和朝廷の勢力化になっているが、そうなるのが他の東国より遅れたということだろう
- 従来の一部の説にもあるが、魏の使者は伊都国までしか来ていないのではないか
- 吉野ヶ里や朝倉など北九州に存在する巨大遺跡の文化圏は、 むしろ連合からは自立的な存在であったのかもしれない
- このあたりは九州と朝鮮半島との関係も考える必要がありそうだ
邪馬台国連合の主要勢力は伊都、出雲、吉備、東海あたり(日向の勢力も入る可能性はありそうだが)で、 三世紀後半から四世紀にかけてはこの連合が他の地域の勢力を包含していく過程だったのではないか。
その過程が記紀神話などに反映されているとみたいが、まずはその前に、 酸素同位体比年輪年代法についてもっと知らないといけないと思われた。
というわけで、参考図書。
- 酸素同位体比年輪年代法: 先史・古代の暦年と天候を編む 中塚武
- 気候変動から読みなおす日本史 (3) 先史・古代の気候と社会変化 中塚 武, 若林 邦彦, 樋上 昇
- 気候適応の日本史 -人新世をのりこえる視点- 中塚武
- 季刊考古学168 特集 高時間分解能古気候学の進展と考古学
- 気候適応史プロジェクト
- 酸素同位体比による気候復元の注意点 (note)
- 酸素同位体比年輪年代法の誕生と展開
- 酸素同位体比年輪年代法 (Wikipedia)
というわけだが、纏向から出土する外来系土器の種類や割合についてはいろいろと論議はあるようだ。
このあたりも引き続きみていかないといけない。
以下抜き書き。
1. 第1章 邪馬台国と古代中国
纏向遺跡の年代について。
土器による調査研究につきまとう限界
名古屋大学大学院環境学研究科(古気候学グループ)教授の中塚武さんは、 これまでよりも精密な年代測定法を開発し、一年単位で年代を割り出すことを可能にした。 中塚さんは精密な年代測定の意義を次のように述べる。
「纒向遺跡の日本考古学における位置づけに鑑みると、本遺跡の各々の遺構、 特に布留0式の土器が出土する遺構の暦年代が何年になるかは、極めて重大な意味を持つ。 それは、概ね三世紀後半であると考えられてきたが、 近年の布留0式土器の付着炭化物の放射性炭素年代測定からは、 その年代が三世紀半ばまで遡る可能性が指摘され、より正確な年代決定が期待されている」
古気候学で迫る纏向遺跡の真相
そこで脚光を浴びるのが、先の中塚さんが開発した「酸素同位体比年輪年代法」である。 木材の年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比を、年輪幅の代わりに指標とする方法だ。 「酸素同位体比年輪年代法」の詳細については、 『気候適応の日本史──人新世をのりこえる視点』(中塚武、吉川弘文館、二〇二二年)や 『纒向学の最前線』(桜井市纒向学研究センター、二〇二二年)が詳しい。
遺跡の九九パーセントが未発掘
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼が中国の皇帝から親魏倭王の称号を得たとされるのは、二三九年。 果たして、纒向遺跡の木材は、卑弥呼が活躍した年代のものなのか。
すでに年代がわかっているパターンと、纒向の木材のパターンを比較し、 それが古代から現代までのどこに当てはまるかを探っていく。 纒向から出土した木材からセルロースを抽出して分析機にかけると、一致したのは三世紀。 さらに年代を細かく絞り込むためには、木材が伐採された年を表す、 年輪の一番外側に注目する必要がある。
今回、計測を行った木材は、幸いなことに樹皮がついていたため、 木材が加工されるなどして、年輪の外側が欠けている可能性を排除できた。 すなわち、次のグラフで実線の右端が年輪の一番外側、木材が伐採された年となる。 それは、二三一年。卑弥呼が親魏倭王となる八年前にあたる。 卑弥呼が生きていた時代と合致したのである。
2. 第3章 「倭国大乱」と漢王朝の崩壊
海を渡ってきた戦争の道具
九州北部では弥生中期(紀元前三五〇〜紀元後三〇)の埋葬方法は、ほぼ甕棺に限られていることから、 甕棺数が人口を反映していると想定。およそ一万四〇〇個の甕棺を型式から六つの時期に分け、 人骨の傷の有無についても分析した。
これをさらに九州北部で六の地域に分け、地域ごとの耕作可能面積を推定した上で、 各時期の人口密度や、受傷人骨の割合を調べたところ、受傷人骨が最多だったのは 隈・西小田遺跡がある福岡県の三国丘陵。 弥生中期後半に人口密度が最も高い地域だった。
そして全地域の全時期の統計処理を行った結果、 人口密度が高いと受傷人骨の割合が高くなることがわかったのだ。 研究に関わった国立歴史民俗博物館教授を務めた故・松木武彦さんは、 農耕を始めたことで人間と争いとが切り離せなくなったと語っている。
邪馬台国と狗奴国が争った理由
赤塚さんは、この前方後方墳こそが狗奴国のシンボルだと考えている。 「東海から東北にかけて、リーダーたちの募は前方後方墳になっていく というのが発掘調査からわかってきている。 邪馬台国の対抗勢力になるような地域社会がどこにあったかを絞り込んでいくとき、 狗奴国が一つの候補になります」
日本列島の西側には前方後円墳をシンボルとする邪馬台国連合があり、 東側には前方後方墳をシンボルとする狗奴国が存在した、 という東西を分けた争いの構図がイメージされる。