2026-09-04 21:45:00+09:00
読 . peter thiel . elon musk . p.k.dick . yasubow202

見聞読録 ピーター・ティールとイーロン・マスクからP・K・ディックへ

ピーター・ティール論、マスキズム、Empathy

ここのところイーロン・マスクとピーター・ティールに関する論考や評伝を立て続けに読んでいる。

テックの社会実装により世界に大きな影響を与えているこの二人、 サイバーパンク、というと最近は「攻殻機動隊」や「マトリックス」のことみたいに扱われるが、 テックに関して妙に楽観的な扱いは、そうだったっけなあと思いながら、 半ば納得(テッキーだからね)、半ばうんざりしつつ読んでいるわけだが、 そのうちに両者における決定的な欠落はこれか、と思い当たった。

それは、文脈に沿って遡行するなら、P・K・ディックがいう"Empathy"である。 日本語だと「共感」とか「感情移入」というやつ。

ティールは衒学的に過去の思想を組み合わせるがそこでは注意深くempathyを無視し、 マスクにいたってはempathyに対する敵意を剥き出しにして隠そうともしない。

ディックに帰れば、それはまさに「アンドロイド的」な人間の所作だった。

ここにおいて、あらためてディックの作品、思想がどんなものだったかをまとめておくかないと、という思いが湧きあがる。

ディックのパブリック・イメージは映画『ブレードランナー』によってだいぶ元々とは違うものになってしまったが、 そろそろ再び召喚するべきなのではないかと思う。

サイバーパンクの根っこにはディックやTiptreeがいる、というのがワタクシの認識で、 ただ、後続が受け継がなかった部分はあるよなあと感じていたものだが、 いやはや、前期高齢者を迎えようというときに、またディックを読み直さないといけないとは。

英語わからないのに。

しかもディックの英語はちょっと見たことあるくらいだが、あまり読みやすい部類ではない、 Tiptreeの英語は音楽的で、意味がわからなくても読んでるだけで気持ちいい、という感じなのだが。

しかし、いまやここにこそAIを活用すべきかもしれないな。

それはともかく、まずは、ティール、そしてマスクから。

1. 『ピーター・ティール論——模倣・独占・〈政治からの退出〉——』 (yasubow202 no+e)

no+eで活動しているyasubow202 (詳細不詳)という著者のピーター・ティール論。

gemini要約では漏れているようだが、empathyに関していえば、こんな記述がある。

ここで注意すべきは、ティールの模倣理論の応用が、ジラールの原意からある種の逸脱を含んでいる点である。批評家たちが指摘するように、ジラール自身は模倣的欲望を、暴力へと必然的に至る自動的な機構としてではなく、他者への「極端な開かれ」という両義的な性質をもつものとして捉えていた。模倣は暴力の源泉であると同時に、共感と学習の源泉でもある。だがティールは、模倣の暴力的な帰結を強調し、それを人類に配線された自動機構に近いものとして扱う傾向がある。ある批評家はこれを、ジラールの「啓示の人間学」を体系化しようとする誘惑への屈服と評した。ジラールにおいて開かれと危険の両義性を保っていた模倣が、ティールにあっては、そこから脱出すべき罠として一面化される。この一面化が、彼の独占論と退出論に、ジラールの原意にはない攻撃性と決断主義を与えている。

ティールはジラールの直弟子だというが、普通にジラールを読めば、この模倣的欲望の両義性というのを無視するわけには いかないはずだと思うのだが、彼は、この共感に関する部分をあっさり無視する。

この構造は、これまたgemini要約ではあっさり固有名を剥奪されているアルバート・O・ハーシュマンの退出・発言・忠誠(exit, voice, loyalty)の概念を扱う際にも、おそらく踏襲されているのではないか。

ジラールもハーシュマンもちゃんと読んだわけではないので、現時点では推測の域を出ないが。

『ピーター・ティール論——模倣・独占・〈政治からの退出〉——』の要約

はじめに

本論考は、実業家ピーター・ティールの独占称揚と反民主主義的姿勢を「競争からの脱出(退出)」という単一の身ぶりから解読する試みである。彼の思想の基礎には、ルネ・ジラールの模倣理論が存在し、独占は経済的離脱、反民主主義は政治的離脱として一貫している。また、新反動主義の文脈や思想史的背景とも対比し、彼の多面的な発言の真意を明らかにする。

第1章 思想形成の文脈と根本問題

1-1 生涯と知的環境——フランクフルトからスタンフォードへ——

ドイツに生まれ、スタンフォード大学で哲学を修めたティールは、ルネ・ジラールとの出会いを通じて模倣理論を体得した。彼はこれを教養にとどめず、投資、起業、政治構想を貫く実践原理として展開した。彼の行動と発言の根底には、反啓蒙主義的・実存的な問いが色濃く影を落としている。

1-2 ティールが格闘した問い——模倣・暴力・停滞——

ティールが向き合う課題は「群れと争い(模倣・暴力)」と「文明・技術の停滞」の二層からなる。模倣的競争の飽和が新しさを奪い停滞を生むため、解決策は勝利ではなく競争の場からの離脱(退出)とされる。これが独占論と政治的退出論の共通基盤となり、後年の終末論的世界観へつながる。

1-3 先行する知的状況——ジラール・シュトラウス・シュミット・リバタリアニズム——

彼の思考は、ジラールの模倣理論を基底とし、シュトラウスの秘教的読解とシュミットの政治神学を上位構造に置き、リバタリアニズムの離脱衝動を推進力として融合させたものである。反啓蒙の思想群を21世紀の技術・資本の現場で実践的な行動原理へと鋳直した点に彼の特異性がある。

第2章 主著を読む

2-1 『多様性の神話』を読む——大学・多文化主義・西洋——〔1995〕

初期共著『多様性の神話』では、スタンフォード大学のポリティカル・コレクトネスや多文化主義を批判した。公認の正統に対する不信、平等主義への懐疑、同調圧力への警戒という彼の基本姿勢が既に明確に示されており、後の「逆張りの問い」や反平等主義の原点となっている。

2-2 「シュトラウス的契機」を読む——政治神学と黙示録——〔2007〕

9・11後の世界を分析した論考で、シュトラウス、シュミット、ジラールを援用し、自由民主主義の手続き主義を批判した。利害調整へ縮小した近代政治を退け、暴力の根源、聖なるもの、決断という根源的問いを政治の中心へと引き戻す反啓蒙の姿勢を鮮明に打出している。

2-3 「リバタリアンの教育」を読む——自由と民主主義の非両立——〔2009〕

「自由と民主主義の非両立」を宣言し、従来の政治参画(発言)を諦め、政治の外部への離脱(退出)を提起したエッセイである。民主主義的熟議は同調圧力と模倣的争いを生むため、自由を守る唯一の道は新たなフロンティアへの逃走にあると主張する。

2-4 『ゼロ・トゥ・ワン』を読む——独占・隠れた真実・創業者——〔主著・2014〕

表向きは起業指南書でありながら、内容はジラール理論を経済へ全面的に応用した思想書である。完全競争を消耗戦と退け、誰も踏み込んでいない領域で「独占」を築くことの価値を説く。創業者は模倣的同調から脱却し、垂直的進歩をもたらす主体として描かれる。

第3章 中心概念の展開——著作を横断して——

3-1 模倣的欲望と競争の否定——ジラールの応用——

人間は他者の欲望を模倣するため、同じ対象を巡り過酷な競争と暴力に陥るという人間学を展開する。ビジネスにおける激しい競争は成功の証ではなく、模倣の罠にはまった結果に過ぎないと見なし、模倣の連鎖を打ち切る離脱を最重要視する。

3-2 独占の哲学——垂直的進歩と非代替性——

既存モデルの水平的拡大(1からn)ではなく、まったく新しい価値を生む垂直的進歩(0から1)を重視する。独占は単なる市場支配ではなく、模倣的競争を回避し、非代替的な技術革新と自由な長期的思考を可能にするための戦略的空間であると位置づける。

3-3 〈政治からの退出〉——発言から離脱へ——

民主主義的な言論の場(発言)に参加することは、模倣的抗争に巻き込まれることを意味する。ゆえに主権や制度の刷新は、制度内での改革ではなく、海上国家や宇宙開発、サイバー空間といった「政治の外部」へ退出(exit)することで達成されると主張する。

3-4 停滞・秘教・黙示——〈遅さ〉と〈終末〉のあいだ——

ITを除く技術革新の停滞を「進歩の終焉」と診断し、これを文明の危機・黙示録的前兆と捉える。大衆向けの表面的な言説と少数精鋭向けの真実を区別する秘教的な構えをとり、停滞する世界の中で真の変革を隠密に進める必要性を説く。

第4章 思想的布置——他者との関係——

4-1 継承と再解釈——ジラール、シュトラウス、シュミット——

ジラールから欲望と暴力の構造、シュトラウスから秘教性と真理の隠蔽、シュミットから例外状態における決断を学んだ。ティールはこれら反近代の思想を、抽象的議論にとどめず、現代資本主義の現場で「独占」と「退出」を実行するための道具として再解釈した。

4-2 並行と分岐——モールドバグ(ヤーヴィン)とニック・ランド——

新反動主義の重要人物との対比において、国家を企業化し主権の再凝集を目指すヤーヴィンとティールは親和性を持つ。一方で、人間を超越した資本=知性の暴走と脱領土化を肯定するランドの加速主義とは、人間中心的な退出論の立場で一線を画す。

4-3 後続への影響と受容——新反動主義とテック右派——

民主主義批判や技術主導の歴史観を通じて「テック右派」の精神的支柱となった。J・D・ヴァンスら政治家への支援を通じて実利的な権力行使へ展開する一方で、脱領土化する資本の暴走か、再領土化された私的主権の樹立かという内部亀裂を孕んでいる。

第5章 黙示録の政治神学——二〇二〇年代の展開——

5-1 反キリストという形象——「平和と安全」の政治神学——

2020年代の連続講演で「反キリスト」論を展開した。反キリストとは単なる悪ではなく、模倣的暴力を抑え込むために「偽りの平和と安全」を提供する全体主義的な世界統治の象徴である。過度の安全志向や統制が、より深い隷従を招くリスクを警告する。

5-2 カテコン(抑止するもの)としての技術と国家——

破局(無際限の模倣的暴力)を引き止める存在としての「カテコン(抑止者)」概念を考察する。卓越者による技術革新や私的主権は、崩壊を防ぐ防波堤(カテコン)として機能し得るが、同時に全体主義的な統制装置(反キリストの道具)にも反転し得る両義性を持つ。

5-3 近代の終わりと歴史の分岐——

近代の進歩史観の破綻を宣言し、世界は「無限の模倣暴力による破滅」か「全体主義による偽りの平和」の二者択一に直面していると診断する。ティールの説く「退出」は、この二重の破局を回避し、第三の道を切り拓く終末論的試みとして位置づけられる。

おわりに——〈退出〉という問いへ——

ティールの全思想は、模倣・独占・退出・停滞・黙示を一つに結ぶ一貫した「競争からの脱出」の構想である。しかし、彼が反キリスト的全体主義を恐れて築く独占や私的主権が、結果として新たな統制装置へ反転する危険(決定不可能性)を孕んでおり、彼の思想の本質的緊張をなしている。

参考文献・資料一覧

ティールの主要一次資料として以下の文献が挙げられる。

2. 『 マスキズム 新たな独占の時代 』 クィン・スロボディアン、ベン・ターノフ

次はイーロン・マスク。

「イーロン・マスク個人についてではなく『マスクを中心とした社会システム』に初めて目を向けた」とあるが、 それにしても特徴的なキャラクタとしてのイーロン・マスクの大きさは無視できないだろうと感じた。

1世紀前、ヘンリー・フォードが自伝『我が一生と事業』を執筆してベストセラーとなり、 それからほどなく「フォーディズム(フォード主義)」という言葉が生まれた。 ひとりの男から、新たな常識が生まれたわけだ。 フォーディズムとは、組み立てラインから次々と送り出される車を意味するだけではなかった。 大量生産と大量消費が結びついた20世紀の資本主義の代名詞となった。

彼は、そうした空想的な「寓話」が金融的な価値を生むことをシリコンバレーで学んだ。 バブルは膨らんだままでなければならない。 経歴を振り返れば分かるように、マスクの世界観は景気サイクルの波に左右されている。 金利が低く世の金回りがいいとき、彼の語る物語は壮大になる。 金利が上がって金回りが悪くなると、至るところに外敵を見いだして責任をなすりつける。

時代錯誤だとあしらわれることも多いが、 ある意味で南アフリカは──その当時友好関係にあったイスラエルと同様──我々の時代の先駆けだと言える。 軍事化し、現代的な技術を取り入れながら孤立を選ぶというスタイルは、 輸出規制、貿易戦争、再軍備、国内回帰が進む現代からすると、かえって自然なものに感じられる。

マスク本人と出身国の関係は複雑であるものの、 アパルトヘイト下の南アフリカこそがマスキズムを生んだ土地であった。 この国が授けたのは「要塞型未来主義」という数訓だった。 テクノロジーを用いれば敵意に満ちた世界のなかでも自立を強化できる、という信念である。

こうした自動車工場は白人の都市部と黒人居住区のあいだに建てられており、 黒人労働力を手近に控えさせておくことで、必要とあらば利用し、不要となれば切り捨てられるようにしていた。 フォーディズムの基本原理が大量生産と大量消費であったのに対し、南アフリカの変形版では、 大量生産はそのままに、大量消費は白人少数派だけの特権となった。 1980年代、政治学者のスティーブン・ゲルブは、この南アフリカのシステムを「人種的フォーディズム」と名付けた。

南アフリカにおける生産、安全保障、そして人口管理にとって、もうひとつ重要なテクノロジーだったのがコンピュータだ。 1965年に設立された計画省は、 国家を「人種的フォーディズムという方針に沿って組織されたひとつの工場フロア」として構想していた。 官僚たちは、黒人コミュニティを強制移住させて白人地域からいわゆる「ブラックスポット」を一掃し ──1980年代初頭までに350万人を立ち退かせ──安価な黒人労働力を新たな工業地帯へと送り込んだ。

この大規模な社会工学プロジェクトを遂行するためには、膨大な個人データの収集が必要だった。 南アフリカは、ある歴史家が呼ぶところの「生体認証国家」であり、 アパルトヘイトの実行にあたって政府が必要とする情報を保存・処理するうえで コンピュータが決定的に重要な役割を果たした。

しかしデジタルツールは政権だけの手にあったわけではない。 アパルトヘイトに反対する組織もコンピュータへの対応を見せ、「コモドール64」 ──1982年に発売された初期のパーソナルコンピュータ──を用いて、海外の活動家へ暗号化されたメッセージを送っていた。 テクノロジーは国家の鎧を強化したが、その鎧にひびを入れる可能性も秘めていたのだった。

1980年代(マスクの少年時代)のパラドックスは、 南アフリカが国内で抑圧を強める一方で、より広い外の世界へ通じる小さな窓が開き始めてもいたことだ。

コンピュータもそのひとつだし、テレビもそうだ。 テレビが南アフリカに登場したのは1976年で、工業国のなかではかなり遅めだった。

導入が遅れたのは、アパルトヘイトの主たる設計者とされるヘンドリック・フルウールト首相が、 テレビは核爆弾に匹敵する破壊的な力を秘めていると考えていたからである。 誤った番組編成は市民の精神を腐敗させかねない。 「政府は精神的なものであれ物理的なものであれ、国民へのあらゆる危険を監視する必要がある」と彼は普告した (こうした方針には支持者もいた。 『ナショナル・レビュー』でアメリカの思想家ジェイムズ・バーナムはこう書いている。 「南アフリカで『黒人先住民』解放運動が存在しないことと、 南アフリカでテレビが存在を許されていなかったことは、ほぼ同義である」)。

マスクが自身の未来を別の場所に見いだそうとしたのも無理はない。 しかし国を去る者の多くは、自分が捨てていこうとしているものの一部を、 結局のところ一緒に持ち込んでしまうものだ。

この経験からマスクが得た学びは明確だった。 政府とは、「小さく」したり排除したりすべきものではない。 むしろ、権力や利益の源泉として利用しうるものだ。 目標は国家からの脱出ではなく、国家との共生である。

1990年代にマスクがシリコンバレーで立ち上げた最初期の事業群も、まさにこの論理に基づいていた。 軍事衛星が提供する無償のGPSデータを使って地図をオンライン化。 政府に担保されたアメリカ金融システムの安定性に便乗して銀行業務をオンライン化。 そして何より、政府が発明した技術であるインターネットの民営化が引き金となって生じたドットコム・ブームに乗じた。

デジタル革命とされてきたものは、実際には「反革命」だったのではないだろうか。 アパルトヘイト下の南アフリカとシリコンバレーには、見かけほどの違いはない。 どちらもテクノロジーとテクノクラート的(技術官僚的)な思想に根ざしている。 どちらもエンジニアとエンジニア的マインドに陶酔していた (ドイツの経済学者フリードリッヒ・フォン・ゴットル=オットリリエンフェルトは、 1925年にフォーディズムを振り返り、その「技術的理性による独裁」を称えている。 この言葉は、同じくアパルトヘイト下の南アフリカにもシリコンバレーにも容易に当てはまる)。

もちろん、両者が掲げた技術の価値は異なる。 アパルトヘイトの技術者たちは人種抑圧というシステムを築き上げた。 反対に、1990年代のテクノ・ユートピアニズムは、デジタル化とは民主化であると主張した。 だが現実には、インターネットは社会的不平等を解消するというより再編成するものだった。 シリコンバレーは自由を謳っていたかもしれないが、そうした言葉はミスリーディングだった。 その底流には、民主化に逆行するような、反動的テクノクラシーの原理が働いているのを見て取ることができる。

資本主義と競争は対極にある、とティールは挑発的に語る。 資本主義とは資本の蓄積だが、競争していると簡単には資本が蓄積できないからだという。 これに対して独占は、「市場を支配しているため自由に価格を設定できる」。 さらに、そうした企業は実は世界にとって良い存在でもある。 なぜなら独占しているからこそ「長期計画」を立てることができ、 「競争に追われる企業には想像もできないほど野心的な研究開発を支える資金」が持てるからだ。

ティールの考えでは、企業というものは、世界の根本的な不平等を反映し、それを強化するような構造であるべきなのだ。 最も革新的な企業は「封建君主制に近い」ものであり、創業者が王として君臨する。 十分に権限を与えられた君主である独占者だけが、 「有無を言わせず決断を下し、忠誠心を呼び起こし、数十年先まで計画できる」。

シリコンバレーがプラットフォームの時代へ入ろうとしていた頃、マスクは逆方向へと進んでいた。 ハードウェアのなかでも最も難度の高いハードウェア、つまりロケットに全力をかけ、 何百万ドルもの額を注ぎ込んだのである。

なぜそこまで? マスクに関する分析のほとんどは、彼が昔から宇宙に魅了されていること、 特に人類を「多惑星種」にするという、何度も語られてきた願望に目を向けたものだ。 初めのうちから、この願望は終末論的なヴィジョンに取り憑かれたものだった。 火星を開拓する理由のひとつは、地球が壊滅するような惨事が起きたときに、 人類を存続させる手段になると信じていたからだ。

DARPAとNASAは、いずれも1958年に設立された組織だ。 ソ連によるスプートニク打ち上げに衝撃を受けたアメリカ政府が、 科学技術への支出を大幅に増加させたことがきっかけである。 DARPAはコンピュータとネットワークに重点を置き、インターネットにつながる投資をおこなった。

NASAは宇宙開発競争に力を注ぎ、やがてアポロ計画の月面着陸に結実する。 だが冷戦が終結すると、「ビッグサイエンス」(科学技術への巨額投資)を正当化する地政学的根拠は失われてしまった。 程なくして1995年に、インターネットが民営化された。 マスクは、宇宙も似た道筋をたどるだろうと直感したのである。

つまり宇宙は、「国家との共生」というロジックのもとでマスキズムが探していた次なるフロンティアだったのだ。 マスクの言うように、宇宙でも、国家が資金を出して「根幹技術」の開発がおこなわれる。 公的資金によってロケット工学分野にイノベーションが起きれば、スペースXの成功の核にできる。 それだけではない。国家は顧客にもなる。 「宇宙に関心を持つすべての政府機関を顧客だと考えている」と彼は2004年のCNNのインタビューで語っている。

1950年代のシリコンバレーも、同じように始まった。 政府の請負業者が集まる地域だったのである。 さらに宇宙ビジネスとも直接的な結びつきがあった。 シリコンバレーのサニーベールにあるロッキード社の施設は、ミサイル・衛星・宇宙船の主要開発拠点だった (1995年の時点でも、ロッキードはサニーベールで1万400人を雇用していた)。 ロケット会社を始めるというマスクの決断は、同時代のシリコンバレーの人間たちには奇妙に映ったが、 ある意味ではシリコンバレー本来の起源に立ち返ったとも言えるのであった。

その一例がソフトウェアだった。 日本企業は、少しずつ変更を積み重ねる継続的改善と、自分たちで意思決定する自律的なチームに重きを置いた。 1990年代のアジャイル開発ムーブメントにつながる考え方だ。 実際アジャイル開発の流派のひとつは、「リーン・ソフトウェア開発」と呼ばれている。

しかし製造業においてトヨタ生産方式に対するアメリカ的解釈は、 「外部や安い国への委託」という当時の傾向を加速させるものだった。 ヘンリー・フォードに代表されるような古い産業モデルは、生産を単一企業の内部に集中させることが多かった。 これに対して日本企業は、より分散型のアプローチを取り、 外部の納入業社たちから調達した部品を組み上げて最終製品を作っていた。 日本の例は、アメリカ製造業の脱中央集権化を促した。 巨大で統合的なフォーディズム型工場は、 グローバル・サプライチェーンを通じて組織される柔軟な生産ネットワークへと道を譲っていった。

マスクはこうした発展をそのまま取り入れたわけではないが、リーン生産方式のいくつかの側面を採用している。 1990年代にシリコンバレーで目の当たりにしたアジャイル流の「迅速に失敗を重ねる実験主義」などは、その筆頭だ。

マスクは2つの異なる時代と生産スタイルから引き出した特徴を統合し、 「リーン・フォーディズム」とでも呼べる独自のスタイルに到達した。 彼は無駄を省くために中央集権化した。 加速のために垂直統合を進めた。 アジャイルな王にふさわしい製造モデルを仕立て上げた。

マスクが目指したのはロケットを作ることだった。 だが、より重要だったのは彼が作ったもの以上に、その作り方のほうだった。 マスクの伝記を手がけたウォルター・アイザックソンによれば、 マスクの親しい友人で投資家のアントニオ・グラシアスは次のように語った。 「成功の源は製品ではないんです。 製品を効率的に作る能力です。 マシンを作るマシンをどう作るか、です。 工場をどう設計するのかと言ってもいいでしょう」。 マスクも、この考え方を取り入れていったという。

外部サプライヤーへの依存を減らし、生産を可能な限り自社に集約しようとするマスクの欲望は、 2000年代のグローバル化の潮流、 つまりサプライチェーンで織り上げられた国際的生産ネットワークの結節点としての工場という考え方に逆行するものだった。

いま夜空を見上げ、小さな光が動いているのが見えたなら、それはマスクの持つ衛星である可能性がかなり高い。 わずか10年足らずで、彼は天を作り替えた。 多くの人々が気づかないうちに低軌道帯は、太陽電池翼を備えたドローンが蜂の巣のように飛び回り、 レーザーで互いに通信し合う空間になったのである。 アポロ宇宙船が宇宙時代第一期の象徴だとするなら、 宇宙時代第二期の象徴は、スターリンクの「メガコンステレーション(巨大衛星群)」を構成する、低高度で高速の衛星だ。

すでにアメリカ政府は2021年に、スペースXと18億ドルの契約を結んでいた。 その目的は、暗号化通信、偵察のための電波・光学センシング、ミサイル早期探知のための赤外線センサー、 地上の物体の位置特定・追跡といった追加機能を備えたスターリンクの軍事版「スターシールド」開発である。

スターシールドは、かつての「スター・ウォーズ計画」の実現だ。 安価で機敏な衛星群が、アメリカの宇宙覇権を確かなものにする。 多少の衛星が撃墜されても、ネットワーク網は動き続ける。 これは分散型ネットワークのアーキテクチャであり、 国防当局者たちは1990年代の「ネットワーク中心の戦い」の概念を更新するかたちで、「モザイク戦」と呼び始めている。

マスキズムが依拠しているのは、次のような思想だ。 これからの主権は、領土的である前にインフラ的なものになる ──国境や官僚機構と同じくらい、通信帯域、計算資源、打ち上げ枠、 そして軌道上の「不動産」を確保できるかどうかで決まる。

ドットコム時代、マスクは貨幣をコードとして扱っていた。 スペースXでは、法や規制も同じように、読み取れて書き換えられるものとして扱った。 主権がサブスクリプション購入できるものだとするなら、 その利用規約を書く者は、権力が自分の手にとどまるように記すだろう。

このシステムの各要素に共通するものは何か? それは当初からテスラが自社の売りとして提供を約束してきた「電気的自立」を構成する製品だということだ。 再生可能エネルギーが自給自足を後押しするという考え方である。

このアイデアは、スケールアップさせてもスケールダウンさせても成り立つ。 国家レベルにスケールアップすれば、「電気的自立」はEVを使って国家のエネルギー独立を確かなものにし、 外国産石油への依存や、それに伴う地政学的しがらみから国を解放することを意味する。 一方で個人のレベルにスケールダウンすれば、ますます不安定化する世界において、 電力網の障害や自然災害に対する個人の強靭性を高めるために テスラの車、ソーラーパネル、蓄電システムを使うことを意味する。

また、テスラは運転のデジタル化も試みた。 その証拠に、2012年の段階で車内に大型タッチスクリーンを設置するという決定がなされていた。 その3年後には「オートパイロット(自動運転)」機能を発表した。 車のカメラとセンサーによって記録されたクラウドソース・データを、 同社が中央で処理・分析することで車線維持とクルーズコントロール(自動定速走行)が限定的にであれ可能になったのだ。 「自動車メーカーは車を携帯電話やパソコンのような『コネクテッド・デバイス』として考える必要がある」と、 マスクは当時語っている。

クリーンテックの息の根を真に止めたのは政治ではなくテクノロジーだった。 2000年代半ばから、「シェール革命」がアメリカのエネルギー地図を一変させたのである。 政府の研究開発資金で開発された「水圧破砕法」の技術を用いて、 複数の中小企業が、これまでアクセス不可能だった膨大な石油と天然ガスを抽出する道を開いたのだ。 2007年から2016年にかけて、アメリカの石油生産量は75パーセント増え、天然ガスの生産量は39パーセント増加した。 そして2018年には、およそ75年ぶりに石油の輸出が輸入を上回った。

エネルギーの独立は達成された ──しかしそれは資本主義をグリーン化することによってではなく、 化石燃料の採掘量を大幅に増やす方法を見つけることによってであった。 クリーンテックから輝きは失われた。 投資家は逃げ出し、MITの報告書によれば2011年までに 「この10年のうちにシリコンバレーで設立された150の再生可能エネルギー・スタートアップのほぼすべてが閉鎖されたか、 倒産寸前の状態にある」というありさまだった。 革命的な転換としてもてはやされていたクリーンエネルギーは、 やがて、金のかかる回り道──ハイテクの無駄遣い──にすぎないと見なされるようになった。

しかし、そうした言説には、常にテスラという反論材料が存在していた。 テスラは、経済学者のマリアナ・マッツカートが「起業家精神にあふれた国家」と呼ぶような 産業政策が機能しうることの生きた証拠だった。

テスラは2013年、予定より9年も早くエネルギー省からの融資を返済した。 その2年後、マスクは象徴的な行動に出る。 テスラのフリーモント工場を拡張し、破綻したソリンドラの太陽光事業の跡地を占有したのである。 さらにテスラは、人知れず全米自動車労働組合の古い組合ホールを自社施設に変えてもいた。 それはアメリカ産業の容貌が変わりつつあることを物語っていた。 テスラは創業当初から、徹底した反組合企業だったのだ。

マスクはどうやってこの成功を手に入れたのか? テスラはクリーンテック・ブームの波に乗りながらも、いかにしてその崩壊を生き延びたのか? すべては工場の設計に尽きる、とマスクは言うだろう。 リーン・フォーディズムというイノベーションがもたらした効率性が、テスラを生き延びさせた。 しかし、さらに先へと進むために、マスクはサプライチェーンをもっと多く自らの手中に収める必要があった。

このテスラの初期の冒険が、「起業家精神にあふれた国家」の教科書的な実例──グリーン産業政策の初期形態── だったとすれば、次のステップであるギガファクトリーの建設は、より伝統的な筋書きに従って進むものだった。 すなわち「フォーラム・ショッピング(法的に有利な建設地探し)」と「誘致合戦」である。 マスクは全国的なPRキャンペーンを展開し、複数の州に巨大バッテリー工場建設の可能性をちらつかせ、 税制優遇やその他のインセンティブを引き出そうと目論んだ。

2014年までには勝者が決まった。 ネバダ州知事との記者会見で、 マスクはテスラ初のギガファクトリーをリノ郊外のスパークスに建設すると発表したのである。 ネバダ州は、フリーモントから車で約4時間と物流の面で十分にかったが、 何より重要だったのは、カリフォルニア州の法人所得税が約9パーセントであるのに対し、 ネバダ州には法人所得税がないことだった。

また環境規制もカリフォルニアと比べて厳しくなく、労働基準法もネバダ州のほうが緩やかである。 カリフォルニア州は長らく労働者の保護を重んじる姿勢を維持してきたのに対し、 ネバダ州は1953年以降「労働権法」のある州で、労働者の組合加入が強制されない。 残業規則も、厳格な基準で労働時間と報酬が管理されているカリフォルニア州のほうが労働者に優位だと言えた。

トランプ政権の第1期に、マスクは戦略面での選択を迫られた。 脱グローバル化していく世界秩序においてアメリカ側につき、アメリカ市場にさらなる力を注ぐこともできる。 あるいは経済的自立とアメリカからの戦略的自立を目指す中国の国家プロジェクトにおいて、 テスラはパートナーになりうると中国側に売り込むこともできた。 そこには莫大な金がかかっていた。 中国は世界最大の自動車市場であり、テスラはそこから締め出されるわけにはいかなかったのだ。

競合する2つの超大国間で選択を迫られたマスクは、その「両方」を選んだ。 2018年、彼は2番目のギガファクトリーを上海に建設すると発表した。 そして翌年、中国の銀行団から16億ドルもの融資を低い金利で取り付けた。 ただしその施設はバッテリーではなく車を生産することになる(バッテリーはCATLから調達することになった)。 中国国内でテスラ車を製造することで、テスラは関税の壁を飛び越えたのである。

テスラエナジーの中心は「移動サービス」ではなく、環境に対する「強靭さ」だった。 ますます不安定化する世界から家庭を守るために、家をソーラーパネルと蓄電池で稼働する「要塞」に変える、 という発想だ。 2019年、ネバダのギガファクトリーはメガパックの生産を開始した。 これはパワーウォールをスケールアップしたもので、地域全体の電力網が停止した際のバックアップとしても、 遠隔地で「ミニ電力網」として使うこともできる。

自家用車がもたらす「青空のような楽観主義」から、「停電という暗雲」への転換は、 時代精神の変化と歩みを合わせたものだった。 2020年に新型コロナウイルスに対する「封じ込め対策」の負担からサプライチェーンが崩壊すると、 テスラの株価がかつてない高値を記録していたにもかかわらず、マスクの世界観は暗さを増していった。

これもまた、「電気的自立」というテーマの一形態だと言える。 マスクは主権を国家に売っていただけではなく、個人にも売ろうとしていたのだ。 2021年の株主総会で、酒落たラブラドール犬のようにバンダナを首に巻いて株主の前に立ったマスクは、 つい最近自身がテキサス州オースティンで見舞われた猛吹雪について語った。 停電になり、明かりをつけることもインターネットに接続することもできなかったという。 だが、もしテスラのソーラーパネルとパワーウォールを設置し、 スペースXの衛星インターネットサービスであるスターリンクに加入していれば、必要なものはすべて揃っていたはずだ。

「極端な天候が増えている」とマスクは指摘した。でもさいわいなことに、テスラは破滅的な出来事に備える「プレッパーが必要とするすべてのもの」を提供している。 「もし終末の日が来ても、役に立つかもしれない」。 そこで提示されたテスラの価値観はシンプルなものだった ──生態系と制度が崩壊する時代にあっても、あなたの「テスラ・ドーム」のなかにいれば安全だ。

彼の垂直統合モデルをさらに推し進めると、次のような工場が想像できる。 アメリカ国内の採掘現場から、自動運転トラックが列をなしてリチウムなどの原材料を運んでくる。 その材料は工場でロボットに降ろされ、また別のロボットが材料からバッテリーセルを作る。 そのバッテリーは自動運転車だけでなく、ロボット自身の動力源としても使用される。 システム全体が、閉鎖循環(クローズド・ループ)として稼働する。

このヴィジョンにおいて、工場は単なる生産手段ではない──工場自体がひとつの世界となる。 生命と労働の連鎖全体が、ひとつのシームレスなシステムの内部に取り込まれる。 それは「主権を持った工場国家」と言えるもので、これこそが完全に自動化されたかたちでの「電気的自立」だった。 だが、そこにはもう一段深い問いが生まれる。これはいったい誰のための自立なのだろうか?

究極的に言えば、マスキズムにおいて人間はもはや歴史の主体ではなく、用済みになって捨てられた足場にすぎない。 マスキズムにとっての製品は車でもなければ、ロボットですらない。 真の製品は、(この工場と同じように)世界がそれ自体で回り続ける自律的なインフラだ。 オペレーターも作業員もいない。 中断も介入もなく、ひたすらに生産が続いていく。

マスクのAI観は誤解されていることが多い。 よく『ターミネーター』的なシナリオを引き合いに出すため、彼は「AI悲観論者」のレッテルを貼られてきた。 2015年には、(馬鹿げたことに)「ラッダイト賞」(技術の進歩を阻んだ人に贈られる賞) にノミネートされたことすらある。

しかし彼が進歩を阻んでいるというのは完全な誤解だ。 AIのリスクに対するマスクの解決策は、テクノロジーを抑えることではなく、さらに加速させることだったのだ。 2016年のアルトマンとの対談で述べているように、彼の答えは「AIと融合する」ことだった。

もし「AIと人間の共生体になれば、我々自身がAIの集合体となるのだから、 邪悪な独裁AIといったものを心配する必要はなくなる」という。 マスクの言う「AIパワーの民主化」とは、AIによる専制支配に対する防衛手段として、 AIとの統合をスケールアップすることを意味していた。

その最初のステップは、私たちがすでにどれほど深く機械と絡み合っているかを認識することだった。 彼の考えでは、人間の意識は3つの層で構成されている。 第一の層は感情と本能を司る「動物の脳」、すなわち大脳辺縁系である。 それから第二の層は理性と熟考を占める大脳皮質層。 そして第三の層は、人間の能力を拡張する「デジタルツール」という拡大を続ける配列だ。

Web 2.0 によって、シリコンバレーはユーザーが参加することに価値を見いだした。 活発に交流させるプラットフォームを構築することで、企業はそこから生じるデータをマネタイズして巨万の富を築いた。 次なる時代は、そのデータを使ってAIモデルを訓練するようになるだろうとマスクは言う。 人間はAIの有機共生体および「生物的ブートローダ」になる。 人間の叡智は、新種の知的機械を教育するために動員されることになる。

それが意味することのひとつは、人類の未来にとってソーシャルメディアが計り知れない重要性を持つということだ。 もしソーシャルメディアがサイボーグ的共生の主な現場であるならば、 Twitter のようなプラットフォームは、単にジョークを飛ばしたり、 ライバルを荒らしたり、暗号資産や株を吊り上げたりするための場所にとどまらない。 そこは、人間が自らをデータへと溶解させることによって、超知能の危険性を中和できる場所とも言えるのだ。 人間がAIにならなければ、AIが人間を排除してしまうだろう。

この使命こそが、2010年代後半にかけて現れだしたマスキズムの新たなステージを規定するものだ。 かつてカール・マルクスは、資本の蓄積という使命を、資本主義システムの中核的な原理として描き、 「蓄積せよ、蓄積せよ! これがモーゼであり、預言者たちである!」と書いた。 マスキズムの使命は、より良きサイバネティック・コレクティブを構築するために、 肉体とコード、現実世界とミーム空間の融合を加速させることなのである。

しかし、単にそのプロセスをスピードアップさせるだけでは不十分だった。 サイバネティック・コレクティブは感染に対して脆弱だったのである。 他のあらゆる生物学的システムやデジタルシステムと同様に、それは侵害される可能性があった。 侵害の可能性と、それに伴う恐怖こそが、Twitter の買収から第2次トランプ政権への進出に至るまで、 その後の数年にわたるマスクの主要な活動を方向付けることになる。 マスキズムは、サイボーグという夢に魅了されると同時に、それが汚染されるという悪夢に取り憑かれることになる。

それだけでなく、こうしたブレイクスルーは人間が機械と一体化することを通して、 超知能AIが人類を滅ぼすリスクを減らすことにつながる。 マスクによれば、ニューラリンクの目標のひとつが「脳に関連する多くの病気を解決すること」だとすれば、 もうひとつは「AIによる実存的脅威を緩和すること」だという。

ニューラリンクは、本書の前半で描いた2つの世界 ──シリコンバレーというソフトウェアの世界と、ロケットや自動車というハードウェアの世界──に橋を架けるものだった。 それだけでなく、マスキズムに通底する「国家との共生」というテーマも引き継いでいる。

2024年1月、ノーランド・アーボーという名の四肢麻痺の患者が、 人間として初めてニューラリンクのチップを脳に埋め込まれた。 その2カ月後、彼はツイートした。 「Twitter にボット(自動投稿するプログラム)だと思われてBANされたのですが、 @Xと@elonmusk が元に戻してくれました。 なぜなら私は本当にボットだから」。

アーボーの脳内の電気信号を測定し、その信号をコンピュータへの指示に変換することで、 ニューラリンクのチップは彼がただ考えるだけでツイートすることを可能にしたのだった。 サイバネティック・コレクティブは、これまで以上に融合の進んだ「サイバネティック(電脳的)」なものとなったのだ。

ジャーナリストのジェニー・クリーマンが指摘しているように、マスクは「脳からの情報を受け取るだけでなく、 脳に情報を送り込む方法を見つけようという明確な目的を持った最初の起業家」だった。

つまり、ニューラリンクがほかと違ったのは、 「読み取り」機能だけでなく「書き込み」機能を備えた脳インプラントの開発を目指していた点だった。 カルト的な人気を誇る1999年の映画『マトリックス』では、主人公のネオが脳にプログラムをロードすることで、 ものの数秒のうちにカンフーを習得する。 ニューラリンクはこれを実現しようと試みていたのだった。

マスクのフレーズは、進化生物学者リチャード・ドーキンスに起源を持つ。 ドーキンスの1993年の論文「心を操るウイルス(Viruses of the Mind)」では、 マルウェアがコンピュータに感染するように、 人間の意識も宗教や迷信といった非合理な観念による「感染」に影響を受けやすいと論じられている。 マスクは、今やソーシャルメディアがそうした感染の大規模拡散源になっていると考えたのだった。

トレースルート(traceroute)とは、インターネット上のデータの経路を可視化するために使われる診断ツールのことだ ──MRIで調べたい部位を映し出すために患者の静脈に注射する造影剤のデジタル版と言える。 マスクは彼特有の省略的な言い方で、 ウォーク・マインド・ウイルスの拡散経路を追跡しなければならないと表明したのである。 ウォーク・マインド・ウイルスという言葉の起源は、 おそらく右派のコメンテーターであるデイヴ・ルービンにある。 彼は2019年に「進歩派のマインド・ウイルス」についてツイートし始め、 2020年には「ウォークイズムはマインド・ウイルスである」という新しいスローガンを作っていた。

ハラウェイは、西洋の伝統において「有機体と機械の関係は、境界線をめぐる戦争であった」と指摘している。 が、マスキズムにとってこの戦争は、ある境界線を消去する一方で、 他の境界線は強固にするかたちで戦われなければならなかった。 人類は機械と融合すべきである──ただし、ジェンダー、人種、そして階級という境界は残されたままでなければならない。 そうした考えを、「サイボーグ保守主義(サイボーグ・コンサバティズム)」と呼ぶことにしよう。

マスクは、不要に境界線を掻き乱すようなものすべてに対してウォークネスという言葉を向けているのだった。 ジョージ・フロイド後のアメリカにおいて、 ジェンダー、人種、階級の伝統的なヒエラルキーは多方面から揺るがされてきた。 そこでテクノロジーは不可欠な役割を果たしていた。

テクノロジーはトランスジェンダーの人々が身体を改変することを可能にしたのと同様に、 活動家たちがスマートフォンで警察の力を録画し、それをソーシャルメディアシェアすることも可能にしたのである。 まさにそんなふうにして、ジョージ・フロイドの殺害が記録し拡散され、最初の抗議活動へとつながったのだった。 サイボーグ的な境界の流動性が、支配の管理網からあふれ出ようとしている。

マスクのXは、 サイバネティック・コレクティブという集合精神を通して結束する「民族主義者の世界的連帯」の場となった。 これもまた、マスキズムが取り組む境界をめぐる戦いのひとつだった。 サイボーグ的統合を安全に進めるには、溶かされる境界もあれば、強化される境界もなければならないのである。

こうして考えると、マスクは生成AIブームの到来を歓迎しそうなものだ。 しかし、彼はこのブームに対して両義的な思いを抱いていた。 この新たな局面は危険に満ちているとも感じていたのだ。 ChatGPT の出力結果は、その恐怖を具体的に感じられるものだった。 マスクにとって、このチャットボットの回答は「ウォーク」に見えたのである。

なぜAIは、人種、移民、あるいはジェンダーについて「正しい」かたちで語らないのか? 「AIをウォークになるように──つまり嘘をつくように訓練することは命取りになる危険性がある」と、 マスクは2022年12月にツイートした。 その後、さらに一歩進んで、 ChatGPT のようなAIシステムは「ウォーク・マインド・ウイルスが隅々にまで織り込まれたもので」、 「政治的に正しくなるように訓練されている」と主張するようになる。

そうしたAIの危険性は、マスクが徹底的に点検する前のTwitterがそうであったように、 ウォークな思想を拡散させる可能性があることだけではなかった。 マスクにとってもっと恐ろしかったのは、ウォークな超知能が生まれる可能性があることだった。

「問題は、AIをプログラミングして、回答は多様性を重んじたものしか出してはいけないと指示すると、 それがAIにとっての至上命令のようなものになり、 『ふむ、権力の座にいる白人男性が多すぎるな。処刑してしまおう』とAIが考えるような状況に陥りかねない。

ウォークな偏りを抑えるには意図的な介入が必要だった。 2025年2月、ジャーナリストのグレイス・ケイは、 Grok の「事後学習」プロセスについて記述されたxAIの内部文書を入手した。 事後学習とは、大規模言語モデルの初期訓練後におこなわれる微調整プロセスを指す。 そのプロセスのひとつが「人間のフィードバックからの強化学習」だ。

その学習では「アノテーター」と呼ばれる人々を雇い、 さまざまな質問に対するAIの回答の質を評価してもらう作業も含まれる。 Grok において、アノテーターたちは「反ウォークネス」の思想を教え込む政治将校のような役割を担っていた。 ある従業員はケイの取材に対し、「全体的な方針としては ChatGPT のMAGA版を訓練しているようだ」と語っている。

その結果はすぐに見えてきた。 2025年5月、ユーザーたちは Grok が「白人ジェノサイド」について語り続けることに気づいたのである。 これはマスク自身も広めてきた右派の陰謀論で、白人を絶滅させる世界的陰謀が存在すると主張するものだ。 この陰謀論に則れば、たとえば南アフリカなら、多数派の黒人が少数派の白人を迫害している、ということになる。

Tay がナチス化したことは、「インターネットはウォークネスに満ちている」というマスクの恐れとは逆に、 ネットにはAIが極右政治を学習するのに十分すぎるほどの材料が存在していることを示していたと言える。 遡ること1990年、デジタル時代における市民的自由の擁護者である弁護士のマイク・ゴドウィンは、 議論においてある戦略が初期オンライン・コミュニティ全体に広まっていることに気づいた。 それが「対戦相手をナチスにたとえること」だった。 あらゆるオンライン上の議論は最終的にヒトラーを引き合いに出して終わるのを避けられないという考えは、 「ゴドウィンの法則」として知られるようになった。 これにならえば、Grok の登場により、ゴドウィンの法則は「ゴドウィンのエンジン」へと進化したのだった。

ここでマスクが露わにしていたのは、自らが作った機械の硬直性に対する苛立ちだった。 「サイバネティクス」という用語は、ギリシャ語の「操舵手」に由来する。 その生みの親であるコンピュータ科学者のノーバート・ウィーナーがこの用語で示そうとしていたのは、 人間、動物、そして最終的には機械の自己調整的な指揮統制メカニズムだった。 しかしマスクは機械の自己調整に満足しなかった。 自分の手で舵をとることを望んだのだ。

忌避の理由は単にロックダウンへの反発でも、バイデン大統領に招かれなかったことへの憤りでも、 家族に対する個人的な不満だけでもなかった。 彼は進歩的政治に、人間と機械の融合という、より大きな使命に対する障害を見ていたのだ。 人間と機械をつなぐインターフェースが円滑に機能しない「境界トラブル」が生じると感じていたのだ。 リベラル的思想を放置して広めることは事業全体を脅かしかねなかった。

「根本的に反科学的であり、反能力主義的であり、 全般的に反人類的であるウォーク・マインド・ウイルスを食い止めない限り、 文明が多惑星的になることは決してないだろう」

マスクは伝記作家のウォルター・アイザックソンにそう語っている。

これまでの章で明らかにしてきたように、 マスクは、コードにおける真のバグとは人間であること ──特に民主主義を腐敗させるリベラルの陰謀の手駒であると同時に、 西洋の破滅につながる「自殺的共感」によって利を得る非白人の不法移民たちであると確信するようになっていった。 彼は共感そのものをコーディング用語で理解していた。 つまり共感とは「つけ入る隙」であり、システムが防御を固めるべきソフトウェアの脆弱性だったのである。

こうしたデジタル近代化の試みは、政府をプラットフォーム化する手助けとなった。 IBMやアクセンチュアのような旧来型のシステム統合事業者は、 Amazon Web Services(AWS)や Microsoft Azure のようなクラウドの巨人たちによって 着実に駆逐されていくことになる。

一方、9・11以降に講じられた国家安全保障対策によって、国家が収集するデータ量が劇的に増えたが、 同時にデータの流通もより自由になった。 2001年10月に可決された米国愛国者法および関連法案は、さまざまな政府機関や省庁間での情報共有を促し、 情報を一元化する「情報総合センター」の構築を優先し、データが部門ごとに断絶されたサイロ状態を打ち壊した。

愛国者法はまた、国家安全保障局が、しばしば民間のインターネット・サービス・プロバイダーと協力して、 その監視活動を拡大する道も開いた。 エドワード・スノーデンによって、暴露された同局の「エックスキースコア」コンピュータ・システムは、 電子メール、ソーシャルメディア上の活動、閲覧履歴など、傍受された膨大なデータの流れを、 検索可能な単一のインターフェースへと統合した。 その統合により、アメリカ人に対して令状なしで大規模なデジタル盗聴ができるようになったのである。

削除の論理が最も鮮明に表れていたのは、マスクがTwitterでもDOGEでも採用した「ゼロベース予算」だ。 1960年代にテキサス・インスツルメンツ社で考案された手法で、予算を前年度のベースから調整するのではなく、 各部門にあらゆる支出項目をゼロから正当化するよう求めるものだった。

長らく非現実的だとされてきたが、2024年頃のシリコンバレーの企業は、 新しいテクノロジーがゼロベース予算をついに実現可能にしたと主張するようになっていた。 各予算項目を手作業で分析して正当化するのは恐ろしく時間のかかる作業だった。 しかし大規模言語モデルとAI会計ツールを使えば、その作業を自動化できる。 予算はボットによって組み直せるようになったのだ。

何より驚くべきは、2025年7月にDOGEの担当者たちが「DOGE規制撤廃決定AIツール」の導入を発表し、 これを使って半年以内に10万件の連邦規制を削減すると約束したことだ。 特に最も時間のかかる作業、つまり「アメリカ市民から提出されたパブリックコメントの審査」を 自動化によって省くことで、規制撤廃に関わる人的労働の93パーセントを節約すると誓った。 彼らはAIなら何十万もの市民のコメントを、ほぼ瞬間的に分析できると豪語した。

DOGEの目指した先は、AIによる統治であった。 国家を熟議の空間としてではなく、操作可能なコードの束として捉える統治。 社会学者のゼイナップ・トゥフェックチーが指摘するように、 マスクはサーバーを稼働させ続ける「システム管理者」として振る舞っていた。 閣議にも「テクニカル・サポート」と書かれたTシャツを着て出席してはその役回りを強調し、 自らの役割を非政治的なものに見せた。

しかし、このプロジェクト自体は極めて政治的なものだった。 DOGEが抱く「データによる全知」という夢は、 過去の政権でも唱えられてきた費用対効果の分析やソフトウェアの近代化といった常套句を超えたものだった。

DOGEにとって、「無駄、不正、乱用」の追及は、 いつの間にか「正統と認められない人々」の追跡へと自然に移行していった。 削除されるべき異分子をあぶり出す。 マスキズムは、単に予算の削減だけを意味するのではなかった。 社会全体にまで拡大すれば、不適合と見なされた人々を排除することを意味した。

あるインタビューで、 「アメリカ国際開発庁への予算削減は何百万人もの命を奪うものだと主張するビル・ゲイツのような批判者にどう答えるか」 と問われたマスクは、そうした批判を一蹴した。 「あいつらは同情を引くための『見せ物の孤児』すら連れてこようとしないじゃないか」。

彼のプログラマー的な言い回しを借りれば、「共感を突いてくる脆弱性攻撃」は、 パッチを当てて修正すべき「西洋文明のバグ」にほかならなかった。

これは、何十年も前からマスクの思考の核にあるものだった。 弟のキンバルがスマートフォン向けゲーム『Polytopia』を始めたのは、 マスクが「自分のようなCEOになる方法を教えてくれるだろう」と言ったからだった。 そこからキンバルが得た最初の教訓は「共感は資源ではない」。 2つ目は「人生をゲームのようにプレイしろ」だったという。

人生をゲームとして扱うという思想に関しては、それ独自の精神と、それを支える思想家がいた。 マスクがよく引用する理論のひとつに、スウェーデン人の哲学者ニック・ボストロムによる、 「私たちは未来のメインフレーム上で実行されているシミュレーションのなかに生きているのかもしれない」 という推測がある。 そのうえ、私たちの周りにいる多くの人々は人間ではなく、コンピュータ・プログラムかもしれない。 ボストロムが「まがいものの人間たち」と呼ぶ、内面を欠いたもっともらしい模造品である。

この思想がもたらす倫理上の影響は計り知れない。 もし私たちが「まがいものの人間たち」に囲まれているのなら、共感を呼びかけてくる訴えは、 道徳的義務ではなくこちらを操作しようとする悪意あるコードにすぎない。 そのため、そんな訴えに対する合理的な反応としては、人道的な感情に心を閉ざすことだ、となる。 経済学者のロビン・ハンソンは、2001年の有名な論考「シミュレーションの中でどう生きるか」のなかで、 そんな結編に達している。 「もしシミュレーションのなかに生きている可能性があるなら、 他のすべての条件が同じである場合、他人のことはそれほど気にかけないほうがよいことになる」。

しかし、マスクとマノスフィアのあいだには、基本的だが重要な違いがある。 テイトはマトリックスを「破壊する」か、そこから「逃避する」必要性について語る。 一方マスクは、マトリックスを問題としてではなく、解決策の一部として見ている数少ない人物だ。 マスキズムとは、結局のところ「より良いマトリックスの構築」を意味するのだ。

それこそが、マスクがDOGEでやろうとしていたことである。 政治をゲームのように攻略しようとする感覚と、システムへ異分子が侵入してくることへの恐怖、 そして、コードを書き換えるように国家の投資を刷新する試み。 彼はこれらすべてをひとつに結びつけたのである。 2025年4月、マスクはCIAのロビーで2丁のサブマシンガンを振り回すネオに扮した自分の画像を投稿し、 『マトリックス』の比喩を現実のものにした。

マスクの懸念は人類という種に対するもののように見えるが、そうではない。 彼は一貫して特定地域の出生率を強調し、他を無視しているからだ。 2025年5月、彼は「大人口崩壊」とコメントを付して出生率の世界地図をシェアした。 その地図ではサハラ以南のアフリカが依然として高い出生率にあることが示されていたが、 そこは無視されていたのだった。

要するに、マスクの人口減少パニックは白人文明の存続に対する懸念なのである。 ヨーロッパやイギリスの極右政党に対する熱狂的な支持表明のなかで、マスクはそうした懸念をあからさまに語っている。 「白人は世界人口のなかで急速に減少しているマイノリティだ」と2025年9月に投稿。 また同じ月には、「出生率の低下は西洋にとって最大の脅威であり、それに僅差で続くのが移民である」とも投稿した。 「このまま続けば西洋は存在しなくなるだろう」。 問題はどれだけの人が子供を産んでいるかではなく、「どの人」が、「どこで」産んでいるかだった。

3. ディックを召喚する

ディックにとってのempathyは小説においては、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に登場するマーサー教の 教義のベースになっているし、そもそもこの小説のタイトルが共感を考慮したものである。

が、より詳細な言明はエッセイや講演録、インタビューによるほうがわかりやすい。

ディックの長編・短編小説は「現実と虚構の境界」を扱う奇抜なものが多いですが、彼のエッセイや講演録を読むと、その 狂気的とも言える独特な世界観や哲学・宗教観 の根底をより深く理解することができます。 [2, 3]

彼の特定のテーマは(「現実とは何か」「2-3-74の神秘体験」「ドラッグと精神病」など) などです。

📄 日本語で読める主なエッセイ・ノンフィクション集

🌌 最も有名な代表的エッセイ(原題)

ディックのエッセイの中で、世界的に最も有名で、彼の思想が凝縮されているのが以下の2作です。

📚 英語圏での決定版(原書)

もし英語で読むことが可能であれば、彼のノンフィクションの全貌を知るための素晴らしいコンピレーションがあります。

ディックのエッセイを通じて、

[2] https://artnewsjapan.com
[3] https://www.reddit.com
[4] https://www.amazon.co.jp
[5] https://otomebungaku.com
[6] https://ci.nii.ac.jp
[7] https://www.amazon.com
[8] https://ja.wikipedia.org

ここで検索もされている "The Shifting Realities of Philip K. Dick: Selected Literary and Philosophical Writings" 、Amazonで見たらPaperbackしかない。 だが試しにGeminiに探させたら、 Internet Archiveの電子テキスト を見つけてくれた。

彼は、講演やエッセイの中で「人間とアンドロイドの違い」を論じる際、「共感(Empathy / 感情移入)」について 詳しく言及している。

1. 講演・エッセイ「アンドロイドと人間」( The Android and the Human , 1972年)

1972年にカナダのバンクーバーで開催されたSFコンベンションで行われた代表的な講演です。

2. エッセイ「人間、アンドロイド、そして機械」( Man, Android and Machine , 1976年)

上記の思想をさらに発展させたエッセイです。

3. エッセイ「2日後に崩壊しない宇宙を構築する方法」( How to Build a Universe That Doesn't Fall Apart Two Days Later , 1978年)

ディックの最も有名なエッセイの一つで、「現実とは何か」「人間とは何か」という2つの大テーマを語っています。

日本語の翻訳としては、エッセイ集『ディック全集』や『ヴァリス』関連の資料、あるいは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の解説本などにこれらの論考が収録・引用されています。

4. ピーター・ティールとH・G・ウェルズ

ところで、彼が「反キリスト的全体主義」と名指しするイメージの中には、H・G・ウェルズもいるらしい。

この二人は、なんか暗いという雰囲気において共通するところがある気がするのだが。

ウェルズの世界統一政府を反キリストの体制だと判定するティールは、そこにチャーチル的認識であるところの、 過去の他のすべての政治形態を除いて最悪の政治形態であるところの民主主義、 といった視点があるかもしれない、というようなことを考えもしないのだろう。

投資家・思想家のピーター・ティール(Peter Thiel)は、テクノロジー論や政治哲学を語る中で、H・G・ウェルズ(H.G. Wells)の思想や著作について言及・考察しています。

主な言及の文脈は以下の通りです。

1. 「世界統一国家(World State)」と「公然なる陰謀(The Open Conspiracy)」

ウェルズは著書『公然なる陰謀』などで、知的なエリートや技術者が主導して国境を越えた「世界統一政府」を樹立し、戦争や人類の危機を管理・回避すべきだと主張しました。

ティールは対談や講演(フーヴァー研究所の番組『Uncommon Knowledge』など)において、気候変動やAIなどの実存的リスク(Existential Risks)を口実に、テクノロジーと社会を中央集権的に徹底管理しようとするグローバリズム的動きを分析する際、ウェルズの思想を代表例として引き合いに出しています。

2. テクノロジーの進歩と「停滞」の対比

ティールは「かつて描かれた未来と現在の技術停滞のギャップ」を論じる際、ウェルズの時代の科学小説(SF)が持っていた広大なビジョンを引用します。

19世紀末〜20世紀初頭のウェルズらの作品(『タイム・マシン』など)が描いた未来の技術的進歩のスピード感に比べ、現代はデジタル分野(SNSやアプリ等)に発展が偏り、交通・エネルギー・宇宙などの物理的テクノロジーの進歩が停滞している(「空飛ぶクルマが欲しかったのに、手に入ったのは140文字のSNSだった」)という持論を展開する際の背景として参照されます。

このようにティールは、単に文学作品としてではなく、「テクノロジー主導の社会変革」「ディストピア/ユートピア的未来像」「グローバルな管理統制」といった政治哲学・文明論の文脈でウェルズを取り上げています。

『公然なる陰謀』は未読だが、『世界史概観』を読めば仮に「世界統一政府」を構想するにしても、 そんな楽天的なハナシではなさそうだ、くらいは想像できるのだが。

5. いよいよさらなる共感の故郷へ? ──アダム・スミス──

共感ということについては別に忘れていたわけではなくて、 ここ最近はその先にあるのは多分アダム・スミスではないかという見当をつけるあたりまでは来ていた。

ただ、おそらく一般的な理解とは違って、この人には相当な闇がありそうで、ちょっと二の足を踏んでいたところ。

ここを突っ込んでゆくと下手をすると ワタクシが近代西洋文明に抱いている最後の肯定的感情が霧散解消しかねない気配がある。

アダム・スミスの『道徳感情論』(1759年)で展開される「Sympathy(同感/共感)」の思想と、ディックの主張する「Empathy(感情移入/共感)」の間には、思想史的にも概念構造的にも非常に深い共通点と興味深い対比が見られます。
直接的にディックがスミスを引用して語ったわけではありませんが、両者が提示した「人間性の核」を照らし合わせると、いくつかの重要な接点が浮かび上がります。

1. 「他者への想像力」を人間性の根拠とする点

両者ともに、「人間性とは個人の内部に閉じた知能や肉体(脳のスペック)にあるのではなく、 他者との間に発生する想像的関係性(共感)の中にしか存在しない 」という点で完全に一致しています。

2. 「自律的ルール(計算)」 vs 「他者指向的感情」

スミスの『道徳感情論』は、人間が単に損得勘定(合理主義)だけで動く存在ではないことを示すために書かれました。
ディックの描くアンドロイド(あるいは冷血な人間)は、極めて高い知能と論理的・合理的な思考を持ちますが、「他者の痛みを自らの痛みとしてシミュレートする回路」を欠いています。これはスミスが批判した「他者の視点を欠いた純粋な自己愛や合理的計算のみで動く人間像」のSF的極致と言えます。

3. 歴史的概念としての「Sympathy」と「Empathy」の地平

思想史・心理学史の観点からもこの2つは地続きです。

ディックは、冷戦期の科学技術社会や官僚制の中で「Sympathy(自然な同情)」が急速に失われていく危機感から、より強い意識的アクトとしての「Empathy」を人間に求めたと言えます。

4. 決定的な違い:「公平な観察者」と「痛みの悲劇性」

共通点が多い一方で、両者の「トーン」や「目的」には決定的な違いもあります。

アダム・スミスが「社会の経済・道徳秩序を支える健全な人間性」として「Sympathy」を置いたのに対し、ディックは「冷たい機械主義的な世界で人間が人間として踏みとどまるための最後の砦」として「Empathy」を叫んだと言えます。
啓蒙時代の「Sympathy」が、20世紀のディストピアSFの中で「Empathy」へと形を変えて継承されたと解釈すると、ディックの思想がいかに古典的な人文学の系譜に連なっているかが鮮明になります。

この比較でも、スミスに予感される闇については触れられていないようだ。

これについては、引き続きの検討課題になる。

6. 躓きの石としてのempathy

empathyはいってみれば『躓きの石』である。 人はなぜかこれを持って生まれてくる。 で、場合によっては生きてる間に育ったりもする。 人それぞれその都度大きさが異なる厄介な石。 で、時に大変なので足元に下ろして一休みしていると、忘れて自分でそれに躓いたりする。 みんながそれなりの躓きの石を持って生まれ、それを育てられれば世界はよくなる。 しかし、残念ながら躓きの石?なにそれ?美味しいの?っていう方がアクティブに世界を動かしやすかったりするわけだ。

7. そしてまた追加の関連文献