読書中であった。
- 『 世界史の中の明治維新 なぜ日本は「帝国」を目指したのか 』 加藤聖文
判断基準は、朝貢国の存在です。 中国の周辺諸国が皇帝を慕ってやってくる、いわゆるどれだけ多くの国が朝貢をしてくるかということが、 徳を測る上で重要になります。 要するに、力を使って強引に朝貢させるのではなく、何もしなくても勝手に向こうからやってくるということです。 それこそがまさに皇帝の徳の現れであり、朝貢国の数が皇帝の徳を表す指標となります。 逆に、朝貢国が櫛の歯が欠けたようになっていくことは、それだけ皇帝の徳がなくなってきたということを意味したわけです。
小笠原諸島は誰も住んでいない無人島でしたが、 船泊まりとして最適だということで欧米の捕鯨船が立ち寄るようになり、 やがて船員たちが入植するようになりました。 小笠原諸島に最初に定住したのは、実は欧米人だったのです。
領土概念の変容によって、伝統的な冊封体制がヨーロッパ的な国家関係に読み換えられていき、 その結果、冊封国を従属国と見なすようになりました。 朝鮮は清の従属国となったのです。 ヨーロッパ的に考えれば、これは半植民地のような存在でした。
ちょうど朝鮮の改革派と保守派の権力争いが激しくなり、日本との関係をどうするかを議論しているあいだに、 清のほうも朝鮮に対する見方が変わってしまった。 それまでの伝統的な冊封関係は崩れ、 従属国という意識に置き換わった清は、これまでとは打って変わって、朝鮮を従属国として扱うようになったのです。
清から獲得した賠償金で製鉄所を建設した日本は、いよいよヨーロッパと同じように鉄を生産できるようになりました。 日清戦争を経て、農業国から工業国へとステップアップする下地ができたのです。
一方、南の担当エリアにはベトナムがあり、台湾もそこに含まれています。 こちらは季鸿章の縄張りではなく、別の軍閥の縄張りでした。 日清戦争で打撃を受けた李鸿章にとって、このままでは清朝内での政治権力は相対的に低下することになる。 そこで台湾を日本に割譲し、自身の政治的ライバルに打撃を与えようと考えたわけです。 これが台湾割譲の裏側でした。
なぜ、こんなに簡単に領土を明け渡すことができたのか。 当時の清は国民国家ではありません。 つまり、領土は国家ではなく皇帝のものなので、 政治指導者は領土を失うことよりも、自身の政治権力を失うことを何よりも恐れていた。 そのため、外国に領土を切り売りするようなことも平気だったのです。
もともと台湾は中央政府の目が届きにくいため、自治的な組織が発達していました。 清朝時代には三年に一度ぐらいの割合で反乱があって、 一〇年に一度ぐらいの割合で全島を巻き込んだ大反乱が起こっていました。
台湾は日本がはじめて獲得した植民地です。 ただし、台湾は感染症が蔓延し、反乱が頻発する厄介な土地でした。 日本は台湾総替府を置いて、台湾統治に当たらせました。 統治の基本政策は単純で、要は力で押さえつけるのです。
統治の責任者である台湾総督は有力な軍人が就きました。 三代目の総督は日露戦争の旅順攻略で有名になる乃木希典です。 乃木は一年ほど総督の任についていましたが、この時期が反乱のピークでした。 彼の対策はことごとく裏目に出て、植民地経営が大混乱に陥ります。
乃木の後を継いで総督になったのが児玉原太郎でした。 その児玉が自らの右腕として連れてきたのが後藤新平です。 これ以降、統治がようやく安定していきます。
しかし、こうした外国の改革を後押しして提携しようという動きはあくまで民間主導であって、 日本政府はいつも冷淡でした。 日本の外交政策は真っ正直なところがあって、ずる賢さがありません。 国益追求のために民間をうまく利用しながら、相手国の政府と反政府勢力に二股をかけるという芸当はできなかったのです。
康有為とその弟子の梁啓超は戊戌の変法の失敗後、日本に亡命します。 すると康有為に対して清から「政治犯だから引き渡せ」と言われました。 適当にはぐらかせばいいものを、日本政府はその要求に真面目に対応し、康有為を国外追放してしまいます。
日本では漢字が使われているので、中国人にとっては日本の書籍は比較的理解しやすいところがありました。 日本では明治以降、さかんに西洋で出版された本を翻訳しており、梁啓超はそこに目をつけます。 英語やフランス語、ドイツ語などの西洋諸語を中国語に翻訳するより、 日本語に翻訳された西洋の書物を中国語に翻訳したほうが効率的だと考えたのです。
当時の日本人には漢文の素養がありました。 漢文の素養がある人たちによる翻訳だったので、中国人も理解しやすい。 こうして日本経由で西洋思想が中国にもたらされます。 憲法や社会主義、共産主義といった、いまでも中国で一般的に使われている用語は、 実は日本から逆輸入された漢字です。 梁啓超が翻訳した書物を通して、中国の若者たちは西洋の思想を学んでいきました。 その知識が中国革命へとつながっていきます。
梁啓超は日本のように、中国というひとつの国民国家をつくらなければならないと考えていました。 そのためには国民意識を醸成し、国民を統合する概念が必要となります。 それが「中華民族」だったわけです。 中華民族の覚醒によって国民国家が生まれるという論理が、梁啓超の頭の中にはありました。
中華民族という概念は、やがて中国ナショナリズムへと発展していきます。 そして、この中国ナショナリズムの勃興が日本との衝突の切っ掛けになります。 梁啓超が必死になって日本の文物を翻訳して、「中国人、目覚めよ!」と呼びかけた先には、 日中戦争という結果が待っていたというのは皮肉な話です。
義和団とは、一種の民間宗教団体です。 拳法(義和拳)を身につければ刀も切れない肉体を得られると言い、徹底的に西洋文明を排斥しようとしました。 この当時、清朝政治下の生活苦は西洋がもたらしたものであると、民衆は考えていました。 その生活苦の原因は西洋の進出であり、キリスト数から鉄道に至るまで、 西洋文明をすべて排除すれば生活はもとに戻ると義和団は唱え、民衆の支持を集めました。
こうして義和団は武装蜂起するとたちまち勢力を拡大して、半年後には北京にまで攻め入ります。 清は義和団を鎮圧することができず、あろうことか西太后らは義和団を利用しようと考えました。 一九〇〇年六月、その勢いのまま英仏米露などに対して宣戦布告を行ったのです。
しかし、日本を含めた八ヶ国連合軍がたちまち北京に進攻。 西太后らはその前に慌てて義和団を反乱軍として切り捨てましたが、 一九〇一年九月に連合国と北京議定書を結ばされます。 賠償金の支払い、および北京と天津における外国軍隊の駐留を認めることになりました。 清は完全に列強の食いものになったのです。
義和団の勢力が広がったエリアのひとつが満洲でした。 なぜ満洲で勢力が大きく広がったのか。 満洲で働いていた労働者の多くが山東半島出身者であり、山東半島こそが義和団の本拠地だったからです。
満洲の労働者の多くが地理的に近接した山東半島からの出稼ぎでした。
朝鮮や清に対しても違った見方を持っていました。 第一世代の伊藤たちは、幕末の影響も受けてあからさまな優越感を抱いてはいなかった。 しかし自信満々の第二世代の人たちは、自分たちは成功者であり、朝鮮や清は落伍者であると見なしていた。 自分たちが東アジアを支配するのは当たり前だという感覚を持っていたのです。
日本はこの戦争で満洲に足を踏み入れ、ロシアからさまざまな権利を譲り受けました。 そうして手に入れた関東州と南満洲鉄道株式会社(満鉄)ですが、 そもそもは清からの借り物なので、いつかは返さないといけない。 これはのちに日中間で大きな懸案事項となります。
関東州にある大連や旅順の港は、インフラなのでそのまま活用することができます。 それに対して、鉄道は会社として経営する必要がありました。 ましてや赤字を垂れ流すようでしたら単にお荷物になるだけです。 満鉄に関して、日本はロシア時代の鉄道経営の実態をきちんと調べていませんでした。 会社の基礎データもなければ、どう利益を生むのかもわからなかったのです。
日露戦争のとき、日本は諜報活動が優れていたという俗信があります。 陸軍軍人の明石元二郎のようにヨーロッパにおいて反体制派を支持することでロシアを揺さぶったり、 満洲やシベリアで諜報活動を繰り広げたりしていた、と。
ですが、諜報活動の要諦はそうしたドラマティックなことではありません。 本当に重要なのは、基礎データの収集です。 その点において日本は落第点でした。 何もわからない鉄道路線をロシアから引き渡されて、初めて現実に気が付いたのです。
……
現実を熟知していて算盤勘定のできる人からすれば、 「大陸での鉄道経営の実績もない上に、 しかも日本政府の財政事情から見ると、とても単独で鉄道経営などはできるわけがない」となります。
そこで出てきたのが日米合弁、すなわち日本とアメリカで共同経営するという案でした。 日米関係はうまくいっているし、アメリカも満洲への資本進出を望んでいる。 何より重要なのは、アメリカは自身の経験から大陸鉄道の経営ノウハウも持っていました。 日本側からしても、アメリカを鉄道経営に参画させれば、 ロシアも迂闊に手を出せなくなり、安全保障上のメリットがあったのです。
示し合わせたかのように、エドワード=ハリマンというアメリカの鉄道王が来日しました。 ハリマンはアジアからヨーロッパに至るまで鉄道を広げようという、気宇壮大なプランを練っていました。
そのハリマンが考えたのが、 「満洲の鉄道を日米合弁で経営し、さらにはロシアの鉄道にもアメリカが資本参加する。 そうすれば、アジアからヨーロッパにかけて一大鉄道網ができる」というプランでした。 いかにもアメリカらしい巨大な構想です。
……
しかし実際にふたを開けてみると、満鉄は半官半民の株式会社として誕生します。
後藤は大きな不満を抱きました。 これでは民間企業であって、中途半端なことしかできない。 総裁になってくれと言われても、最初は首を縦に振りませんでした。
なぜ、半官半民の会社になったのか。 そこには、民間企業にせざるを得ない理由がありました。 前述したように、満州の主権はあくまで清にあって、同じく満鉄も借り物です。 外国の領土に国家機関を堂々と置くことはさすがに問題になります。
半官半民の株式会社として、清に住む人たちでも株主になることができるような体裁を取る必要がありました。 もちろん株式の半分は日本政府が握っていますから、 それ以外の株主が経営に強い影響力を及ぼすことはできないわけですが。 特殊な「国策会社」がここに成立します。