読書中であった。
- 『 チャーハンという迷宮 なぜ国民食になったのか 』 石田かおる
当時「支那料理」と呼ばれた中国料理は西洋料理に比べ大きく出遅れた。 1907(明治40)年出版の『日常生活衣食住』はその理由を5点挙げ解説している。
一 羹汁の濃厚に過ぎたること 二 燕窠魚翅の如きは邦人よりして珍味なれども美味ならず、 又支那食の主たる物料の豚肉は、牛肉程邦人に賞味せられず 三 洋食の如く割烹に関する著書なし 四 西洋の文物を吸収するに勉めたる結果、その風俗をも吾に取入れたれども、 支那は吾に学ぶべきもの多く、吾の彼に学ぶべきもの少きこと 五 支那を侮蔑する観念あること
神保町では「漢陽楼」と「揚子江菜館」の2店が今も営業を続けている。 1911(明治4)年創業の「漢陽楼」は、留学生対象の賄い付きの下宿としてスタートした。 初代店主の顧雲生は来日後ロシア銀行で賄いの仕事をしていたが、 日露戦争をきっかけに職を失い、留学生たちにすすめられ下宿を始めた。
山田は調味料を解説したページで、自身の料理法では「味の素」をよく使うと書いている。 だが、それは料理をことさら日本化するためではなく、中国で盛んに使われているからだと説明。 「試みに(中国の)大官の厨房、飯荘の調理場を覗けば、その一隅に必ず味の素の缶が備へてあるのを見出します」。
「味の素」は1908(明治4)年、化学者の池田菊苗が発見したうま味成分「グルタミン酸」を商品化したもので、 1909(明治42)年に販売開始し、1914(大正3年)には中国に特約店を設けている。 山田が「一商店の製品がよくもあれ程に普及したものだと感心する程です」と言うほど普及のスピードは速かったようだ。
近藤とし子による『一日一回フライパン運動』の回想より。
これはもともと、『もっと油脂を摂ろう』という考えから始まったものです。 第二次大戦後、米が十分作れず、人々が飢えていた時代、 GHQは米の代わりに同じカロリー数に相当する砂糖を配給しました。 当時厚生省に勤めていた私が日本人にとって米は主食であり、砂糖は調味料であるといくら抗議しても、 文化の違いからか受け入れられません。