読書中であった。
- 『 戦国北条氏-関東の覇者、五代一〇〇年の軌跡 』 山口博
江戸城攻略後の大永四年(一五二四)四月、氏綱は相模当麻宿に制札を下し、 小田原・玉縄と武蔵の石戸と毛呂とを往復する者のうち「虎印判を持たない者」(関山文書)への伝馬の供出を禁じた。 伝馬は、使者の往来や物資の搬送等の便宜のため、 その出発地から目的地までの一定区間の街道上の宿で輸送業を営む者に、課役(伝馬役)として供出させた馬である。
四月一七日、氏康は江島弁財天に神馬を奉納し重ねて戦勝を祈念した。 河越へ向かう途上のことである。 その進軍は電撃的で、河越近くの砂窪へ着陣したのは同月二〇日、 まずは改めて晴氏に城兵の助命と城の明け渡し等を申し入れた。 しかし晴氏は聞く耳を持たず、交渉は決裂する。 そしてほどなく包囲軍が砂窪の北条軍に殺到、氏康方も応戦して、史上に名高い河越合戦の幕が切って落とされた。 詳しい戦闘の経過は知られていないが、結果的に勝利したのは氏康で、 晴氏は古河、憲政は本拠の上野平井城(群馬県藤岡市)へと退去し、朝定は討死する。 氏康は同日のうちに朝定の本拠松山城(埼玉県吉見町)も奪い、重臣の垪和伊予守を入れた。
武田信玄が小田原に来襲する直前の永禄一二年(一五六九)八月、 氏政は相模徳延(神奈川県平塚市)の百姓に小田原城普請のための大普請役を課した。 貫高基準の賦課を超える「臨時の御普請」であり、 それゆえ氏政は「迷惑ではあろうが、第一に御国のため、第二に私(百姓自身)のためであるから、 百姓らも奉公すべきである」と百姓を説得し、「(国が)静謐すれば御情けを加える」とも付け加えている。 「私のため」とあるのは「御国」のための働きが百姓の生活基盤である村の平安にもつながることを訴えたものであろう。
天正一〇年(一五八二)一一月、秀吉は織田信雄を織田家の家督に据えていた。 柴田勝家とくみして三法師を手許に囲う織田信孝への対抗措置であり、 翌年のこの年四月には、信孝・柴田を討ち、織田政権内での主導権を確立している。 一〇月、その秀吉からの先の書状に接した家康は、 翌月、これを添えた書簡で氏政に「関東惣無事について、秀吉からこのように申してきた」(「武州文書」)と報じ、 上野在陣中の氏直にも、その旨を伝えて熟考の上、対応するよう求めている。 氏直は一一月初旬には帰陣の途についたとみられるが、これへの北条側の反応は明瞭でない。