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『世界史のミカタ』 井上章一, 佐藤賢一

読書中であった

読書中であった。

佐藤 よく、ギリシアの哲学者アリストテレスが、 家庭教師として熱心にアレクサンドロスを教えていたと言われますが、真相は違います。 アリストテレスは、フィリッポス二世の要請でマケドニアに来ましたが、 数年後にはアテネに帰ってしまいました。 アリストテレスですら、マケドニア人は田舎者で野蛮だと馬鹿にし、差別的な発言を平気でしていたのです。

井上 ちなみに、私は今のロシアも民族的にはスキタイがルーツだと思っています。 スキタイは想像以上に領域が広く、その工芸品は中国の南方あたりでも出土します。 のちのモンゴル帝国ほどではありませんが、 黒海、カスピ海の北からアラル海、アルタイ山脈あたりまで行き来していた。 家畜をともない馬で動くから、兵站線の心配がなく、活動範囲は相当広かったと思います。

井上 寄付をするけれども、自分が生きている間は一定の収入がほしい。 そこは同じですが、ワクフの場合、寄進をする相手が社会であった点は異なります。 現在の、公益財団法人に近いものを感じます。 そこそこ財産を持つ有力者にとって、このしくみで自分の財産をいくらか保てるという安心感が、 イスラム教の広がる背景にあったのかもしれません。

井上 新疆ウイグル自治区で暮らす人たちの多くは現代トルコ語をおぼろげながら理解できます。 研究者は、彼らとトルコ共和国のトルコを区別するために「チュルク」と呼びたがりますね。 いずれにせよ、トルコ人が中国の北方から現在のトルコへと押し寄せたことは確かです。 次が、契丹です。「きったん」は日本の呼び名で、ロシアでは「キタイ」と呼ばれています。 余談ですが、キャセイパシフィック航空の「キャセイ」は英語で契丹のことです。

井上 隋や唐は鮮卑族ともつながる王朝です。 もちろん風俗は中国化され、中国の文化・教養に染まっていますが、根っこを辿れば、北方遊牧民です。 いわゆる漢民族の国は漢、宋、明しかない。 あとは漢民族からすれば、異民族の国家なのです。 漢、隋、唐では、長安や洛陽など、黄河流域に都ができましたが、 これらは対北方遊牧民に対する防衛線でもありました。

井上 江戸幕府は、長崎に通詞(通訳兼税関吏)を置きました。 オランダ語や英語の通詞もいましたが、インドのムガール帝国から来る使節に応接するモール通詞がいました。 モールとは、モンゴルのことで、彼らが学習したのもペルシア語です。 つまり、ムガール帝国の行政用語は、ペルシア語だったわけです。

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佐藤 アッバース朝下のペルシアでは、スラブ人女性を奴隷にして売買していました。 当時のスラブ人奴隷は体が大きく、金髪碧眼かつイスラム教徒です。 マムルークという、優秀な少年を奴隷として買ってきて、 教育を施して立派な軍人に育てる慣習もありました。

十三世紀に北インドを支配したトルコ系イスラム王朝が 「奴隷王朝(デリー・スルタン朝)」と呼ばれるのは、奴隷兵士の出身者が王になったからです。 しかも、王が世襲で固定することなく、優秀者が王になって権力を握るという、 ある意味で合理的なシステムだったと言えます。

井上 ちなみに、第二次世界大戦後の西ドイツで、日本人レスラーは善玉でした。 枢軸国の思い出があって、日本人を悪役にできない。 そのため、善玉だと成功しそうもない悪人顔の日本人は、 モンゴル人に失礼な話やけど、モンゴル人ギミックをする。 つまり、モンゴル人のフリをして、悪役になりました。

佐藤 キラー・カーン(本名・小澤正志)は、メキシコでは「テムジン・モンゴル」と名乗ったそうですし、 必殺技「モンゴリアン・チョップ」をテレビで何度も観ましたよ。

井上 キラー・カーンだけではなく、複数のレスラーが、モンゴル人ギミックをしました。 もしかすると、日露戦争以後の日本人が、ヨーロッパ人の「黄色人種は恐い」という印象を増幅させ、 その延長上にモンゴルも恐ろしかったというイメージを再稼動させたのかもしれない。

井上 中国は万里の長城だけでなく、黄河沿いにも防衛線を築きましたが、 これは北方異民族の侵攻を防ぐためだけでなく、人材の流出を食い止めるためでもありました。 北方異民族は中国人の高い教養水準を知っていましたから、 中国に侵攻するいっぽうで財務や文書作成などができる人材をリクルートしました。 そして、中国で志が遂げられなかった野心家たちは、北方異民族のもとで働いた。

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井上 人文的教養のみならず、経済的な知恵の積み重ねや政治的な統治能力などでは、漢民族が秀でていました。 ただし、モンゴルのフビライ・ハン政権は、経済官僚の多くをムスリム(イスラム教徒)から調達しています。 その意味でも、モンゴルは世界帝国だと思います。

井上 売れる官職がこれ以上ないという段階で、 自分も貴族になれると野心をたぎらせていた人の間戸を閉ざしたことが、 革命の引き金になったと聞いたことがあります。

佐藤 それまでの王家は、お金がなくなると新しい官職を作っていたわけです。 それを売りに出すとブルジョワたちが飛びついて、国家の収入も増えた。 ところが、官職がもう増やせなくなり、ブルジョワたちの不満が募る。 そして、王が貴族や聖職者から税を取ろうとして、みんなから総スカンを食ったのが、フランス革命です。

井上 「国民国家」は、国民的同一性を基礎として成立した近代的中央集権国家のことですが、 清朝にすれば中華民族意識に目覚められたら困るのです。 清朝は、満州族も蒙古族もチベット族も漢民族もみな、清朝の人民であるという体制を保ちたかったのです。

佐藤 そこが、日本のチグハグなところです。 日本は海に囲まれた国ですから、本来なら海防をメインに据えた海軍国であるべきです。 イギリスがその典型です。 ところが、日本は武家政権の頃から陸軍国の伝統を持っている。 それが鎌倉時代からか、室町時代からか、戦国時代からかはわかりませんが、 日本の武士は海戦を想定することはほとんどなく、陸戦ばかりを想定していた。 その最たるものが、鎖国を推進した徳川政権です。

佐藤 陸軍軍人だったド・ゴールは第一次大戦後、戦車による機甲部隊を作るよう政府に進言していますが、 フィリップ・ペタン(のち元師、ヴィシー政権の主席)ら軍幹部に一蹴されます。 いっぽう、ドイツ軍幹部はド・ゴールの著書『職業的軍隊をめざして』を読み、 「これからは戦車の時代だ」と認識し、機甲師団を立ち上げます。 ここにも兵器へのとらえ方の違いが見受けられます。

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佐藤 軍部、特に陸軍は、第一次大戦で一変した兵器や、 国の資源を総動員する総力戦という形態に危機感を持ちます。 もちろん、日本政府もヨーロッパの被害状況について把握していましたが、 統計上で理解していただけで、国民的な危機感にはつながりませんでした。 この政府・国民と軍人の意識のギャップは、のちに時代を大きく動かす要因になります。

井上 ナチス党の正式名称が国家社会主義ドイツ労働者党であることからもわかるように、 社会主義を否定してはいません。 ただ、その党歌「旗を高く掲げよ」の歌詞にもあるように、反・共産主義を強く打ち出しています。

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佐藤 また、アウシュヴィッツ強制収容所の門には 「アルバイト・マハト・フライ(Arbeit macht frei) =働けば自由になる」と書かれています。 これは中世ドイツの法的慣習 「シュタットルフト・マハト・フライ (Stadtluft macht frei)=都市の空気は自由にする」をもじったものです。 軽く言えば言葉遊び、重く言えば催眠的効果で惑わしている。 このようにして、ナチスは国民の理性を麻庫させていったのです。

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井上 イタリア王国は教皇側からすれば侵略軍であり、教皇庁は長らくイタリア王国と断交していました。 しかし一九二九年、ファシスト政権と教皇庁はラテラノ条約を結び、和解します。 具体的には、イタリアがヴァチカン市国の独立を認め、カトリックを国教に定めます。 ムッソリーニは労働者の待遇改善へ努めると同時に、教皇を敬う人民の保守的な心性にも訴えかけようとしたわけです。

このラテラノ条約を目で見える形にするため、 ローマを流れるテヴェレ川とヴァチカン宮殿の間にある建物は全部撤去されました。 現在、ヴァチカン宮殿の前に集まる観光客がサンタンジェロ城とテヴェレ川を見渡した時、 そこに広がる町並みは、すべてムッソリーニがこしらえたものです。 イタリアとヴァチカンの和解を象徴する景観なんですね。

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井上 一九三六年のベルリン・オリンピックで使用されたスタジアム (ベルリン・オリンピアシュタディオン)は現在、サッカーリーグのブンデスリーガも試合に使っていますが、 事実上、ヒトラーの建築作品だと私はとらえています。

設計をしたのは建築家のヴェルナー・マルヒですが、 その図面を見たヒトラーは「こんな鉄とガラスでできたモダンな建築を自分は好まない」と言って、ダメ出しをした。 結局、ヒトラーがつけた細かい注文に応えて、修正・完成させたのが、 ヒトラーの寵愛を受けていた、前述のシュペーアです。 シュペーアとマルヒは、徹夜で図面を直したらしい。 設計者としてはマルヒの名が記され、シュペーアの名は登録されていません。 いずれにせよ、ヒトラーの趣味を全開させた建築です。

佐藤 スイスは当時、まだ産業がない国でしたから、傭兵業は外貨獲得手段でした。 そして、ヨーロッパ各地で傭兵業をすることが、一種のデモンストレーションになりました。 「もしスイスに攻めてきたら、俺たちを相手にすることになるぞ」という威嚇です。

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井上 イタリアの場合、 サン・ピエトロ大聖堂やコロッセオ、フォロ・ロマーノ(古代ローマの遺跡)を破壊されることに耐えられなかった。 いっぽうイギリス人は、ビッグ・ベン(国会議事堂に付属する時計塔の大時鐘)なら 壊されてもいいやと思ったのではないでしょうか。 でも、ウェストミンスター寺院の破壊は、気にならなかったのかな。

イタリアは現在でも、町並みや文化を守ることに力を注いでいます。 たとえば、「水の都」として知られるヴェネツィアの水没を防ぐために、海岸に巨大な防波堤をこしらえました。 景観に配慮をして、ふだんは海面下に沈んでいます。 水位が上がると自動的に防波堤も上昇するしくみになっている。 途方もない施設ですよ。 これを、イタリア人は「モーゼ計画」と呼んでいます。

ヴェネツィアの町並みを守るために、ここまでやるのかと驚嘆しますが、 ここまでやる国だからこそ、ローマに爆弾を落とされただけで戦争もやめる決断ができたのでしょう。 つまり、イタリアでは建築という文化資源が戦争継続への抑止力になったわけです。